ぽっと出貴族の悩み事
貴族の特権。その最たるものは余裕であろう。
贅沢をしようとすればキリがないが、貴族らしくあろうとする以上の物を求めなければ、税を上手くやりくりすることで蓄財もできるし食うに困ることはまずない。それこそ民衆に反乱を起こされたり、どこかの国や野盗共が攻め込んできたり、天災や疫病に見舞われたりすると話は別だが。
少なくとも私が産まれた日から成人して騎士になるまでの15年間、トリシュナー子爵領であるアチカの町はそういう事態が訪れることはなく至って平穏。むしろ最大の問題は、自分の黒髪だったのではないかと思ってしまう程に。
結果として、トリシュナー子爵家は田舎貴族の中では余裕があるほうだった。その余裕は幼い自分に様々な物を与えてくれたと言っていい。
それは生活の端々に現れる。何せこう見えて私は、意外と器用なのだから。
■
「キッチンを貸してほしいなんて、どういう風の吹き回しッスか?」
動きやすいドレスの上からエプロンを身に着け、自慢の黒髪を後ろ頭で纏めた私の恰好に、料理番であるアポロニアは首を傾げる。
それも当然だろう。何せ彼女らと合流してこのかた、自分が料理をしている姿など見せたことはなかった。
「この間ジークがパイを焼いてきてくれたでしょう? それで私もたまにはお菓子でも作ろうかと思ってね。実家から送られてきた物の中にちょうど砂糖があったし、ほら」
ただの気まぐれだと言いながら、私がこっそりキッチンに隠しておいた木箱から、円錐状に成型された砂糖の塊を取り出せば、犬娘はとんでもない物を見たと舌を出した。
「げぇ、まーたすっさまじい高級品持ち込んで……そういうとこは流石に御貴族様って感じッスよねぇ」
「そういうとこはって何よ。これでもちゃんと子爵令嬢よ?」
「はぁー……そんな子爵令嬢様とやらが、自前でお菓子作るなんて想像つかないッスよ」
貴族と接するような庶民は少なく、その生活を知る者となれば本当に一握りだろう。だから、アポロニアも貴族とはひたすら華美で贅沢な暮らしをするもの、などと考えていたに違いない。
実際、そういう貴族は存在している。それも結構な割合で。
ただ、少なくとも自分の生活は庶民的ではないにせよ、宝飾品や嗜好品で溢れていたとは言い難かったため、私は小さく苦笑を浮かべる事しかできなかった。
「学べるものはなんでも学んで力にしろっていうのが、お父様の口癖でね。幼い頃に厨房使用人から料理は一通り習ったのよ。まぁ、貴女やジークほど上手くはできないのだけれど」
貴族とはふんぞり返っていればいいだけの仕事ではない。自らの領地を育て、領民に平和と安寧を与えることこそ使命。私はそう教えられてきた。
だからこそ、勉学や鍛錬は勿論、騎士になるなら家事炊事もこなせねばと叩き込まれ、それが終われば農民の苦労を知れと、アチカ付近で果樹や野菜の管理を手伝ったり、湧き出してくるバイピラーに悲鳴を上げながら立ち向かった。この辺りはあまり思い出したくない。
ともかく、私は使用人が居らずとも生活できるくらいの力は持っている。だから別にお菓子を作るくらいなんということはないのだ。
ただ、私が固められた砂糖を専用のハサミで切り崩した途端、素っ頓狂な悲鳴がキッチンに響き渡るとは思わなかったが。
「ちょ、ちょいちょいちょい! 思い切りがよすぎッスよ! 今崩した塊1つでいくらすると思ってるんスか!?」
「そんなこと言っても、砂糖の量を減らすと
「うぇぇぇっ!? ら、卵白を捨てるとか、なんつう贅沢なことを!」
「もぉ、食材のお金はちゃんと出すから、そこまで気にしなくてもいいでしょ? まぁ見てなさいって。これにボスルスの乳、最後にもう1回砂糖を足してっと」
「世界違いすぎて頭痛くなってきたッス……」
世界観が違う、というのはわからなくもない。実際、貴族の中でも金銭に余裕があるかどうかで随分生活は違うものだ。それこそ、キメラリアであるアポロニアからすれば、この道楽としか言いようのない菓子作りに、悲鳴を上げたくもなるだろう。
とはいえ、この家における生活は間違いなく庶民よりはるかに豊かなのだから、菓子作りくらいは気楽にすればいいではないか。
と、そんなことを考えながらボウルの中身をかき混ぜていると、ようやく衝撃から立ち直ったらしく、アポロニアは私の動きを興味深げに横から覗き込んでポツリと零した。
「……思ったより手際いいじゃないッスか。普段のポンコツっぷりが嘘みたいッスよ」
「失礼ね! ちゃんとした学びと整った環境があれば、私は結構万能なんだから」
一体彼女は自分を何だと思っているのだろう。
確かにキョウイチと過ごしていると、どうにもペースが狂って慌てるようなことは多いし、驚かされることも多々あるとはいえ、その一面だけでポンコツと評価されるのは心外である。
そう、私は落ち着いてさえいれば何でもできるのだ。今だって教えられたレシピの通り、お菓子の原液と黒ソースが入った器を蒸しており、何の失敗もなく出来上がっていくではないか。
おかげでキッチンからは甘い匂いが立ち込めはじめる。それが誰を呼ぶかは考えずともわかった。
「とっても甘いかおりがするよー!!」
猛烈な勢いで開かれた扉の向こう、目を輝かせていたのは案の定ポラリスである。
だが、彼女は1人で駆けてきたわけではないらしく、その後ろには引き摺られてきたであろう青年の姿もあった。
「急にポラリスが走り出したもんだから、何事かと思ったら――プリン?」
「ナルフってお菓子よ。まだ荒熱を取らないといけないから、出来上がるまで待ってて頂戴」
「凄いな。これ、マオが作ったのかい?」
少し自慢げに説明すれば、水に晒された鍋を覗き込んでキョウイチは、はぁ、と驚いたように息を漏らす。
「そうよ。少しは見直してくれた?」
「マオが凄い子なのは良く知ってるよ。意外な一面、っていうのは失礼かもしれないけど」
褒められたことと向けられた笑顔に、一瞬カッと頬が熱くなる。
ただなんとなく、ニマニマした笑顔を向けてくるアポロニアと、ぷっくりと頬を膨らませたポラリスの存在に、私は彼から視線を背けた。
「こ、これくらいできて当たり前でしょ。褒められるようなことじゃないわ」
「そう、だろうか」
「御貴族様は気位が高いッスねぇ」
キョウイチは何か考え込んだ様子だったが、それもアポロニアの少々嫌らしい声にかき消されてモヤモヤが込み上げてくる。
それも、今度は自分が作るッスよぉ、なんて彼女が尻尾を振ってキョウイチに笑いかけるのを見ると、何故だか心の中は余計に波立った。
――ま、まぁでも、料理はアポロニアの縄張りだしね。当然当然。
何が当然なのかは自分でもわからないが、ともかく深呼吸1つと合わせて、心を落ち着かせることには成功した。
私は貴族であり、大人でもあるのだから、器用にできるのは料理だけじゃないし、女としての余裕も見せておく必要があるだろう。
ただ、私の作ったナルフは、少しだけすが立っていたが。
■
暫く後。
リンデン交易国の山奥にあるシューニャの故郷、司書の谷へ向かうため、私は人生初の船旅を経験することとなった。
となると旅支度が必要となるわけだが、この問題は貴族の女性にとって毎度頭を悩ませる問題である。
「……それで私を呼んだと」
「ええ。旅なのだから服には気を遣うけど、向こうの気候がわからないんじゃどうしようもないじゃない?」
「発想はとても合理的だと思う。けれど――」
相変わらず無表情な彼女は、司書の特徴である美しい翠色の瞳を、部屋の一角へ向ける。
「その量は、何」
視線の先にあるのは、寒いことを理由に大して使っていない寝台であり、私はそこに衣類を広げていた。
だが、何と問われても、少々答えに窮する。
「やっぱり、これじゃ少ないわよね……あっ、もちろん本家にはもう少し色々置いてあるからね? ほら、ここも今のところは仮住まいだし」
というのも、衣類にしても装飾品にしても種類が少なすぎるのだ。確かに自分は田舎子爵の娘であるから、宮廷貴族の女たちのように朝夕寝所と1日3着もドレスを変えるのは、着飾るにしてもやりすぎだと思っているのだが、それにしたって今の手持ちは余りに心もとない。
それもこれも、家財ばかり持ち込ませて服に力を入れない父のせいである。手紙で勅命についても色々報告しているのだから、もっと気を遣ってくれればいいものを。
だから少々早口で言い訳がましくなったのも、仕方がないと言えるだろう。自分だって年頃の乙女だし、いくらシューニャが相手でも、お洒落に無頓着だと思われたくはない。
実際、彼女は何かを察したように、至極呆れたようなため息をついた。それみたことかと、想像の中で父の首を絞める。
「……違う。多すぎ」
「へ?」
聞き間違いではなかろうかと本気で思った。多い、とはどういう意味だったかが思い出せないくらいには。
「え、え、えええぇっ!? ちょっと、シューニャ嘘でしょ!? ちゃんと見てみなさいな! ドレスなんて5着しかないのよ!? それにほら、外套なんてこれ1着だし、寝衣とか下着を足しても――」
「私たちは貴族じゃない。それに今回はタマクシゲを使えないのだから、荷物はできるだけ少なくするべき」
シューニャの言葉を頭で反芻した結果、どうやら私の中にある旅という発想自体が間違ってるらしいことがわかった。
何せ自分の記憶にある旅行という奴は、どれも幼い頃のものであり、荷造りに関することなど朧気だ。それでも、自分はどこか見知らぬ町の中、毎日違う服を着てはしゃいでいたことだけはハッキリしている。
しかし、今回の旅はそうじゃない。幼いこの身が経験した旅行ではなく、騎士団の遠征に参加するようなものと考えるべきだろう。
そうなると装飾品の類は無用の長物であり、私はバトルドレスと肌着の類以外を片付けようと手を伸ばし、そこでふと、シューニャの姿に素朴な疑問を抱いた。
「一応聞いておきたいのだけれど、シューニャだってお洒落な服くらい持ってるのよね? その、いつも着ているポンチョは別にして、よ?」
初めて夜鳴鳥亭で会った時から今日に至るまで、彼女の服装はほとんどがこのポンチョ姿であり、それ以外で覚えがあるのは、ポンチョを脱いでシャツと短いズボンか、あるいは柔らかそうな寝衣くらいである。
いくら彼女らが放浪者だったとはいえ、うら若き乙女であることに変わりはないのだ。まさか持っていないと言うことはないだろうし、もしかすると自分が見ていないだけではと思っていたのだが。
「このシャツが3着、ズボンが2着。あとは寝衣が1揃いと防寒着、お仕着せが1着。終わり」
残念なことに、シューニャの返答はあまりにも非情だった。
「……そ、それって乙女として、大丈夫なの?」
「放浪者にとって衣服は高価な買い物だし、見た目を気にしている余裕なんてほとんどない。私だって少し前までは、シャツとズボンを2着ずつと、ボロボロのポンチョくらいしか持っていなかった」
さも当然、と彼女は一切の淀みなく語る。
今日この瞬間まで、私は自分が庶民に感覚の近い貴族だと思っていた。それこそ子爵令嬢という立場でなら、誰よりその苦労を理解しているとさえ。
だが、現実は想像よりはるかに過酷と言っていい。
おかげで、農夫たちがいつも同じ格好をしているのは、汚れてもいいように仕事着を着ているからだろう、などと本気で考えていた自分が急に恥ずかしくなってしまい、それを取り繕うように議題を乙女に集中させた。
「で、でも、でもよ! 今はそれなりにお金があるんでしょう? シューニャなんて顔立ちも整っているんだし、やっぱりお洒落しないのは勿体ないわよ」
「ん、別に興味がないとまでは言わない、けど――私は今の服をとても気に入っている、から」
「そのポンチョのこと? 確かに王国ではあんまり見かけない模様だけれど……何か理由があるの?」
私はその時、ポンチョの裾を握ったシューニャの表情が、ほんの少しだけ弛んだように見えた。
遊牧民たちの工芸品であろうそれは、織りといい染めといい、質は中々悪くない代物のように見える。だが、いつもは石像かと思う程に無表情を貫く彼女が、僅かでも頬を緩めるとなると、品質以外に何かあるのではと考えるのも当然だろう。
しかし、シューニャはまさか追及されるとは思っていなかったのか、ほんのり頬を染めて視線を左右に泳がせる。
それでもこちらが黙って回答を待ち続けていれば、やがて観念したように大きく息を吐き、その癖どこか嬉しそうな声色で気に入っている理由を語ってくれた。
「これは……キョウイチが初めて買ってくれた物、だから。この帽子も、ポンチョも、私にとっては、とても、とても大切な物」
その言葉を飲み込むまで、私は少し時間を要した。
想い人からの贈り物。それだけでシューニャの無表情が揺らぐには事足りるだろう。
――また、あのモヤモヤ、ね。
前よりもハッキリとしたそれは、胸に針を刺したような痛みを与えてくる。
別にキョウイチがシューニャに服をあげたから、なんだというのだろう。その時の自分は彼のことを知りもしなかったし、昔のことを聞いて苛立ちを覚えるなんて何の価値もないではないか。
だから私はまた、無理に笑顔を貼り付ける。その視線だけはポンチョから外せなかったが。
「――そ、そう、なのね……あら?」
しかし、そんな自分の浅ましい感情が、この時ばかりは助けになった。
「どうかした?」
「ねぇそのポンチョ、穴空いてるんじゃない? 小さいけど、これ」
「あ……」
紺色のポンチョから小さく覗いたのは、明らかに茶色いズボンの生地。裾の近くであることから、何処かに引っ掛けでもしたのだろう。よっぽど注視しなければわからない程小さい穴であるため、自分は相当ポンチョに視線を奪われていたことになる。
それがなんだか悔しくて、私は意図的に呆れたような声を出した。
「もぉ、大切な服なんだったら、ちゃんと繕っておかないとダメじゃない。ほら、裁縫道具くらい貸してあげ――?」
我ながら少し意地の悪い言い方をしたものだ、と思っていたのだが、シューニャはそんなこちらのことなど一切気にした様子もなく、なんなら普段の冷静さが嘘のようにおどおどしている。
その様子はまるでジークルーンのように見えたため、私は彼女にするのと同じようにシューニャへと視線を合わせた。
「ちょっと落ち着いて、どうしたの?」
「わ、私はその、不器用だから、裁縫が苦手で……うぅ」
無表情の癖に、瞳だけはハッキリ混乱と動揺を映していて、何なら少し潤んでいるようにさえ見える。
それだけで、自分の中にあった浅ましい心は急激にしぼみ、代わりにそれこそ気弱な幼馴染へ向けるような感情が湧いてきた。
「はぁ……そんな泣きそうな顔しないでよ。やってあげるから」
「で、できる?」
「ウィラを知ってると得意なんて言えないけどね。これくらいなら私でもすぐ直せるわ。ちょうど近い色の糸もあるし」
いつも大人びていてしっかりしているように見えるシューニャでも、自分より2つも年下なのだ。
そんな妹のようにさえ思える彼女の縋るような言葉を聞いて、恋敵だからと放っておけるほど、自分は腐ったデミではなかったらしい。
おかげで少しホッとした半面、恩を売るような真似をしないと落ち着かなかった心を、情けないとも思ったが。
自嘲的な思考に苦笑しながらベッドに腰かけ、できるだけ似た色の糸を選んで、ポンチョへ針を通していけば、小さくほつれたような穴はすぐに見えなくなっていく。
「ふぅ……こんなところかしら。どう?」
パチリと糸を切ってから大きくポンチョを広げて見せる。
するとシューニャは、まるでテクニカの研究者たちが文献を調べている時のように、真剣な表情でその裾をまじまじと眺め、やがて器用に無表情を維持したまま瞳を輝かせた。
「穴のあった場所が全然わからない。マオリィネ、すごい」
「大袈裟よ、別に私は特別じゃないわ」
自分に向けられるシューニャの視線が、あまりにも眩しく思えて目を逸らす。
私は特別なんかじゃない。
今も喜んでくれている彼女の姿を見て、何故かまたチクチクと胸が痛むのだ。そんなことを感じても、何もいい事なんてありはしないのに。
だから精一杯、薄暗い感情を振り払うように明るく振舞う。
「それじゃ改めて、旅支度を手伝ってくれる?」
「ん!」
シューニャは表情こそ変わらないが、興奮した様子でポンチョを羽織りなおすと、嬉々として荷物の選り分けを手伝ってくれた。おかげで、私も醜い心を押し込めることに成功している。
ただ残念なことに、彼女が説明してくれたリンデンの気候に対応した服はなかったため、後で酷く不快な思いをすることにもなったのだが、それはまた別の話。
■
揺れる快速船、リングフラウの甲板上。
漕ぎ手が呼吸を合わせるために鳴り続ける鼓の音を聞きながら、私は1人、島影すら見えない海の上をボンヤリ眺めている。
北へ向かうに従い日に日に暖かくなり、海はキラキラと輝いて美しい。
だが、いくら初めてのこととはいえ、何日も同じ海の景色を眺めているのは退屈であり、既に最初の感動と期待は潮風に霧散してしまっていた。
それでも部屋でくつろくでもなく、わざわざ甲板に上がっているのは、やはりあのモヤモヤのせいである。
何せ、狭い船内で時間を持て余しているのは誰しも同じ。特にキョウイチが1日中ダラダラ過ごしているというのは中々に貴重であり、これを皆が好機と捉えるのは当然と言えた。
ファティマが撫でろ撫でろと喉を鳴らせば、アポロニアも負けじと彼の腕に絡みつく。そんな様子にシューニャは少々呆れたような表情を見せるものの、彼女らが離れた時を見計らって寄り添い、幸せそうに本を読んでいる。更に体調が回復しつつあるポラリスが目を覚ませば、彼女は寂しいからとベッドにキョウイチを引っ張り込む始末。
――羨ましい、のかしら。私。なんで?
彼女らは自らのやり方で好意を伝えているだけであり、自分だってその想いは以前にハッキリ伝えているのだ。競争だと言われていても、誰かを羨む必要なんてどこにもない。
私は貴族という出自と父の意向により、内容の好き嫌いに関わらず、様々な物語や劇に触れてきている。その中には恋愛奇譚も数多く存在し、そこには羨望や嫉妬から破滅する人々の姿がよく描かれていたように思う。
学べるものはなんでも学んで力にしろ、と父は言った。だから私は人を妬むような真似をしたくない。
けれど、自らの思いに反して消えない感情があり、それを意地でも嫉妬でないと言い張るならば、その感情には何という名前をつけたらいいのだろうか。
私にはそれがわからない。わからないから、向ける先すら見つからない。
だから手すりに寄りかかったまま、何度目かわからなくなったため息が口から零れ落ちる。
しかし、再び同じような思考を繰り返しかけた時、何かが頬に触れたことで、私は飛びあがることになった。
「ひゃぁッ!?」
腰が抜けて尻もちをつきかけたものの、手すりを支えに仰け反るだけで済んだのは幸いだったかもしれない。
何せ、慌てて振り向いた先に居たのは、件の想い人だったのだから。
「お、驚かせないでよ! 転ぶかと思ったじゃない!」
「ごめんごめん。随分と悩まし気に見えたから、ついね。薄い果実酒でよければ、飲むかい?」
キョウイチはそう言って笑いながら、金属製のマグカップを差し出してくる。
彼がこんな子どもっぽい悪戯をするのは珍しいが、どうやら自分はそれほど憂鬱そうな顔をしていたらしい。おかげで悪態の1つもつくことができず、私は素直にそれを受け取る事しかできなかった。
「あ……ありがと」
「うん」
そう言ったっきり、彼は何も聞かないまま静かに遠くを眺める。
最初は私もその横顔をチラチラとうかがうだけで、薄い果実酒を少しずつ口に含んでいた。
だが、少し時間が経ってくると、キョウイチが隣に立っているというだけで、今までのモヤモヤが影を潜めていることに気付かされた。
「……現金、かしらね」
「現金? 一応、手持ちはそれなりに持ってきているつもりだが――」
「違うわよ」
唐突にポケットを探ろうとするキョウイチを半眼で睨みつける。
苦笑する彼は、天然なのかふざけているのかよくわからない。だが、困ったように後ろ頭を掻く姿を見ていれば、不思議と緊張していた自分が馬鹿馬鹿しくなって、少し肩の力が抜けた。
「だろうなぁ。貴族のマオがお金に困るとは思えないし」
「庶民と比べれば当然ね。いやでも、そういう話じゃなくて――」
少し言い淀む。
彼は当事者であり、私が口にしようとしていることは我儘に過ぎない。
だが、黒い瞳に映った自分の姿を見た時、言葉は自然と咽から溢れていた。それも、驚くほど捻りのない一言で。
「……嫉妬って、どう思う?」
「嫉妬」
好きではない言葉。けれど、どうしても自分の感情に名前をつけるとすれば、結局それしか見当たらない。
だが、言葉にした途端、腹の中で急激に膨張したそれは、あっという間に制御不能となって口からあふれ出た。
「私は王国貴族だもの。人前でベタベタするなんて、はしたない真似はできないわ。それに私はシューニャたちと比べて新参だし、ポラリスみたいに貴方の記憶と関りがあるわけじゃないから……そう思ったら、全部持ってる皆が羨ましくて、妬ましくてね。ふふ、ポンチョを羨む貴族なんてきいたことあるかしら?」
我ながらなんと醜く情けない感情だろうか、と笑みが浮かぶ。
誇りある王国貴族の一員として、また子爵令嬢として貴ぶべきは清廉であること。なのに自らが口にした内容は、その貴族であることさえ盾にしてしまうほどに汚らしい。
学があるからなんなのだろう。なんでも器用にこなせることに、なんの価値があるのだろう。ただ卑屈で矮小で欲塗れで、情けないデミの女ではないか。
しかも、それをキョウイチには知られたくないと思う一方、自らの全てを知っていてほしいなんて思ってしまう矛盾まで抱えているのだから、最早救いようもない。蔑むように笑われるのがお似合いだ。
「それは、そんなに悪いことだろうか」
けれど、キョウイチの落ち着いた声は、決して自分を笑おうとはしなかった。
「ここまで真っ直ぐ、嫉妬してる、なんて言われると照れ臭いんだが、マオはマオらしく、でいいんじゃないかな」
「私らしく……でも、嫉妬は醜い感情よ。誰かの足を引っ張りたくなるんだから」
「確かに嫉妬そのものはいい感情じゃないだろう。けど、そんなに自分を卑下しないでくれ。僕はマオを新参だとか、自分とは関りが薄いなんて言わないし、皆と同じ大切な存在だと思ってるんだから」
鼻の奥がツンとした。
彼からすれば、何のことはない一言かもしれない。だが、たったそれだけで、私は自分の胸に感じていたモヤモヤが解けていくように思えたのだ。
「……そう、なのね」
「それと、僕らは運命共同体だってことを忘れないでくれ。そこで貴族だの騎士だのっていう肩書とか、こうあらなければいけない、なんていう世間の目とか、そんなものを気にしてほしくはない、かな」
ポン、と頭に乗せられる大きな手。
それは、いつか自分の味方で居てくれると言った時と変わらず、とても優しく温かいもので、私は少し息が詰まった。
キョウイチは等身大の自分を見てくれている。身内の誰と比べることもなく、トリシュナー子爵という名前を気にすることもなく。
――あぁ、だから私はこんなにも惹かれてるんだ。
零れそうになった涙を見られたくなくて、私は手すりの前に立つキョウイチの後ろへ回り、マグカップを持った腕をその腰に回して、額を背中に当てていた。
ポラリスが落ち着く匂いだと言った気持ちが分かる気がする。乙女としてはやっぱりはしたないのだろうが、今はそんなことなどどうでもいい。
「このスケコマシ……なんでそんなに優しいのよ」
「優しいかな。あんまり自信がないんだが」
顔は見えなくても、彼がまた苦笑していることは手に取るようにわかった。
身体を寄せることには未だに慣れないけれど、こうしていると皆がいつもいつもくっついていたがる気持ちも理解できる。
自分を受け入れてくれるという安心感。それが肌から伝わってきて、私はまるで父に甘えた幼い頃のような言葉が込み上げた。
「ねぇ、私の作ったナルフ、美味しかった?」
「ナルフっていうと――プリンみたいなお菓子だよね。あれは甘くて美味しかったなぁ、また食べたいくらいだ」
「私がお願いしたら、何か贈り物、くれる?」
「勿論。あぁけど……僕のセンスにはあまり期待しないでほしいが」
「……バカ」
その一言一言が嬉しくて、腰に回した腕に力が籠もる。
キョウイチを求める心はどんどん強くなっていく。きっとこれには際限がない。
けれど、だからと言ってもう止まれない。貴族がどうとか、女としてどうとか、そんな枷はとうに吹き飛んでいる。
「――ちゃんと私のこと、見ててよね」
「あぁ……善処――いや、これも約束かな」
彼は困った顔をしていたかもしれない。
嫉妬に代わって現れたのはちょっとした独占欲。
それを私は、きっと捨てられないだろう。
こんなにも誰かを愛おしいと思ったのは、はじめてなのだから。
■
夕陽が差し込む船室には、相変わらず退屈そのものと言った空気が流れている。
だからこそ、私の声は皆の興味を強く引いたことだろう。
「ねぇアポロニア、ちょっと木札貸してくれない?」
「んぇ? 別にいいッスけど、博打もそろそろ飽きたんじゃないんスか?」
木札を使う博打は船旅2日目の時点で、アポロニアがルールを知っていた物はやり尽くしている。だからこそ彼女は不思議そうに首をかしげていたのだが、別に私は新しいことで退屈を紛らわせようとは思っていない。
今の私にとって重要なのは、時間つぶしではなく、賭けの対象そのものなのだから。
「雪辱戦ってところよ。ポラリスに負けっぱなしじゃいられないもの」
「マオリーネがどーしてもっていうから」
ひょっこりと後ろから顔を出したポラリスはきっと、心の底から仕方ないと思っていたことだろう。何せ10歳近くも年の離れた相手から、どうか前と同じ条件でもう一度戦わせてほしい、なんて言われたのだから。
「……なるほど。ポラリスから添い寝権を奪おうと、そういうこと?」
無論、退屈を持て余している面々が、ポラリスと、という部分に反応しないはずもない。
手帳に何かを書きこんでいたらしいシューニャは、マンネンヒツという筆記道具に蓋をしながら、やれやれと小さく首を振った。
今までの私なら、ここでプライドが邪魔をして全てを取り下げていたかもしれない。だが、今回はそんなことを理由に退いてやろうなどとは微塵も思えなかった。
「――そうよ。いけないかしら?」
できるだけ平静を装ってはみる。
それが無駄な抵抗だったのは、言うまでもないことだろうが。
「大人げないッスねぇ」
「変態貴族」
「いいでしょ! わ、私だってキョウイチと添い寝したいんだもん!」
その声は自分の耳にさえ、駄々をこねる子どものようにわぁんと木霊する。
おかげで顔から火が出そうなほどに恥ずかしかったのだが、何故か彼女らはそれを笑おうとはせず、ただ呆気にとられた様子で硬直していた。
「お……おぉー……御貴族様が言い切りましたね……それ、ボクも参加させてもらっていいですか?」
「あ、サシ限定じゃないなら、自分も混ぜて欲しいッス!」
「なるほど……これが宣戦布告」
口々に告げられる欲望塗れな参加表明。
貴族の癖にはしたないと馬鹿にされることもなく、プライドはないのかと笑われることもない。
おかげでその有様に苦笑させられたのは、むしろ私の方だった。
「人の事散々言っといて、皆やる気満々じゃないの……」
「カッ、そりゃそうだろ。なんせここの女にゃ色狂いしか居ね――グェッ」
唯一全員を平等に笑おうとした骸骨は、ボキョリという音と共に沈黙させられる。
誰も自分を偽ろうとはしていない。ただありのまま、同じ男を好きになったと言うだけの事。
自分が素直であり続けられるかなんてわからない。けれど私も負けられないのだ。
だからまずは添い寝権。きっとそれを貰えても、皆の手前、恥ずかしくて簡単には使えないだろうけど。
「今回は絶対、勝たせてもらうわよ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます