第7話 ジークの受難

 嵐のようなライルベルトが去ると、家の中は急に静けさを取り戻した。いや、静まり返った室内には床にうずくまったジークの荒い呼吸音だけが響いている。気だるげな目と上気した頬は苦しそうにも何かに耐えているようにも見えた。


「ジ、ジーク様、大丈夫ですか?」


 返事はない。だが代わりに苦しそうな瞳がリリアーネの方を捉える。森の色をした瞳がリーネを映し出した瞬間に大きく開かれ、ジークが弾かれたようにリリアーネから離れた。


「ジーク様?」

「だ、大丈夫だ。少し熱っぽい感じだが寝ていれば治る」

「はっ! 体調が優れないのですね? それでしたらこのリリアーネ、つきっきりで看病して差し上げます。さ、まずはベッドに行きましょうジーク様」


 言いながらリーネがジークの手を取る。そのはずみにリリアーネの柔らかい髪の毛先がジークの手に触れ、ジークがピクリと肩を震わせた。

 次の瞬間にはグッと手を引かれたと同時にぐるりと視界が反転し、リリアーネの視線が真っ白い天井を映す。押し倒されていると気付いた時にはもう、目の前に何かに耐えているようなジークの顔があった。

 

「ジ、ジーク様どうしたんですか?」

「リリアーネ……うさぎになれ」

「え?」

「頼むから今すぐうさぎになって俺から離れてくれ!」


 その言葉に瞬時にうさぎの姿に身を変えたリーネが慌ててソファの下に走り去る。

 恐る恐るソファの下から顔だけをピョコと覗かせると、ジークは頭を抱えながら床に片膝をついていた。


「すまないリーネ……悪いが今日一日はその姿でいてくれ」

「ずっとうさぎの姿になるんですか? ど、どういう意味ですか」

「さっきライルベルトに体をいじられたせいで俺は今惚れ薬を飲まされた状態になっている……このままだと俺がお前に何をするかわからない」

「わ、わかりました! とりあえずジーク様の視界に入らなければいいわけですね。任せてください」


 短いうさぎの手でぐっと拳を握ると、リーネが慌ててソファの下から出て床に転がっている魔女の杖を咥える。そして文字通り脱兎のごとく部屋から飛び出した。

 



 その日は一日中、リーネはジークを避けるようにして生活していた。だがジークのお嫁さんになると言い張って押しかけてきた手前、彼のお世話という仕事を放り出すわけにはいかない。

 杖を持っていれば動物の姿でも魔法自体は使えるようで、リーネは軽食を作ってはソファの下に逃げ込み、風呂を沸かしてはベッドの中に潜り込んでなるべくジークの目につかないように気をつけていた。

 気怠げな表情で日課をこなすジークとは裏腹に、リーネはなんだかだんだん楽しくなっていた。


(これはこれで悪くないですね……)


 コソコソと裏からジークの生活を覗き見るのはなんだか悪いことをしているみたいで意外と興奮する。

 今も昼の見回りを終えたジークが帰ってきたのを見計らって、リーネはうさぎの姿のままタオルと着替えを咥えて風呂場の前まで運んでおいた。

 一応リリアーネにも常識というものが備わってはいるので、いつも覗き行為は控えているのだが、今日に限っては常識と言うものを頭の中からふっとばしておいた。今日一日大好きなジークと触れ合えないのだから仕方ない。

 脱衣所に着替えとタオルを置くと、リーネはうさぎ姿のまま外に出た。トタタッと走って風呂場がある窓に来ると、ぴょんと飛んで窓枠によじ登る。だが窓から不自然に顔を覗かせるうさぎがいれば、たとえ動物と会話ができるジークでなくともバレバレだろう。

 迷ったリーネがキョロキョロとあたりを見回すと、家の側に立っている大木の上に桃色の見慣れた小鳥が一羽停まっているのが見えた。いつもジークの家に来ている動物の一匹で、森に異変があればジークに伝えてくれる鳥だ。時折二羽で来ることもあるが、今大木の枝にとまって羽を休めているのは一羽だけだった。

 その姿にピンと来たリーネは窓枠からぴょんと飛び降り、うさぎの前足で杖に触れる。たちまちのうちに桃色の小鳥に変身したリーネは、パタパタと飛んで桃色の小鳥の隣にとまった。


(あーんやっぱりここからだとお風呂の様子がよく見えますね)


 ウキウキしながら待っていると、やがて風呂に入ってきたジークがシャワーを浴び始めた。さすがに窓枠があるせいで下半身は見えないが、意外と筋肉のついた逞しい半身は見るだけで魔力以外の色々な所が回復するくらいに眼福だ。

 ウキウキしながらジークのお色気シーンを眺めていると、隣に停まっている桃色の小鳥がぴるるると鳴いた。


『あなたね、最近ジークの家に押しかけてきた魔女の子は』


 突然話しかけられてリーネは驚いて辺りを見回した。だが木の下に人間の姿はない。


「もしかして今喋ったのはあなたですか?」

『そうよ、ていうかあなた魔女のくせに私達の言葉がわからないのね?』

 

 可愛い見た目に反して意外と高圧的な小鳥だ。リーネは彼女の姿をしげしげと眺める。


「あなたはいつもジーク様に森の様子を伝えてくれる小鳥さんですよね? ジーク様になにか御用ですか?」

『ハッ。御用ですって? あらあらすっかり奥様気取りね〜。いいえ、別に何も用はないけど、アタシもジークのお風呂姿を覗きに来ただけよ。彼、意外といい体してんのよね〜眼福眼福』

「ええっズルいです! 私だってほとんど見たことがないのに!」

『フフン、良いでしょ。あとアタシはジークの寝顔だって見てるんだから。ここの木からだと彼の日常が余すことなく見られるのよね〜それだけじゃなくてあんなコトやそんなコトも見てるのよアタシ』

「あ、あんなコトやそんなコト!?」


 実際は髪を切ったりだとか、本を読む時は眼鏡をかけているなどの日常の些細なシーンを指していたのだが、リリアーネの幸せな頭は普通にいかがわしい方向に想像していた。ジーク様のあんなコト♡やこんなコト♡の場面を妄想をしてリリアーネの桃色の体が一瞬赤くなる。

 そんなリーネを見て桃色の小鳥、通称モモイロドリはふーんと鼻(?)を鳴らした。


『アンタ、ジークのお嫁さんになりたいんでしょ? 丁度いいじゃない。今彼を押し倒せばアッサリ受け入れてもらえるんじゃないのー?』

「ハッ! 確かに言われてみればそうですね!」


 クスクスと笑うモモイロドリの言葉を受けてリーネがポンと手(翼)を叩く。だがすぐにうーんと体をくの字に曲げた(小首を傾げたつもりだった)

 

「魅力的な話ですけど、でもやっぱり今日はやめておきます」

『あらそう? すごくいいチャンスなのに勿体ない』

「多分ですけど、ジーク様がそれを望んでいないと思うので。今日だってずっと私を遠ざけているわけですし」

『ふーん。まぁそれは彼にとっては多分違う意味なんでしょうけど、まぁいいわ。ていうかアナタそろそろ魔力切れは大丈夫なの? もう日没よ』

「あっ! 確かに私、昼からずっと変身しているのでそろそろまずいかもしれません! じゃあ私は行きますね」

『ハイハイまぁ健闘を祈るわ』


 お互いに片翼をあげて挨拶を交わすと、リーネはパタパタと羽ばたいて一目散にジークの家へと向かって行った。



※※※


 部屋に入ったリーネは慌ててジークの元まで飛んでいった。ここまでの長時間ジークに触れずに魔法を使い続けたのは初めてだ。なんとか時間切れになる前に魔力を回復したいリーネは一目散にジークめがけて飛んでいく。


(迅速に魔力を回復させる為には、やはりここは直肌作戦しかありませんね!)


 リーネの思惑は唯一つ。ジークのシャツの中にインして全身で魔力を受け取ってまた飛び立っていく作戦だ。

 ジークは今、ソファに座って薬草の仕分けをしていた。風呂上がりの為なのか、いつもしっかり上まで留めているシャツのボタンが開いており、彼の鎖骨まわりがよく見える。これ幸いとばかりにシャツのあわせを狙ってリリアーネがダイブしようとした瞬間、ボフンと音がして目の前にジークの端正な顔が映った。


「…………」

「…………」

「…………」

「サプラーイズ♡」


 見事向かい合わせでジークの膝上に乗ったリーネがペロリと舌を出すと、ジークが呆れた視線を投げてくる。

 だがいつもと違ってジークがリーネを退けようとする気配はない。それどころか、リリアーネを見つめる緑の瞳は真っ直ぐで、どこか熱を孕んでいるように見えた。

 まだ強制惚れ薬の効果が抜けきっていないことを悟ってリーネが慌てて立ち上がろうとするが、その前にジークの腕がリーネの腰に回される。そのままぐっと軽く引き寄せられ、二人の体がピタリと密着した。


「お前、よく見ると可愛い顔をしているんだな」

「え? そ、そうですかね? あーまぁよく言われたり言われなかったりしますね、アハハ」

「ああ……それにいい匂いもする」

「そ、そうですかね? シャンプー変えたからかな。あ、ジーク様と同じやつだった」


 これは失敬! などと適当に茶化しているが、ジークの腕が緩む気配はない。これは相当体の数値をいじられたなと内心で焦りを覚えていると、もう片方の腕が伸びてきてリーネの体をしっかりと包み込んだ。

 ジークの逞しい両腕で抱きしめられて、さすがのリーネも息を呑む。


「ジ、ジーク様」

「いいからじっとしてろ。魔力、回復したいんだろ?」


(えええええええ惚れ薬怖い怖い怖い!!)


 いつものジークなら腕一本伸ばして適当に魔力を回復しろなんて雑な扱いをしてくるのに、今日の彼はもはやジークの皮をかぶった別人だ。彼の腕から逃れようと身じろぎをするが、お互いの体が密着するくらいにしっかりと抱きしめられているせいで身動きが取れなかった。

 ジークの右手が伸びてきてリーネの頬に触れる。そのまま長い指が顔下まで滑り降りてクイと顎を引き寄せた瞬間、何かを察知したリーネがボフンという音と共に狼に変身した。

 

 灰色の大型の狼と暫し無言で見つめ合ったジークがうんざりしたようにため息をつく。


「参ったな、全然効果が切れてない。おそらく一晩中このままだろうな」

「一晩中!? もう魔力が保ちませんよジーク様〜〜〜!」

「ああ、だから今日は一緒に寝るしかないな。悪いがそのままの姿で来てくれ」

「一緒に? いいのですか?」

「くっついて寝ていないとまた魔力切れになるだろ」


 ジークの言葉に、無意識下でリーネの狼尻尾がぶんぶん揺れる。そんなリーネの姿を見て軽く笑いながら、ジークが簡単な夜食を作ってくれた。

 狼姿のままでジークに手づから食べさせてもらったリーネは、チャッチャッチャッという爪音と共にジークの寝室に入る。ジークがスペースを開けてくれた所にリーネは狼姿のままするりと潜り込んだ。

 頬杖をついて横向きに寝転がるジークの懐に入ってぺたんと腹ばいになると、ジークがフサフサの毛並みを優しく撫でてくれた。大きな手で優しく撫でられると、このまま昇天して狼に転生し直してもいいくらいに心地良い。


「今日は迷惑をかけて悪かったな」


 狼姿のリーネの背を撫でながらジークがポツリと言う。ほとんど寝落ちしそうになりながらリーネはとろんと重いまぶたを上げた。


「そんなことないですよ。意外と興ふ……楽しいこともありましたし、新しいお友達もできましたし」

「そうか、お前は逞しいな」


 そのままジークが口をつぐむ。少しためらいの表情を見せた後、彼はゆっくりと口を開いた。


「俺はなんだかいつもより家が広く感じた」

「広く? ジーク様は特に動物に変身していないのに不思議ですねえ」

「そうだな、これも惚れ薬の効果なのかもしれん」

「惚れ薬を飲むとお家が広く感じるなら、たまには体をいじってもらうのも悪くないのかもしれませんよ」


 とろとろと微睡みながらリーネが返事をする。「やめてくれ」と唸る声が聞こえたが、ジークの撫で方が気持ち良すぎて、もはや頭がほとんど働いていなかった。

 最後にポフンと頭に手を置かれたと同時に目を閉じる。夢うつつの耳元で「お前がいないと意外と寂しいもんなんだな」という言葉が聞こえたような気がしたが、きっと半分夢を見ていたのだろうと結論づけてリーネは微睡みの中に意識を手放した。












 後日。

 偉大なる錬金術師、ライルベルトの元に一通の手紙が届いた。セルメタル石を追加でくれという内容で送った手紙だが、返信には石のことは一切書かれておらず、ジークからのブチ切れた抗議の文がぎっちりとしたためてあった。

 金属やらが紙やらが雑多に積まれた机の上にポイと手紙を放ると、合間をぬって黒いカラスがピョンピョンと両足で飛びながらライルベルトに近づいてくる。カラスの背を手で撫でると、黒い羽毛が気持ちよさそうにぶわりと空気をはらんだ。


「はは、どうやらうまくいかなかったようだね。でもその方が今後もっと面白いいたずらをしやすくなるから逆に良かったかな」


 そう言いながら指でカラスのくちばしをつつく。再び机上の手紙をチラリと見やると、ライルベルトは満足そうにモノクルをクイと持ちあげた。


「あれは実は惚れ薬のように無理やり感情を植え付けるものではなく、自分の潜在的な感情を引き出す媚薬のようなものなんだけど、それを言ったらまたキレられそうだからこれは秘密にしておこうかな」

 

 くつくつと笑いながら呟くと、まるで返事をするかのようにカラスがカァと大きく鳴いた。

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