爪切りの話

 ゴリリ、ゴリリと音がする。それも何やらリビングの中から。

 薪割りを終えて戻ってきた僕が、はて何事か、と薄く扉を開いて中を覗けば、大きな耳が目に入った。


「ファティ? なにしてるんだい」


 とりあえず、現代的な謎生物の類や、あるいは賊のように悪意ある連中でなくてホッとしつつ、その背中に声をかける。

 すると肩越しに振り向いた猫娘は、何やら手に太い薪を握っていた。


「あ、おにーさん。おかえりなさぁい。ちょっと爪が気になって」


「爪?」


 爪と薪の間に、一体何の関係性があるというのだろう。爪とは爪切りで切るものであり、薪は燃やさなければ、丸太を割っただけの物に過ぎない。

 おかげで僕は首を傾げる事しかできなかったのだが、ファティマはこちらの様子を気にした様子もなく、再び手元へと視線を戻すと、自らの爪を薪の表面へ当てた。


 ――爪とぎ?


 ゴリリ、ゴリリと聞こえる音の正体に加え、爪と薪の関係性が理解できた瞬間である。

 800年前に存在していた動物の猫が、木や段ボールで爪をとぐ動作とは大きく異なるものの、やっている内容自体は変わらない。

 毛無と呼ばれるファティマの見た目は、猫のような耳と長い尻尾を除けばほとんど人間である。だが、傍目にわからずとも、その牙と爪は人のものより確実に鋭く、噛まれたり引っ掻かれたりすると、それはそれは痛い。

 それを実体験したことがあるからだろう。爪をといでいるという事実が分かった途端、何故か背中が冷たくなった。


「やっぱり伸びると気になるかい?」


「どうしても着替えたりするときに引っかかりますし、それにボクだって女の子ですから、身だしなみは気になります」


「な、なるほど、女の子、か」


 自分の知る女の子というのは、少なくとも薪で爪をといだりしないと思うのだが、喉まで出かかった言葉を必死で飲み下す。これが僅かでも零れれば、一層鋭さを増した爪が襲い掛かって来るに違いない。

 何よりファティマは種族がキメラリア・ケットというだけで、可愛らしい女の子であることに間違いはないのだ。ただでさえ自分を好いてくれている少女に、冗談でもそんなことを言うのは間違っている。

 とはいえ、彼女は勘がいい。


「……なんですか? ボク、何か変なこと言いましたか?」


「いやいやいや! そんなことはないよ、うん!」


 ギギギと音を立てて剥けていく樹皮に、僕はブンブンと首を横に振る。

 それでも、金色の瞳に宿った疑いは晴れず、背中を冷や汗が流れていく。人間の皮膚はあんなに硬くないのだ。なんでもいいから気を逸らさなければ、いきなり我が家のリビングがブラッドバスにされかねない。

 問題は自分の頭が酷くポンコツであり、ファティマの興味を引けそうな話題など、すぐに思いつくはずもなかったことだろう。


「あぁその、なんだ。爪切りとかは使わないのかい?」


 話題を逸らすどころか、むしろ爪切りの方向へ食い込んでいくという逆転の発想。奇をてらったと言えば聞こえはいいが、実際には速やかに沈黙を破るため、半ば破れかぶれに出た一言に過ぎない。

 しかし、ファティマは何を思ったのかキョトンとした表情を浮かべ、大きな耳を揺らして首を傾げた。


「ツメキリって、何ですか?」


「へ? あ、あぁ、もしかして現代には無いのかい?」


 橙色の頭がこくんと頷く。

 あまりにも身近な道具すぎて存在しないというのは信じがたいが、現代文明ではまだ開発されていないのかもしれない。

 そう思い始めると、爪そのものが存在しないダマルは置いておくとして、確かに他の皆が爪を切っている様子は見たことが無いように思う。

 もちろん、自分が偶然目にしたことがないだけの可能性も十分あったが、不思議そうなファティマの顔を見れば、あながち間違っているというわけでもなさそうだ。


「説明するより見てもらった方が早いかな。少し待っててくれ」


「はぁ」


 どことなく気の抜けた返事を背に、とりあえず話題を逸らせたことにホッとしつつ、冬に入って以来納戸と化している自室へ戻った。

 最近、着用することがめっきり減った歩兵用ボディーアーマーのポーチを漁れば、応急処置キットと共に何の変哲もない小さな爪切りが転がり出てくる。

 ふと、鋭いファティマの爪を切れるのだろうか、と些細な不安がよぎった。しかし、それで潰れてしまったとて、スノウライト・テクニカの倉庫に行けば爪切りくらい転がっているだろうと考え、僕は爪切りを手にリビングへ戻った。


「おー、思ったより小さくてかわいいですね」


 と言うのが、爪切りを初めて手にしたファティマの感想である。


「でも、どうやって使うんですかコレ?」


「やって見せた方が早いかな。僕の爪を――あ」


 説明に自分の爪を使おうとしたものの、思えばちょうど昨日、風呂上りに爪を切ったばかりだったことを思い出して固まった。

 流石にいきなり深爪する瞬間を見せつけて、爪切りに恐怖を植え付けたくはない。


「すまないファティ、僕は昨日切ったところで……君の爪で実演してもいいだろうか?」


「あ、は、はい」


 何故かピッと背筋を伸ばしたファティマは、ぎこちない動きで手を差し出してくる。表情も先ほどまでの飄々とした様子はなく、唇に力が入っているのが分かる上、何故か頬は僅かに赤らんでいた。

 彼女の手は、重い剣を握っているのが嘘のように柔らかい。

 狙うは人差し指。先端にちょんと乗っている少し尖った爪に爪切りを浅くあてがい、握る。

 パチリと響く小さな音。


「ふにゃっ」


 鋭い爪は想像していたよりあまりにも呆気なく、小さく開いた爪切りの中へ消えていく。

 その際、不思議な鳴き声が聞こえた気がしたが、あまりにも浅く入れすぎて先端しか切れなかったため、なんとなくもう一度パチリ。


「うにっ」


 再び響く不思議な鳴き声。

 ちらと視線を上げれば、ファティマは何故か空いている腕で顔を隠すように覆いながら俯いていた。

 もしかすると、怖いのかもしれない。

 そこで僕は、もう1つの機能を使ってみることにした。

 そう、ヤスリである。

 ちょうどよく人差し指の爪は長さが整っており、残りは角をおとしてしまえばいいだけになっていたため、そこに爪切りの裏に着いているヤスリを当てた。

 小さくスライドさせれば、擦れる微かな音と共に彼女の爪は少しずつ削れていく。


「ふ、う、ぁ、ぅうぅぅぅ」


「……ファティ?」


 それでもやはり何か妙な声が聞こえてきたため、僕は手をとめて彼女の名前を呼んでみた。

 すると、腕から覗いた金色の瞳は何故か潤んでおり、しかもよく見れば身体は小刻みに震え、尻尾の毛が逆立って倍近くまで太くなっているではないか。


「えっ、もしかして痛かったかい?」


「ち、違うんです。その、なんていうか、くすぐったいような、気持ち悪いような、変な感覚で……」


「くすぐったい?」


 爪切りをそう感じたことはないが、慣れていないとそういう感覚になる物だろうか。

 ふと、整えて丸くなった彼女の爪を指の腹で撫でてみれば、ファティマは背筋を指でなぞられた時のような反応を示した。


「ふにゃぁぁぁぁぁ、お、おにーさん、やめてくださいぃ……ゾワゾワしますぅ」


「あ、あぁごめん、つい。しかしそうか、気持ち悪いんじゃ使えないな」


 便利な道具も慣れていなければ役に立たない。それも不快と言われてはどうしようもなく、僕は爪切りの中身をゴミ箱へ捨てた。


「――もぉ……おにーさんの手がくすぐったいだけですよぉ」


「うん? なんて?」


 ふと、ファティマが何か言ったような気がして振り返れば、彼女は何ごともなさそうに視線を逸らしており、その後やけにわざとらしくこちらへ向き直った。


「いえ、その――自分ですれば、きっとそうはならないと思うので、貸してもらってもいいですか?」


「無理に使う必要はないが……まぁ、そういうことなら、どうぞ」


 ポケットにしまおうとしていた爪切りを手渡せば、最初はぎこちなかったものの、すぐにパチパチと軽快な音が聞こえてくる。

 僕はその様子を暫く見守っていたのだが、ファティマは時折こちらの様子を伺うようにちらと顔を上げ、目があえば微かに頬を染めて視線をそらしてしまう。

 もしかすると、自分が見ていては集中できないのかもしれない。そう思った僕は珈琲でも淹れに行こうかと思ったのだが、彼女の脇をすり抜けようとした時、何故か尻尾を足に絡められてしまった。


「なんだい?」


「……あの、さっきのもう一度――いえ、なんでもないです」


 目を合わせないまま何かを言いかけたファティマは、爪切りを手にしたまま何でもないと首を横に振る。

 結局、彼女が何を言いたかったのかはわからない。ただ、道具としての爪切りは気に入ってくれたらしく、それ以来時折貸してくれと言うようになった。

 なんでも、ケットの爪は伸びるのが早いらしい。


「またかい?」


「はい、また伸びて来てて。あの、よければおにーさんが……な、なんでもありません」


 その度に繰り返される、何かを言いかけては、照れた様子でやめてしまう不思議な問答。

 僕はイマイチその理由がわからなかったのだが、後日ファティマから聞いたという話をシューニャが教えてくれた。


「くすぐったいけど癖になりそう、と言っていた。足の爪もやって欲しい、とか」


 ファティマはその詳細を彼女に語らなかったらしく、彼女に何をしたのか、と翠玉の瞳に睨まれてしまったが、こちらが全てを説明したところシューニャはどこか呆れていたように思う。

 ただ、僕としてはなんとなく、無垢な彼女に微妙な趣向を与えてしまったような気がしてならなかったのだが。

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