キメラリア的美容のお話
風呂の縁に腰かけ、自慢の尻尾に指を通す。
これは稀な沐浴が基本だった頃から、自分の日課というか、癖のようなものだった。
水に濡れた自慢の毛は固まり、ごわごわとした手触りになるのが普通である。あっちこっちで指が引っ掛かって軋むのも、多分キメラリアになら理解してもらえると思う。
だが、指に伝わる感覚はするすると滑るようであり、自分は今日もまた1人尻尾を凝視するしかできなかった。
「日に日に毛並みがよくなってる気がするッス……」
無論、理由の1つは分かり切っている。生活が考えられない程贅沢になったことだ。
自分が作っている食事の質は、過去と比べものにならず、1食でパンにスープにサラダに肉にと、とにかく種類も量も貴族かと思う程に豊富であり、衣服はアラネアであるウィラミットが生み出した高品質な物を着込み、豪邸と言うべき家は隙間風も入らない上、寝台は柔らかく温かい。
だが、果たしてそれだけでこうも毛並みが変わるものだろうか。
体毛を持つキメラリアの女にとって、毛並みというのは非常に重要な問題である。それは日頃ズボラに見える猫でさえ、1日たりとも手入れを欠かさない程だ。理由があるならそこに強い関心を抱くのは必然と言ってもいい。
自分は湯を小さく波立たせると、曇る事のない古代の鏡の前に置かれている、ガラスとも陶器とも異なる不思議な容器を2つ手に取った。
「……やっぱり、コレッスよね」
ダマルがスノウライト・テクニカから持ち帰ってきたそれは、しゃんぷぅとこんでぃしょなぁと言うらしい。
神代の人である2人に説明を求めたところ、なんでも本来は頭髪に使う専用の石鹸と言うべき代物であるらしい。しゃんぷぅが先、こんでぃしょなぁが後、という順番を守って使えば、毛にいい効果をもっているのだとか。
自分もキメラリアの女である。ただでさえ想い人がひとつ屋根の下に居る状態で、見た目を磨けるならこれほどいいことはない。相手が気にするかはともかくとして、だが。
濡れた尻尾を軽く絞り、タオルで吹き上げて水気を飛ばし、モコモコの寝衣に身を包む。以前では考えられない暮らしに自然と頬が緩んだ。
そのまま廊下に出ようと扉に手をかけたところ、ちょうど猫とポラリスが風呂場に入ってきた。
「あれ? アポロ姉ちゃん、おふろおしまい?」
「……なにニヤニヤしてるんですか。気持ち悪いですよ」
「いちいち絡むんじゃないッス。ほら、さっさと入った入った」
素直な少女に対し、息を吸うように腹立たしい一言を付け足してくる猫を手で追い払う。
一言で終わる普段通りのやり取りに、自分は肩を竦めながら立ち去るつもりだったが、今日に限って彼女は、こちらの背中に妙な言葉が投げかけてきた。
「そーいえば犬、おにーさんが部屋で待ってましたよ?」
想い人を意味する呼び名を聞き逃すはずもなく、耳は自然と後ろへ流れた。
ご主人が自分を待っている。その一言だけで胸が高鳴るのだから、恋と言うのは厄介だ。
「な、なんか用事ッスか?」
嬉しさに裏返りそうな声を抑えながら肩越しに振り返れば、猫はまるで何も考えていないような顔で欠伸を1つ。
「さぁ? 何かダマルさんが持って帰ってきた道具を触ってましたけど、ボクにはよくわからないので直接聞いてください。それじゃ」
「おっふろー!」
彼女はまるで興味がないらしく、退屈そうに尻尾を振りながら服を脱ぎ捨てると、ポラリスと共に湯気の中へ消えていく。
あの骸骨が持って帰ってきたと言うことは、何かしら古代の品だろう。それと自分がどう繋がるのかはサッパリわからないが、何か頼ってもらえるのではと思うと、さっきまで感じていた腹立たしさなど最早どこにも残っていない。
弾む足取りでリビングの前まで行き、静かに深呼吸をしてから扉を開いた。
「お風呂あがったッスよぉ」
「あぁ、お帰りアポロ。ちょうどよかった」
猫の話は本当だったらしく、部屋に入るなりソファでくつろぐご主人から手招きが飛んできた。
こうなれば先客が居ようとも邪魔はできない。本を読むシューニャと暖炉の番をするマオリィネの脇をすり抜け、ご主人の隣へわざと密着するように腰を下ろす。柔らかい寝衣の下には何も着ていないため、直接体温が伝わってきて少し恥ずかしいものの、それ以上に彼を独占できる嬉しさが勝った。
そんなこちらの様子を知ってか知らずか、ご主人は照れたように軽く咳ばらいをすると、敢えてこちらの行動には触れないまま謎の道具へ手を伸ばした。
「ん゛ん゛っ――その、よければなんだが、君の尻尾を貸してくれないだろうか?」
「……はい?」
謎の質問に間抜けな声が自然と零れる。
手を貸せ、というなら意味は分かるが、尻尾を貸せとはどういうことだろう。少なくとも言葉通りに貸し借りできるものではない。
「えぇとご主人? 尻尾は取れないッスよ?」
「別に引っこ抜こうなんて思っていないさ。そうじゃなくて、尻尾を乾かすのに使えるかと思ってね」
確かに濡れた尻尾を乾かすのは手間であり、自分と猫は風呂に入る度、長時間暖炉の前に居座ることになっている。しかし、乾かさないまま毛布に潜り込めば寝具を濡らしてしまうし、何より毛づくろいに手を抜くことは許されない。
だが、その話と彼の手に握られている、どことなくジュウに似た見た目の白い道具は全く繋がらず、自分は首を逆向きに傾げなおすしかなかった。
「乾かすって……どうやってッスか?」
「うん、少しだけ尻尾を触っても?」
「は、はいッス」
尻尾は大切であり、誰であっても簡単に触らせていいものではない。
それでも自分はご主人からのお願いに応えたくて、恥ずかしさを感じながら恐る恐る尻尾を差し出した。
「じゃあ、いくよ」
彼の大きな手から伝わる体温に、身体がピクリと震える。濡れているのが理由か、以前触れられた時とはまた違った、こそばゆいような、気持ちいいような不思議な感覚。
それを一瞬で上書きしたのは、突然吹きつけた温風だった。
「ぅキャぁンっ!? な、何ッスかこれ!?」
予想外過ぎる感覚に思わず尻尾を引き寄せ、両腕で抱えるようにしてソファの脇まで逃げてしまった。
そんな反応にシューニャは何故か本に顔を隠しており、マオリィネも後ろを向いたまま袖で口元を覆っている。もしかすると彼女らは、事前にこの不思議道具がどういう代物なのかを聞かされていたのかもしれない。
ただ、それを握る本人だけは、不思議そうに首を傾げていたが。
「何って、800年前のドライヤー、だが」
「風が出るなら出るって、先に言ってほしいッス! 突然すぎて、背中がゾワゾワしたッスよ!」
「え? 現代にも同じ名前の、風で髪を乾かす物があるとマオリィネから聞いていたんだが」
ちらと視線を流せば、黒髪の貴族はプルプル震えている。その顔が赤らんでいるのも、別に暖炉の炎に焙られ続けたからではないだろう。
要するに自分は、彼女の仕掛けた罠にまんまとかかったということらしい。どうりでご主人に身体を寄せたというのに、誰も何も言わない訳だ。
「やってくれるじゃないッスかぁ、このぽっと出貴族ぅ……!」
「ご、ごめんなさいね……まさかキョウイチが信じるとは思わなくて、ぷふっ」
「――ということはもしかして、ドライヤーと同じ名前の物は」
「聞いたこと、ない」
本から顔を出さないまま、もぞもぞ動く金色の頭。あの鉄仮面が笑っているところは想像できないが、彼女も共犯なのは間違いない。逆にこれでどらいやぁを手にしたまま固まっているご主人が、自分と同じ被害者であることも確信できた。
確かにこの身は小さく弱いアステリオン。しかし目を細めた自分は、ここに住んでいながらこのアポロニアに喧嘩を売るとはいい度胸だ、と鼻を鳴らした。
「やぁれやれ困ったもんッスねぇ。ちょっと朝ごはんの献立を考え直す必要ができたッス」
ビクリ、と2人の肩が同時に揺れる。
我が家の台所事情を握っているのが誰なのか、彼女らはこの瞬間思い出したことだろう。兵糧攻めの恐ろしさからか、マオリィネは表情を引き攣らせ、シューニャは本の向こうから恐る恐る目だけを覗かせた。
「ちょ、ちょっとした出来心なのよアポロニア。ほら、まさかキョウイチが信じるなんて思わないじゃない?」
「ん、ん。これは、子どもの悪戯みたいなもの、だから――」
「ほーん、そうッスか。そ、う、い、え、ばぁ――今日はまだ食器が洗えてないんスけど、自分ちょーっと疲れてるんスよねぇ?」
「任せて」
「あっ、こら! 待ちなさいシューニャ! それは私の仕事よ!」
シューニャは顔の防壁と化していた本を、パーンと音が出るほど勢いよく閉じると、普段からは考えられない機敏さで立ち上がり、廊下へと飛び出していく。それに遅れる形で、マオリィネも貴族の気品とやらをかなぐり捨て、バタバタと足音を鳴らして後を追っていった。
力関係、ここに定まれり。非力なアステリオンとて、舐められる訳にはいかないのだ。
「すまないアポロ。驚かせてしまって」
一方、ご主人は何の責任もないにもかかわらず、後ろでシュンと小さくなる。
その様子はどうにも母性をくすぐるものであり、自分はため息1つで恥ずかしさを放り捨てる。あとは勢いだ。彼の膝へ自然な風を装って腰を下ろし、ついでに抱き着くような格好で腕を回して、彼の特徴的な黒髪を優しく撫でてやった。
「いいんッスよ、ご主人は知らなかったんスから。それよりこれ、どらいやぁって言うんスか?」
「あ、あぁ。毛を乾かすのに使えるかと思ったんだが、気持ち悪いならなくても――」
「ビックリしただけッスよ。ほら、続き続き。せっかくだから、最後までやって欲しいッス」
どうせ尻尾を触るならこの格好がいいだろうと、適当な理由付けで自分を納得させてご主人に絡みつく。ただでさえ2人きりになれる時間は貴重なのだから、多少の羞恥心などなんのその。大胆に両足まで彼の腰に巻き付けて尻尾だけを後ろに垂らした。
「……その、少しやりにくい、というか、流石にくっつきすぎじゃ、ないだろう、か?」
「おんやぁ? ご主人、何か助平な事考えてるッスか?」
「い、いや、なんでも、なんでもないんだ。うん」
それきり彼は黙り込むと、代わりにどらいやぁなる道具がブーンと音を立てて動き出す。
また温かい風が尻尾に当たり、それがこそばゆくて体を揺らせば、その度にご主人は全身を緊張させていた。
毛並みがキメラリアにとって大事なことは変わらない。しかし、人間と比べて小さくとも、それなりに自信のある身体を直接ぶつけることもまた、彼には中々効果的であるのだろう。
それがわかっただけでも自分はとても嬉しくて、ムズムズする身体を寄せながら、ご主人の肩に顎を乗せる。
「気持ちいいッスよ、ご主人」
「なら、よかった」
言葉が短くなるのは恥ずかしがっている証拠だろうか。
もっといろんな顔が見てみたい。いろんな反応をしてほしい。
与えられた短い時間で、さて次はどうしてやろうかと考えを巡らせれば、自然と唾液があふれ出してくる。
ただ、それが口元から危うく零れそうになった時、ギィと蝶番が鳴いて、視界の片隅で扉が緩く開かれた。
「おう、ドライヤーの使い心地はどう――だ?」
どうやら自分は随分興奮していたらしい。何せ、骸骨から漂う煙草の臭いにさえ、全く気づかなかったのだから。
「……おいエロ犬。どういう想像してんのか知らねぇが、涎拭けよ」
「だ、誰がエロ犬ッスか!! じゅる……じ、自分はご主人に尻尾乾かしてもらってただけで――」
「それなら抱っこされる必要ってありませんよね?」
「あー!! アポロ姉ちゃんズールーいー! キョーイチ、わたしも! わたしも髪の毛かわかしてー!」
どうやら時間切れらしい。その瞬間を見誤ってしまえば、いつも通りリビングは騒がしくなる。
とはいえ、自分の様子がよほど羨ましく映ったのだろう。この日以来ご主人は、皆の髪や尻尾を乾かす作業に追われることとなった。その気持ちは、痛いほどよくわかるし、全員平等にやってもらえるのなら自重する気も更々ない。何よりこのどらいやぁという奴を使い始めてから、自分と猫の毛並みはなおさらふわふわになったのだから言うことなしである。
ただ、自分はこの後ダマルから、あそこまでベタベタするなら何があってもいいように上でやれ、と釘を刺されてしまったのだが。
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