魅惑の庶民食材
「料理の本?」
かっくんと金色の頭が傾く。
冬場でも比較的暖かくなる昼間のこと、自分は珍しくシューニャの部屋を訪れていた。
「ちょっと王国料理を知りたくて、食材とかに関するのでもいいッスから、なんかそういう本ってないッスかね?」
「ん。確かこの間増やした本の中に紛れていたはず……少し待っていて」
そう言うとシューニャはダマルの配慮で設置されている本棚を漁り、そこそこ分厚い1冊を引っ張り出してきてくれる。
彼女は普段と変わらず無表情だが、いつもより動きが軽快だったことから、どうやら知識を頼られることはそれなりに嬉しいらしい。知識も豊富で基本的に冷静であるためにどうにもやや大人びて見てしまうのだが、シューニャは未だ成人から2、3年しか経っていない年下だということを忘れてはならない。
「これは植物学の本。前半に食用に使われる草花が載っていて、調理法に関しても記載があったはず」
「助かるッスよ、どうにも帝国と比べると種類が多くて――」
「王国料理ならトゥド・サラダが、今の季節は作りやすいかもしれない」
自分の言葉に対し、シューニャは食い気味に追加情報を口にする。
聞いたことの無い食材の名前だったが、どうにも彼女は食べたことがあるのだろう。受け取った本をパラパラとめくっていた手を止めて顔を上げてみれば、キラキラと輝くエメラルドのような目と視線がぶつかった。
――食べたいって素直に言えばいいのに、まぁこれも可愛いとこッスかね。
妹のように思える彼女が期待しているのだ。せっかくだから作ってみるか、と自分はひらひら手を振った。
「情報感謝ッスよ、近々楽しみにしといて欲しいッス」
「ん、期待してる」
表情にも声色にも変化はほとんど見られないが、静かに興奮しているらしく、頬が少しだけ紅潮しているのが見て取れた。小柄で細身な彼女は食事量も大したことはないものの、食へのこだわりはそれなりに強いのだろう。
これは少々本気で情報を探さねばと、自分は気合を入れながら借りた本を手に自室へと戻る。
最近夜は酷く冷えることで、自室のベッドはめっきり使わなくなった。
しかし、昼間なら毛布を被ってさえいればそこそこ快適に過ごせるため、自分は早速もぞもぞと寝台へ潜り込み、枕元に本を開いてうつ伏せでそれを読み始めた。
「
文字が読めるとは言っても、自分はあまリ読書が得意ではなく、本とはどうにも縁遠いものである。特に物語の類に関しては、吟遊詩人の歌を聞いたり劇を見たりする方が好きだった。
ただ本の内容が食材や料理法に関する物だったからだろうか。想像していたよりも楽しんで読み進められていたように思う。
「あぁ、
多分シューニャが言っていたトゥド・サラダというのはこれの事だろう。意外と手軽に作れそうで悪くない、などと考えながら必要な材料を想像していく。
だが、直後に見えたトゥドの持つ植物的特性に、自分は硬直してしまった。
「恒常的に摂取すると、
■
いざ調理したトゥドは、本の挿絵にあった通り凸凹とした食材だった。
シューニャが言うように冬場の庶民食なのだろう。そこそこ保存もきくらしいので、行商から結構な量を買い付けたが、同量のパンを買うことを考えれば安価だった。
そして実際料理に使ってみたら、これが中々悪くない。適当に蒸かしただけでもかなり柔らかくなる上に独特の甘みが出て、酢と
「ふむ――どうせなら、色々試してみるッスかね」
一口大に切った物をスープに放り込んでみたり、皮を剥いて薄く切ったものを焼いてみたり、先の蒸かした物を潰して平たい円形に成形してから焼いてみたりと、とりあえず思いつく限りやってみる。
試作を重ねれば、訳の分からない味になったり強いえぐみが出て食べられなくなることもあったが、初めて触れる食材にしては上手くできたものが多かったように思う。ただ勢いに任せて作りまくった所為で、とんでもない種類と量になってしまったが。
「……ちょっとやりすぎたッス」
大量に並べられた皿を見て、調子に乗ってしまったと頬を掻く。いくら住民の大半が若年の大人だとはいえ、ご主人とダマルを除けば女性ばかりであり、人数の割にそこまで食事量は多くないのだ。強いて言えばファティマがよく食べる方だが、だからといって山と積まれたトゥド料理を消化しきれるほどの勢いはない。
とはいえ、我が家にはレーゾーコなる不思議道具が存在する。仕組みはよくわからないが常にひんやりしており、ダマルの言を信じるなら中に入れておけば食品の保存期間を延ばせるという素敵な箱だ。元々が貧乏性の自分にとって、食べ物が傷みにくくなるというのは非常にありがたく、水道と並んで古代技術の中でも特にお気に入りだった。
さてどの皿を放り込んでおくべきか。夕食の献立と合うトゥド料理を選別していると、どうやら匂いを嗅ぎつけたらしく、廊下から楽し気な声が聞こえてきた。
「ごはんできたー!?」
バーンと勢いよく台所の扉を開いたのはポラリスである。キラキラと空色の目を輝かせ、無邪気に飛び跳ねる姿にはついつい苦笑してしまう。
ほとんどの場合、夕食ができる頃合いに一番乗りしてくるのは彼女である。本人曰く、今までは部屋に押し込まれているばかりで面白くなかったから、色々お手伝いするのが楽しいのだとか。
ほむんくるす、と呼ばれる存在がどういう環境で育ったのかなど、ほとんど学のない自分の頭では、全く想像がつかない。しかしこの場合、重要なのは本人が楽しみにしてくれているという部分だと思うので、わざわざ面白くない記憶を掘り返そうとも思わないのである。
「ポーちゃんは元気ッスねぇ」
「だってだって! 今日はとってもいいにおいがするんだもん! なに作ったの?」
「あー……料理に名前がないから、なにって言われると困っちゃうッス」
色々と試した結果使いやすい食材であることはわかったが、トゥドに関してはまだまだ知らないことの方が多い。もしかすると王国では名前がついているのかもしれないが、その辺りはマオリィネかシューニャに聞くしかないだろう。
ただ意外なことに、ポラリスは皿に盛られた件のサラダを見て、パッと花が咲いたように笑った。
「ポテトサラダだ!」
「はっ? ぽ、ぽて……? なんスかそれ?」
自分が作った料理だというのに、聞きなれない単語に素っ頓狂な声が出た。
まさかつい数か月前まで地下で800年近く眠らされていた彼女が、王国料理など知っているはずもない。そもそもぽてととは一体何なのか。
その答えは自分が聞くよりも早く、ポラリスの後ろからゆらりと顔を出した。
「アポロ、夕食――って凄い量だな。それにこれは、ポテトサラダ?」
ポラリスに続いて現れたのはご主人である。なんだか少し疲れたような顔をしているように見えるのは、ポラリスの遊び相手でもしていたのだろう。子どもの勢いというのはミクスチャを倒す英雄すら圧倒するのだから凄まじい。
しかし、その2人からまさか同じ名前が繰り返されるとは思わなかった。
「え、えーと……ご主人? 作っといてあれなんスけど、ぽてとさらだ、ってなんスか?」
「あぁすまない。昔、似たような料理があってね。馬鈴薯というやつを使うんだが――そうそう、ちょうどこれを茶色くしたような見た目だよ」
そう言って彼が指さしたのは、未だ麻袋一杯に詰め込まれているトゥドである。
全く同じという訳ではないらしく、ご主人は色に違和感を覚えていたようだが、調理法は相当に似通っているらしい。皿に盛られた物をざっと見まわすと、ほぉ、と声を上げた。
「芋料理のオンパレードって感じだな。どれ」
「あっ、ちょ、ご主人!」
千切りにしたトゥドとチーズと一緒に焼いた料理に彼は手を伸ばすと、止める間もなく1つ攫って口に放り込む。静止しようとした理由は行儀の悪さもあるが、個人的にはあまり自信のない方の試作品だったため、どんな反応が来るか分からず怖かったというのが大きい。
だが、ご主人は自分の不安に対し、しっかり咀嚼してから飲み込むと柔らかく笑った。
「うん、相変わらずアポロの料理は美味いね。なんだか懐かしい感じだ」
「……え、あ、そうッスか? うぇへへへへ」
素直に褒められたことが嬉しく、懐かしいというのが太古のことだとすれば、再現できた自分の腕も中々に捨てたものではないらしい。
おかげで我ながら気持ち悪い笑い声が出たが、褒められたことと別方向から静かに忍び寄る手は別問題であり、軽く弾いてにこやかに諫める。
「ポーちゃん、ご主人の真似したら駄目ッスよ。行儀が悪いッス」
「えー!? キョーイチは食べたのに?」
「さっきのは反面教師って奴ッスよね、ご、しゅ、じん?」
「――す、すみませんでした」
できるだけ笑顔に迫力を乗せれば、頭1つ半以上は背丈の違う青年が僅かに後ずさり、その場でしゅんと肩を落とす。その姿に、叩かれた手を擦って不服気だったポラリスも、どこか納得した様子だった。
「わかればいいんス。ほら、ご飯にするッスよ、運んだ運んだ!」
自分は上機嫌に尻尾を振りながらフフンと自慢の胸を張り、食事をトレーに乗せて2人に託す。
彼らがリビングに料理を持ち込めば、家族揃って夕食の時間だ。
だというのに、再びキッチンで1人になった自分は、褒められたことを純粋に喜ぶ一方、微かに燻る野心から小さく拳を握りこんでいたのだった。
■
王国料理を始めてから暫く後の夜。
ちょうど冬嵐が吹き荒れた日の事だった。
「なぁアポロ、お前このところジャガ――じゃなくて、トゥドっつったな。あれの料理に凝ってんのか?」
ポラリスを連れて風呂に入ろうとした自分に、そんな声を投げかけてきたのは骸骨である。寒さに弱いダマルは毛布を体に巻き付けて、ホットワインを啜りながら暖炉の番をしつづけていた。
骨の疑問は素朴なものだったに違いない。だが、何故か核心を突かれたような気がして、自分は僅かに肩を跳ねさせてしまった。
「い、いやぁ、ちょっと王国料理を色々試してみてるとこなんスよ。もしかして、苦手だったッスか?」
「んにゃ、俺ぁ元々芋料理は嫌いじゃねぇし、トゥドのチーズ焼きはジャンクな感じでビールが欲しくなるくらい気に入ってるぜ。しかしそうか……王国は芋料理文化なのか……」
「冬はトゥドがよく採れるから、自然と多くなるのよ。それにしても、アポロニアの作る料理は凄い種類だけれどね」
「これでも料理は趣味ッスから、ね、アハハ」
骸骨の横で生粋の王国人たるマオリィネが、トゥド料理の豊富さを褒めてくれる。実際は思いつく方法を片端から試していった結果なのだが、そこは敢えて口にせず微妙な笑いを返しておいた。
「じゃ、じゃあ自分はポーちゃんとお風呂行ってくるッス」
「おう、引き留めて悪かったな」
「出たらキョウイチに言ってあげてちょうだいね」
2人が興味を失ったことを確認し、自分はポラリスの背を押しながら寒い廊下を逃げるように風呂へ向かう。
外が豪雪で驚くほど冷え込む夜に、温かい湯に浸かれるというのはまこと贅沢だろう。いそいそと服を脱いで籠に放り込んで、一瞬の刺すような寒さに耐えながらポラリスに桶で湯を浴びせた。
「ふへぇ……家で温浴ができるってのは、ほんと贅沢ッスねぇ」
「そーなの? じゃあフツーのお家にはシャワーしかないとか?」
「そのしゃわーが分かんないッス」
お湯で顔を流すポラリスは、どうにも不思議だと首を傾げて見せる。
ご主人にしてもそうだが、古代を知る者たちにとって個人浴場はあって当然の代物らしい。彼らが貴族や豪族で無かったとすれば、大昔にはそこかしこで温泉が湧いていたのだろう。
「……ねぇポーちゃん。その、おいも? ってどんな食べ物だったッスか?」
なんとなく、そうなんとなくである。
神代という話を考えた時、ご主人やダマルが時折口にする謎の食材について、ポラリスに聞いてみたくなった。
するとポラリスは唇に指をあてながら、んーと何かを考え始める。
「えっとね……こう、こんなくらいの大きさで、ボコボコしてて茶色くて――そんくらいしか知らない!」
「そ、そうッスか。これくらいでボコボコしてたんスねぇ」
どうやらポラリスは食べたことこそあれど、それがどういう植物なのかということに関してはほぼ知らないらしい。
ただ、自分が知りたいのは、その食材的特性である。無論、どういう効果があるのかという問いを、幼いポラリスに求めた段階で無理があったのだろうが。
――恒常的に、ってどれくらいなんスかね?
既にトゥド料理を連続し始めてから数日。今日までに使用したトゥドは相当な量に上る。無論、家族全員が毎日必ず口にしているわけではないが、最低でも毎食2種類はトゥド料理を出しているし、各々それなりに食べているはずだ。
ただ、自分が望む効果は今のところ現れていない。
「なんでそんなこと聞くの? お芋なんてめずらしくないのに」
「いや、なんていうッスか、そのおいも? ってこう、好きな人を振り向かせたりする力があったのかなー、なんて気になって」
「えー、そんなの聞いたことないよ?」
ポラリスはなにか驚いたようにバシャンと湯を跳ね上げながら振り返ると、いやしかしと何かを考え始める。そして思い付きをポロリと口にした。
「ジャガイモって、みんなふつうに食べてたけど、それだったらみんな好きな人とうまくいったのかなぁ」
「ギャふッ――」
言われてみればそうである。
じゃがいもとやらとトゥドは別の植物なのは間違いない。しかし彼女の言葉が間違っていなければ、庶民食で誰しもが口にできる食材という条件は一致している。
だとしたら、毎年冬場に主食としているユライア国民たちは、とんでもない性風俗を持つことになってしまうではないか。
「ぐへぇ……言われてみりゃそうッスよぉ……ちょっと期待してた自分が馬鹿みたいッス」
「なにをきたいしてたの?」
「え、えーと、そりゃあの、あれッス。女の魅力的な奴ッスよ」
射抜くように向けられる純粋すぎる視線に、自分はしどろもどろになりながら、なんとか無難な答えを返す。無論、内心ではちょっとどころではなく、何かをきっかけにご主人が求めてきてくれないかと本気で期待していたのだが。
ため息をつく自分に対し、ポラリスはわかったのかわかっていないのか、おー、と気の抜けた声を出す。
だがその直後、その白い手でむんずと自分の胸を掴まえた。
「んひゃいっ!?」
「おぉ、すっごいやわらかい」
「キャンっ! こ、こら、いきなり何するッスか!?」
突然走ったくすぐったさに慌てて身を退いたが、触れていたポラリスは手を握ったり開いたりしながら、不思議そうな声を漏らす。
「オンナノミリョクって、おっぱいのことじゃないの?」
「そ、そりゃあ――ま、間違っては無い、と思うッスけど……でもご主人は興味なさそうじゃないッスか」
「そんなことないと思うけどなぁ。きっとおっぱい見てるのバレたらはずかしいから、かくしてるだけだって!」
絶対そうだと断言するポラリスの言葉に、自分はゆっくりと視線を下へとずらす。
そこ見えるのは湯に浮かぶ程大きな自らの胸。普段は肩こりの原因にしかならない邪魔ものだが、小柄な体躯の自分にとっては女性として唯一自信のあるパーツでもある。
――隠しているだけ、だとすれば。
この時の自分は、裏で進めていた策の失敗と風呂の熱気で、欲望が溢れかえっていたに違いない。
■
ちょうど極寒の夜である。くっついて眠るのはいつものことだが、自分は凍えそうだと言ってご主人の隣を陣取った。
いつもなら彼の上にはポラリスが乗っかっていたが、今日は反対側へ転がされたらしく、ファティマに抱えられて眠っている。そして自分の背中にはシューニャがマオリィネとの間に挟まっている。つまりご主人と最も密着しているのは自分だった。
だから皆から寝息がでてきた辺りで、ご主人の腕にそっと絡みつく。すると彼はまだ眠っていなかったのか、僅かに顔をこちらに傾けてくれた。
「……眠れないか?」
「というか……ちょっとご主人の温もりが欲しくて」
「なんだいそりゃ」
声を抑えて彼は小さく笑い、自分が体を強く寄せていけば、優しく頭を撫でてくれる。
それはいつも通り温かく幸せな事なのだが、どうしても不思議に思うことだってあるのだ。
「あの、聞きたいんスけど」
「なんだい」
「ご主人て、性欲ないんスか?」
沈黙。
あの植物学の本に書かれていたトゥドの効果というのは、コーワと同じだとすれば一種の興奮を引き起こす効果だ。今ではそれが眉唾であることはわかっているが、それにしたって胸を寄せられて反応しないというのは疑問が残る。
そんな理由でぶつけた質問だが、彼は相当困っているらしい。うんともすんとも言わないままそこそこ長い時間が過ぎ、ようやく消え入るような声を出した。
「阿呆なこと気にしてないで寝なさい」
「えい」
一層密着を強め、なんなら顔も首元に寄せてやる。
意地でも女体に興味がないと言い張るなら、こちらも攻勢に出るまでだ。それが半ば拷問に近いと分かっていながら、自分は全力でくっついてやった。
おかげでご主人は微かに震えていたように思う。何かに必死で耐えるかのように。
「……なんの、真似だ」
「答えて欲しいッス。未婚の女にここまで囲まれて、なーんで平気な顔して寝れるんスか」
ギギギと微かな歯ぎしりが聞こえた気がした。それでも自分は一切腕を緩めない。
キメラリアやデミを嫌っていて、かつ平坦な胸の生娘に興味がないというのならわかる。しかしご主人の言葉を信じるなら、そのどれにも当てはまらないのだ。
ただでさえシューニャは美少女であり、マオリィネは少なくとも見た目には美人である。ポラリスは年齢的な無理もあるだろうが、それでも過去の恋人に似ているという以上無反応とはしづらいだろうし、悔しいながら猫にだって健康的な魅力があるのは間違いない。
それに囲まれて無反応を貫けるなど、男としてどんな修行をすればいいのか。逆に女の身としては、お前には魅力がない、と言われているようで、どうしても納得できないのだ。
それでもだんまりを貫く彼に、自分は更に足も絡めていく。
「君、最近発情して危なかったんだから、もう少し自分を大切に――」
「むしろ発情したのが最近だから平気なんスよ」
キメラリアは発情を起こしてから一定期間は、事故的に発情することがなくなる。無論、自らが強く望めばこの限りではないのだろうが。
すると彼は音を殺しながら深い深いため息をつき、そこでようやくまた自分に向き直ってくれた。
「……平気な顔なんてしてられるはずないだろう」
「え?」
「僕だって男なんだ。悶々とすることも多いし、欲望だって人並みにある。ただ君たちに対して、不誠実なことをしたくないだけだよ」
その言葉を聞いた時、自分は一瞬冷や水を浴びせられたようだった。
無理に気を引こうとなんてしなくても、ご主人は自分を、自分たちを見ようとしてくれている。だというのに、求められていないような気がして、勝手に不安になっていたのは自分の方ではないかと。
「――その、ごめんなさい、ッス」
自然と力が抜けて自分の体はゆっくりと離れていく。小さな隙間は体温を失ってか、温かいはずなのに何故か冷たい空気が入った気がして寂しくなった。
最年長だというのに自分は我儘だ。それが酷く情けなく、申し訳なく思えてしまう。
けれど離れたはずの体は、間もなく力強く引き寄せられた。
「キャ――ん……な、ごしゅ、じん?」
「アポロが謝る事なんてない。君は君のままでいいんだから」
一瞬、自分がどうなったのかわからなくて慌てたが、頬にかかる微かな吐息から抱きすくめられたのだと教えられた。
続けてまるで幼子にするように優しく背中を叩かれる。それだけで小さく芽生えた不安と情けなさが綻び、時々擦るように動く指がくすぐったくて再びご主人に自分からも抱き着いた。
「変な事聞いて、ごめんなさいッス」
「いや……不安なのはよくわかったから、そうだな」
不意にご主人の呼吸が耳にかかり、僅かに身体が強張る。
視界は服で真っ暗なのに、ただそれだけで少し彼が緊張しているのがわかった。
「――いつか本気で求めるから、それまで待っててくれ」
ぞわり、と背筋を快感のような何かが駆け抜けたように思う。
これがたとえ今だったとしても、事故的な発情に失敗した後でありながら、自分は求めに応じられた気がする。それくらいの感覚。
主に褒められること、認められることがアステリオンの幸福。ならば必要とされること、求められることもまた幸福らしい。
恥ずかしすぎて顔は上げられなかったが、自分は彼の胸に貼りついたまま、羽虫の鳴くような声で、はい、とだけ返事をしたのである。
もしかすると、途中から夢の中だったかもしれない。
■
グラスヒルへ向かって走るタマクシゲの上。自分は猫と共に周囲を警戒していた。
いや、正確には森を抜ける街道には苦い思い出があるため、ご主人に外に居た方がマシだからと言われてここに立っていたのだが。
そんな中で不意に猫がポツリと呟いた。
「犬、聞いておきたいことがあります」
「何ッスか。暫く肉は干し肉しかないッスよ」
ファティマが自分に聞いてくることなど、大体食事のことくらいなのだ。今回もそうだろうと予想して、雑な返事を口にする。
しかし、彼女は目を爛々と輝かせながらこちらへ向き直ると、何故かムセンキのスイッチを入れてから、高らかにとんでもないことを聞いてきた。
「おにーさんとエッチなことする約束しましたか?」
ギャラギャラと喧しく騒ぐタマクシゲの音にさえ負けない声に、自分は一瞬呆気にとられ、何なら無線も暫く沈黙していたように思う。
だが、時間は確実に過ぎるわけで、徐々に噛み砕ける言葉に、自らの頬が急激に熱くなるのを感じて叫んだ。
「な、ななななっ、こんなどっ昼間っからなんつーこと言い出してくれてんスか!?」
『そういえばこの間の夜、そんなこと言ってたわよね? あれ、どうなったのかしら』
『エッチなこと……って、どんなこと?』
『おいマオリィネ、おチビから無線を奪っとけ。流石にこの話ゃ教育に悪ぃぞ』
騒がしくなった無線に対し、猫はこれ以上ないくらいのしたり顔を浮かべながら無言を貫く。どうやらあの夜の会話は夢ではなく、なんなら周知の事実と化していたらしい。
その上、とんでもない爆弾を投げつけてくるものまで居た。
『そういえば、トゥドには性的な興奮を催す効果があるかもしれないと聞いたことがある。このところトゥド料理ばかり出ていたというのは――』
「ぎゃー!! シューニャ、余計な事いわなくていいッスから!!」
『そうなのかい? ただの芋だと思っていたんだが……』
忘れてはいけないが彼女はブレインワーカー。自分が読んだ内容など頭の中に入っていたことだろう。ただ、披露されたのが最悪のタイミングであり、しかもご主人にまで聞かれてしまったため顔から火が出そうだった。
そしてこのタマクシゲに乗る者の悪癖だと思うが、こういう場合に止めようとしてくれる者はほぼ居らず、むしろ大概の者が煽り立ててくれる。その代表は骸骨だ。
『なぁんだ、やーっぱり裏があったか。しかもこりゃ相当なエロ犬だぜ、可愛がってやれよ相棒?』
『む、ぅ……そう、言われてもな』
『淑女にあるまじき行いよね?』
「エロ犬ですもん」
「うああああ、いっそ殺してくれッスぅぅぅぅぅう!」
森の中に自分の叫びが木霊する。
以前はゲロッパ役立たず、今回はエロ犬。どうにもこの街道を通れば不名誉なあだ名がつくらしく、森そのものが嫌いになりそうだった。
ただ、内心では彼の反応を少しばかり期待してもいたため、前のように拗ねることは流石にできなかったのだが。
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