前髪事件

 ある日の昼下がり。

 活字をなぞっていた私は、ふと目元が気にかかった。


 ――髪、伸びてきた。


 前に切ったのはいつだっただろう。思い出そうとはしてみるのだが、出てくるのはファティの毛を整えている自分ばかり。

 彼女と出会うまでは知らなかったのだが、キメラリアは毛無であっても毛の伸びる速度が人間より早いらしい。おかげで、ファティの髪は中々の頻度で刈り込んでいたのだが。


「むぅ……面倒くさい」


 誰かの髪ならそうは思わないのに、それが自分のものとなるだけでどうしてこうも億劫なのか。

 とはいえ、サンスカーラのように長くすると余計に管理が大変になるのは経験済み。何をするにも邪魔な感じに思えてしまうのだ。

 ため息をつきながら、机から握りばさみを取り出す。いつしか使い慣れたそれを手に、私はパタパタと部屋を出た。

 向かった先はトイレへ繋がる小部屋。キョウイチ達が洗面所と呼ぶ場所である。

 目的はもちろん、そこの壁に埋め込まれたピカピカの鏡だ。


 ――いつ見ても不思議。誰も磨かないのに曇りもくすみもしないし、磨かれた銀よりもずっとハッキリ自分を映している。


 多分だが、これを為政者が見た日には、とんでもないお金を積んで欲しがるのではないだろうか。実際、最も高貴な立場にあるマオリィネは、これを見た後暫くセンメンジョから離れようとしなかった。

 どうにも、貴族的な考え方はよくわからない。私からすれば、とても興味深くはあっても、所詮は自分を映し出すだけの物というだけで、あれば便利な道具という程度なのに。

 そう、あれば便利。今は特にこれが重要な部分である。


「ん、ん。この辺り、かな」


 目を細めながら前髪の長さを大体で測れば、握りばさみを持つ手がプルプルと震える。

 自身の散髪を億劫と感じる最大の理由。それはこの手の不器用さにある。誰かの髪を切るのはしっかり確認しながらできるが、自分の髪はそうもいかない。

 短く整いさえすれば目標達成と思っていても、そんなのは所詮建前だ。どうしても変にならないかを考えてしまい、鋏を握りこむまで時間がかかる。これでもまだ、鏡があるだけ随分とマシになったと言えるのだが。

 姉に切ってもらっていた時が懐かしい。本当に、こういう時だけは姉が傍に居て欲しいと心底思う。だが、所詮はない物ねだりだ。


「む、む、む……よ、よし」


 切るぞ切るぞと手に力を込めていく。こういう時ばかり思い切りの悪い自分が嫌になるが。


「お? シューニャ?」


「あっ」


 ガチャンとなった扉の音にやや間延びした猫の声。ショキンと聞こえる握り鋏の重なる刃。

 隠れて悪いことをしていたとか、見られるのが恥ずかしいとか、そういう行為であった訳ではない。けれど、誰かが入って来るなんて想定していなかったのは事実。

 はらりと落ちる前髪は二度と戻らない。再び髪の伸びるその日まで。


「ふぁ、てぃ?」


「すみません、ちょっとお急ぎです」


 ギギギと振り返った先にあったのは、トイレへ駆けこんでいく彼女の背。私が何かを言うより早く、扉は音を立ててぱたりと閉まった。


 ――ま、まだ。まだ修正できる範囲。


 鏡に映る自分の前髪は、想像以上に切れ込んでいたが、あくまで一部分。ファティにも悪気があった訳ではないのだから、これは単純に自分の失敗。

 深く切れ込んだ範囲を誤魔化すように、できるだけ自然に自然にいていく。大丈夫、まだ不格好という程の事はない。途中、用を足し終えたファティマが覗いて行ったが、特に変と言われることもなかったのだ。

 そう思っていたのだが。


「……これは、明らかに」


 やりすぎた、と。自分の目から見てもよくわかる。

 切り込む度に納得がいかず、修正に修正を重ねていけば、髪が短くなっていくのは当然の摂理であろう。だが、それに気づいた頃には時既に遅し。

 おでこが僅かに見えるくらい短くなった前髪は、どういう偶然なのか真っ直ぐ揃ってしまっており、まるで成人前の子どもかのようで、小柄な私を一層幼く見せている。

 要するに、修正が不可能な域に達していることは明らかだった。


「どう、しよう。絶対笑われる」


 昔なら気にしなかったかもしれない。ただ、今は親しい仲間たちが私の周りを囲んでいる訳で、加えて想い人まで居るとなれば、羞恥心はこれでもかと主張してくる。否、そうでなければ髪型など気にもしなかっただろう。

 とはいえ、センメンジョで唸っていた所で解決策が浮かぶわけでもない。ともかく今は自室に戻ろうと、私は両手で額を隠しつつ、廊下の様子を伺った。

 のだが、これが良くなかった。


「んぁ? ああ、シューニャか」


 そっと開いた扉の向こうで振り返ったのは白い骨。相変わらず狙ったかのような間の悪さだと言わざるを得ない。


「なんだよ、珍妙なポーズしやがって」


「なん、でも、ない」


 平静など保てるはずもない。誤魔化そうとした口調は、いつも以上にギコギコした感じになった。

 当然、そんな異変をダマルが流してくれるはずもない。あぁん? と言いながらこちらを覗き込んできた。


「いやなんでもなくはねぇだろ。あれか、ニキビでもできてたか? それともどっかでデコをぶつけたとか――ぐえっ」


 軽口に躊躇いのない骸骨の首が、急に後ろへと引っ張られる。

 正直、助かったと思った。


「そういう事を乙女に聞くものじゃないわ。ねぇ?」


「ねー!」


 背後から現れたのはマオリィネとポラリスである。気になる部分の共感としては間違っていない、のだが。

 問題はそこじゃない。というか、改めて考えると、人が増えれば増えるだけ私は追い詰められているような気がしてならなかった。


「く、首はやめろ首は……折れたらどうすんだよ」


「その程度で折れる骨なら、偽物を疑うわよ」


「あれ? シューナいめちぇん?」


 いめちぇん、という言葉の意味は全く分からない。多分、神代言葉の一種なのだろう。

 ただ、それが明らかに私の顔を下から覗き込んでの発言だったため、自然と肩がビクリと跳ねた。

 天性の才によるものか、ポラリスは何かと鋭いところが多い。挙句、子どもらしい興味と好奇心だけで躊躇いなく動く危険物なのだ。その関心が今、私の額へ向いた。


「あー、わかった! かみ切ったんでしょ!」


「ッ!!」


 子どもの観察眼恐るべし。

 当然、そんな情報を流されれば、マオリィネとてすぐに見抜いてくる。


「言われてみれば、少しだけ全体的に短くした感じ――というか」


 ポラリスにはわからない範囲について、黒い貴族様は察してくれたらしい。

 少し同情的な目をこちらへ向けてから、小さくため息をついた。


「その様子だと、失敗したのね」


 最早誤魔化すことは不可能。となれば、協力を仰ぐべきと判断を切り替え、私はコクコクと頷いた。


「な、何か対処できる方法があれば、教えて欲しい」


「そう言われても、髪を一晩で伸ばすことなんてできないし……隠すにしても同じ家で過ごしているのだから無理があるわ。何より――」


 琥珀色の目を半分にしつつ、彼女は横へ視線を流す。


「ダマルに見られた時点で、何しても無駄でしょう」


「おう! そりゃもう満遍なくばら撒くし、暫くはネタとして擦らせてもらうぜ!」


 任せとけ、と親指を自らへ向ける骸骨に、私の思考はセンタッキの渦に巻き込まれたようだった。

 どうすれば、けたたましく鳴る骨の口を封じられるのか。鉄線蔦テッセンヅタで顎と鼻を括って動かなくするか、あるいはもうどこかへ幽閉してしまうか。ダメだ、どちらも現実的じゃない。

 混乱ここに極まれり。私の手は自然と腰へ伸びていた。


「も、もう、もう、殺すしか」


「へいへいへぇい! 相変わらず冗談が通じねぇ奴だな! 流石に本気でそんな藪つつく気はねぇよ! ですからその、チャカ抜こうとするのだけは思い止まって!」


 両手を前へ出して腰を引かせる骸骨に、額を押さえたまま迫る。


「本当に言わない?」


「言わない言わない!」


「本当の本当に?」


「神に誓ったっていい!」


 暗い眼孔に私の顔はどんな風に映っていただろう。きっと表情は変わっていないのだが、圧力だけは伝わっただろうか。

 カタカタと震えるように顎が鳴る。それをジッと見つめて。


「本当の本当の本当に?」


「いや、いい加減しつけぇな! 俺はどんだけ信用ねぇん――だ、よ」


 目なんてどこにも無いはずなのに、どうしてか途中でダマルの視線が私から外れたのがわかった。

 その行く先は自分の後ろ側。それも私が振り向くより先に、骸骨自身が答えを呟いた。


「前言撤回だシューニャ。どうやら、チェックメイトらしいぜ」


「何がだい?」


 ビックンと体が跳ねる。咄嗟に両手で額を押さえなおせたのは奇跡だと言っていい。

 女性たちの連携は素早かった。マオリィネは私を庇うように抱きすくめ、盾となるようにキョウイチの前へ飛び出してくれる。


「キョーイチ! いまはダメ!」


「ダメ、とは……? シューニャがどうかしたのかい? おでこを押さえてるようだが」


「なんでも、なんでもない! なんでもないから!」


 彼がキョトンとするのは当然だろう。状況が掴めない上に、いきなり近づくなと小さな魔女に威嚇されるのだから。

 だからと言って私たちもこれ以上は動けない。今を逃げ出すことは簡単だが、嫌でも食事では顔を合わせるのだし、何も言わなければ言わない程、彼は私を心配するだろう。

 どうすればいい、どうするのが最善策なのか。

 もう何が何だか分からなくなってきた時、ふと耳元に吐息を感じた。


「……ねぇシューニャ。賭けになるけど、解決できる策が1つだけあるわ」


「な、何」


 真剣なマオリィネの声に、私は小さく喉を鳴らす。

 聡明な彼女ならば、私の思いつかない方法に行きつく可能性も十分ありうる。否、最早活路はそこにしかないとさえ。

 ふと自分を抱きすくめる腕の力が緩められ、空いた両手が私の手首に触れる。

 刹那、ぞくり、と。嫌な予感が背筋を駆け抜けた気がした。


「今ここで、覚悟を、決めなさい!」


 呆気にとられた私に抵抗などできるはずもない。いや、騎士であるマオリィネに本気を出されたら、自分の抵抗などあってないような物だっただろうが。

 両腕を釣り上げられ、万歳のような恰好になる。当然短くなった髪は、明るい廊下の中でふわりと揺れた。

 おぉ、とキョウイチが切れ長の目を見開く。


「イメチェンしたのかい。中々思い切ったね」


「ま、マオリィネ!」


「こういう時は諦めも肝心よ。どうせ隠し続けるなんて無理なんだから」


 正論を叩きつけられ、私の抗議は簡単に折れ曲がる。

 だが、感情とは理屈でどうこうできるものではないのだ。私はそれをよく知っている。

 キョウイチに笑われたらどうしよう。子どもっぽいと言われたら。そんな不安が心の中を渦巻いて。


「や、やっぱり、変……?」


 突き刺さる彼の視線に、恐る恐る感想を求める。半ば怖いもの見たさだったと言ってもいい。


「いや、そんなことは無いんだが」


 だが、なんだろう。珍しくキョウイチは言葉を濁したまま、難しそうな顔をうーんと唸っていた。

 羞恥が込み上げる。不似合いなら不似合いだと言ってほしい。けれど言われたら泣きたくなるから、やっぱり何も言わないでほしい。そんな意味の分からない感情がお腹の中でグルグルしていた気がする。

 だが、キョウイチは最終的にポリポリと後ろ頭を掻いた。


「こういうの、姫カット、であってたっけ。ダマル?」


「あ? あぁ――ショートボブの姫カット、でいいんじゃね? それが?」


 ひめかっと。

 またよくわからない言葉が出て来て、それがどんな評価を得ているのか、そもそも何を指しているのか分からず、私はまたおでこを押さえながら首を傾げる。

 ただ、顎に手を当てたキョウイチは、真剣な顔をしたままポツリと。


「いや、こういうのも悪くないな、と」


 沈黙。

 マオリィネもポラリスも少し呆ける中、唯一反応できたのは、やはり同性、骸骨だった。

 彼は、あー、と言って顎を掻きながら。


「まぁ、言わんとしてることは分かる。俺としちゃ、もうちょいエアリーな感じの方が好みだがな」


 成程、とキョウイチも頷く。

 彼がこういう感想をハッキリ言うのは珍しい気がする。おかげで、私は頭の中を回っていた文字が全部一気に、崩れながら崖の下へ落ちていったように思えた。


「へん、じゃない? 子どもっぽいとか」


「うん? いつもの髪型も良く似合ってるが、これはこれで新鮮な感じがしていいと思うけどね」


 頬がポンと熱くなる。まるでやかんの蓋が沸騰して跳ぶように。

 彼としては何気ない一言だったに違いない。だが、褒めて貰えた。新鮮な感じがしていいと。

 誰も居なかったら、身体をバタバタさせていたかもしれない。今度は赤く染まっているであろう頬を隠しながら、私はギュッと目を閉じていた。


「……私も、やってみようかしら」


「ねぇねぇ、わたしもやったらにあうかなー?」


「カッカッカ! 全員姫カットは流石に気持ち悪ぃだろ。なぁ相棒?」


「の、ノーコメントで」


 時には失敗も悪くない。

 困ったように笑うキョウイチの声に、1人そんなことを思ったのだった。



 ■



「おりょ? なんスかそれ」


 お昼過ぎに家事を終えたであろう犬は、コキコキと肩を鳴らしながらリビングに入ってくるなり、そんなことを言ってくる。

 だが無理もない、ボクの前にある低い机の上には、甘そうなお菓子が沢山置かれているのだから。

 しかも、決して安物と言う訳ではない。中には、庶民にとって高級な部類に入る果物リサンの甘露煮まで置かれている。

 その出所はと言えば。


「シューニャが買ってくれたんですよ。ファティはいい子、って言って」


「ほぉん、そりゃよかったじゃないッスか。へへ、ちょっと貰うッスよ」


 犬はニンマリとしたいやらしい笑顔を浮かべると、さっと1つ瓶を奪い取り、鮮やかな色をした果実餡を指ですくって口へ運ぶ。

 多分、悪戯のつもりだったのだろう。普段ならシャーと言って怒るところだが、どうにもそういう気分になれない。


「……猫? 調子でも悪いんスか?」


「いえ、そんなことは。ただ――」


 犬が心配するくらい、ボクの行動は普段と違ったのだろう。

 だが、仕方ないではないか。こんなに沢山の甘味を置かれるなんて、ただ事ではない。にもかかわらず。


「ボク、何かしましたっけ」


 全くと言っていいほど、褒められた理由に心当たりがないのだから。

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