ちょっと1人になりたくて
ぽちゃりと水面が小さく波を打つ。
広がっていく輪の中心からは糸が伸び、それは細くしなやかな木の枝の先端に括られている。
我が家を囲んで広がる森を、少しばかり奥へ分け入った先。手頃な石に腰を下ろした僕は、流れの緩やかな沢へと釣り竿を投げていた。
「こういうのも悪くないなぁ」
雪の解け残った森はまだまだ寒く、身体中を防寒着で覆っていなければ凍えてしまう程。しかし、ピリリと張り詰めた静かな空気は、僕の欲求にマッチしていた。
決して騒がしいのが嫌いという訳ではない。むしろ、皆と過ごしている時間は温かくて楽しいものだとも思う。ただ、今の暮らしにおいて、1人になれる時間というのはどうしても限られる。
加えて、文明の失われた現代に生きていかねばならない中、趣味の1つすら見つけられないというのはよろしくない気がして、結果釣りなどと言う馴染みのないことに手を出していた。
――まぁ、この沢にどんな魚が居るのかなんて全く知らないんだが。
魚に関する知識なんて、800年前のことでもほとんど知らず、料理が得意という訳でもないため、万が一に釣れたとしてもどうしたものか。否、そうなったら最初からアポロニアに丸投げしようという魂胆だ。
餌にしているのは行商が勧めてきた毛針。今日僕がここに居る原因は主に、なんとなくこいつを買ったせいでもある。
尤も、なんだかんだと言い訳を考えた所で、結局のところは雰囲気さえ楽しめればそれでよかった。暇つぶしにと骸骨の悪ふざけに付き合わされた挙句、頭やら腕やらを歯型まみれにされたり、長時間に及ぶお説教に晒されることを思えば、たとえボウズでも全然結構。
「静かな時間ってのはいいもんだ。うん」
「そうね。私もそう思うわ」
何故独り言に返事があるのか。一瞬の沈黙を挟み、声のした右隣へと首を回せば、黒い髪が緩く吹いた風になびいているのが見えた。
「何故、ここが分かった」
「対策を取りたいなら残念だったわね。あなたを見つけられたのは、ただの偶然だもの」
ふふんと鼻を鳴らしたマオリィネは、意地の悪い笑顔をこちらへ向けてくる。
自分のステルスミッションは完璧だったはず。誰の目にもつかぬよう早朝から家を抜け出した上、すぐに足跡を辿られないよう、数日前からわざとあちこちへ歩き回り、鼻の利くケモノーズ対策として風向きも確認して今日を選んだのだ。念押しで骨董品の消臭スプレーまで振りまく徹底ぶりである。
それくらいしなければ、完全に1人の時間というのは作りがたい。否、こうも早く気づかれた以上、それでもまだ足りないのだろう。
ぐぅと唸るしかない僕に対し、マオリィネは小さくため息をついた。
「どうせ1人になりたかったとかでしょう。その気持ちは分からなくもないけど、せめて書置きくらい残しなさい。朝から貴方の姿が見えないものだから、皆大騒ぎだったんだから」
ダマル以外ね、と彼女は最後に小さく付け加える。流石は相棒、僕という男についてよくわかっている。
ただ、大騒ぎと言われると少し申し訳なく、ついでに帰った後に降りかかる災禍について背筋が冷たくなった。
「……ちなみに、今は」
「森に来てるのは私だけよ。他は2人ずつに分かれて街道沿いに」
「また随分と大袈裟なことを。ダマルが呆れてそうだ」
「ご想像の通りよ。私も含めて、誰も耳を貸さなかったけど」
たまには骸骨のお小言も聞いてあげて頂きたい。心の底からそう思う。
しゃがみ込んで、どこか悪戯を楽しむようにこちらを見上げてくる御貴族様は特に。
「君、楽しんでるだろう」
「失礼ね。ちょっとは心配したわよ」
ちょっとは、という部分に苦笑が漏れる。全くしたたかな娘だ。
「正直だなぁ」
「何? もしかして、本当は誰かに追いかけてきてほしかったの?」
「まさか。僕ぁただ、ちょっと1人でのんびりしたかっただけだよ。昼前には帰るつもりだったし」
「なら、午後からは覚悟しておくことね」
考えたくないことをサラリと言って下さるものだ。彼女の言う皆の様子が正しいのなら、僕は犬猫の歯形と淡々としたお説教に加え、お子様からまで何らかの要求が下されそうで、内心戦々恐々としているというのに。
「手厳しいねぇ。ちょっとは擁護してくれてもいいじゃないか」
「まぁ! 英雄ともあろう御方が、生娘数人を相手に命乞いですか?」
「今はド素人の釣り人だもので」
「もぉ……ああ言えばこう言うんだから。素直に謝ればいいだけ――あら?」
琥珀色の瞳にジトリと睨まれたのも束の間。マオリィネの視線は、石へと立てかけて放置していた釣り竿へと吸い寄せられた。
「ねぇ釣り竿、引いてない?」
「む!? 本当に釣れるなんてことあるか!?」
万が一をこのタイミングで引くとは、運があるのかないのかわからない。
とはいえ、先の話を聞いた具合からして、手土産ができるのは願ったり叶ったりというところ。大物であれば全員からとは言わずとも、多少の減刑を望めるはずだ。
しかし、引けども引けども反発する力が強くなる一方で、全く魚影は上がってこない。多少淀みになっているとはいえ、そんなに深いようには見えないのだが。
「ま、マオ! 悪いがちょっと手伝ってくれ!」
「貴方ねぇ……あぁもういいわ! 貸し1つだからね――って重ぉ!?」
マオリィネが釣竿を握った途端、グンと身体が持っていかれる。
2人がかりで引いているというのに、相手は押し負けるような様子を全く見せず、それどころか一層強く暴れ出すではないか。
「本当にただの魚かいこれ!? 大地を釣り上げてる訳じゃなさそうだが!」
「知らないわよ! 私だって釣りの経験なんてほとんどないんだか、ら゜ぁ!?」
声もかけていないというのに、どうしてか上手く息が合ったのだろう。
今までよりも強く引かれた釣り竿に、突如大きく水面が弾け、巻き上がる雫と共に魚とは違う何かが虚空へ放り出された。
ドスン、と。それは妙に重々しい音を立てて河原へ落ちる。僕の買った毛バリをハサミに掴んだまま。
「……え、なんだいコイツ。大きなザリガニ、というかロブスターか?」
そいつは身体は両腕で抱える程の大きさで、青く透き通る甲殻に覆われ、身体の半分はあろうかという大きなハサミを、ガチガチと派手に鳴らしている。
見た目の印象は全くもって先に述べた通り。現代にもほとんど昔と変わらない生物も居るんだなぁなんて、僕は呑気な事を思っていたのだが。
「こ、コゥコゥスタクスの成体じゃない!? なんでこんなところに!?」
一方のマオリィネはといえば、ザリガニの真似でもしたくなったのか、一目で分かるくらいに顔を青ざめさせていた。
「こぅこ……なんだいそりゃ?」
「ボンヤリしてないで離れて離れて! これって凄く凶暴な生物で――」
珍妙な名前に首を傾げた矢先、ジャキンという大きな音が耳元で聞こえ、僕はゆっくりそちらへ振り返る。
自分の覚え違いでなければ、そこには釣り竿があったはず。だが、視界に入ったのは、想像していたよりもはるかに短い木の枝だった。
「わぁ綺麗に真っ二つ。現代生物って化物多いんだなァ」
ポイと、コゥコゥナントカは一撃の下で切断した釣り竿を投げ捨てる。まるで悪役プロレスラーかのような雰囲気で。
甲殻類の言葉は分からずとも、多脚をグッと沈めた先に来る行動はすぐに察しが付く。何せ奴は僕らを睨んでいたのだから。
「た、退避ぃーッ!!!!」
僕とマオリィネが背を向けるが早いか、コゥコゥナントカは猛然とこちらを追って駆けだした。
己を釣り上げたのがド素人だったことに腹を立ててか、あるいは食いついた毛針がお気に召さなかったのか。とにかく奴は怒り狂っているらしく、沢から大きく離れる事さえ気にした様子もないまま、ガンガンとハサミを鳴らして後を追ってくる。
そこそこの太さがあるしなやかな棒を容易に両断するような奴だ。指でも挟まれようものなら、どうなるかはあまり想像したくなく、僕とマオリィネは必死で森を駆け抜けた。
すると偶然にも、前に人影が現れる。
「あっ! 見ぃつけたッスよごっ主人!! 何も言わずにどこ言ってたんス、か?」
腰に手を当てた小型犬は、ぷりぷりとわざとらしく頬を膨らませてみせたものの、こちらの鬼気迫った様子に当てられて首を傾げた。
当然、疑問に答えている余裕など僕には無い。
「ああああアポロ! 走れ走れ! 後ろからヤバいのが来てるから!」
「まったまた大袈裟な。ヤバいってバイピラーでも踏んづけ――」
やれやれと肩を竦めようとしたところで硬直するアポロニア。多分、彼女の茶色い瞳は、自分の背後より迫る何者かを捉えたのだろう。
余裕から一転。小柄な彼女はぎょわぁぁぁぁと悲鳴を上げて駆けだした。
「こっ、こここここコゥコゥスタクスじゃないッスか!? いやなんでぇ!?」
「君も知ってんのかい!?」
「そりゃもう、珍味として有名ッスから。じゃなくて! なぁんであんなモンを生きたまま連れ帰ってきてんスか!? 食材はちゃんと
今まで見て来たものと比べて、体躯こそ小さい甲殻類だが、危険生物であることは世間一般における常識であるらしい。また1つ賢くなったが、できればもう少し穏やかに教えていただきたいものだ。
ギャーと叫ぶアポロニアに対し、マオリィネも自分の腰を指さして咆え返す。
「仕方ないでしょう! 帯剣してなかったんだから!」
「肝心な時に役立たない貴族様ッスねぇ!」
「なぁんですってぇ!? それを言うなら、貴女だって逃げる事しかできてないじゃないの! それにポラリスはどうしたのよポラリスは!」
「あんまりご主人が見つからないから手分けしてたんスよ! 抜け駆けしてた誰かさんと違って!」
「人聞きが悪いわね! 偶然に決まってるでしょう! 大体、貴女アステリオンでしょ! その鼻は飾りなの!?」
「な、なにおぅ!?」
「喧嘩してないで、何か対策を考えてくれないか!?」
危険甲殻類の足は見た目以上に早い。何せこちらが全力で走り続けているにも関わらず、一向に距離が開かないのだから。
当然、走りながら調停するなどある訳もなく、投げやり気味にそんなことを口走れば、今度はアポロニアからしっかりと睨まれてしまった。
「ご主人もご主人ッスよ! いっつも持ってるケンジュウとかはどうしたッスか!?」
「あぁそれはその……ほんの近場だから、物騒な物は要らんだろうと思いまして」
「あ、アホぉー!」
現代を舐め腐った発言だったことは否めない。これも教訓として刻もうと思う。
ただ、彼女の罵倒は意外な存在を呼び出した。
「あぁん? 誰だ今俺の事アホっつった奴」
「な、ナイスタイミングだ相棒!」
煙草を吹かしながらぶーらぶーらと歩いてくる骸骨アーマー。フルフェイスの兜越しに、どうやって吸っているのか知らないが、あきれ果てた末に彼も散歩に出ていたらしい。
自他共に認める有能骸骨であればこそ。奴なら武装しているはずだと、全員の考えが完全に一致した瞬間だった。
「だ、ダマル! アイツのこと任せたわよ!」
「あああ後はヨロシクッスぅ!」
「はぁ? 何だ何だ、いきなり任せるって。話が全くみえてこねぇんだが――」
左右に分かれて駆け抜ける疾風に、ダマルが兜を傾げるのは無理もなかっただろう。
ただ、如何な戦場においてもそうだが、敵というのは待ってくれないものあり。
「あんぎゃぁぁぁぁぁぁ!? なななななんだコイツ!?」
こちらの想像していた通り、コゥコゥナントカはホラー存在にターゲットを切り替えたらしい。間もなくそんな悲鳴が背後から轟いたかと思えば、ダマルが甲殻類を宙へと放り投げていた。
しかもそこはあのダマルである。やられっぱなしで黙っているはずもない。逃げようとすることなく、その場でファイティングポーズをとっているではないか。
「てめぇコラ、水産物風情が人様に挟みかかってくるたぁいい度胸だぜ。その殻はぎ取って晩飯にしてやら――ぺぶしぃ!?」
口上を述べる骸骨の兜へ突き刺さったのは、それはそれは綺麗な右ストレートだったと思う。釣竿を一撃で両断できるハサミを持ちながら、敢えて拳を叩き込む当たり、あの甲殻類は相当なファイターなのかもしれない。
強烈な一撃に倒れ込んだダマルは暫く揉み合った末、マウントを取られてパンチの雨を降らされていた。兜のおかげで怪我こそしなかったようだが、永遠に頭を揺さぶられては立ち上がれるはずもなく、かといって距離を取った僕らに助けの手立てはなく。
「あれ、ダマル兄ちゃん? なにしてんの?」
ふらりと現れた白い少女は、まさしく
「ち、チビスケ、こいつをやれぇ……俺ごと、仕留めろォ……」
「うん? うん。えいや」
不思議そうにしながらも、ポラリスが軽く腕を振るえば、コゥコゥナントカは瞬く間に氷漬けの食材へと代わり果てる。
生まれながらの冷凍装置に、生鮮食品が敵うはずもなし。手も足も出ないまま、テクニカルノックアウトで試合終了となった。
「助かったよポラリス。相棒、無事か?」
「そう? えへへぇ」
「……オマエ、イツカ、ブチノメス」
褒められて嬉しそうに笑うポラリスを尻目に、僕は誓った。
未だ常識すらわからぬ現代において、慣れぬことなどする物ではない、と。
なお余談ではあるが。
「何も言わないで失踪した挙句、危険な生物を釣り上げて危うく怪我をするところだった、と」
「ハイ、ごめんなさい」
その日の午後、僕は翠色をした冷たい瞳を前に正座させられ、ひたすら謝り続けなければならなかった。
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