ホラー小説はお好き?

 私は本が好きだ。

 記憶のような曖昧さがなく、先人が積み重ねた膨大な知識を内包し、それを万人に与えようとする英知の泉。

 だが、残念なことにこれらは高級品であり、ブレインワーカーとして働いていた私にとっては簡単に手が出せる物ではなかった。

 何せとんでもない紙の束であり、それを執筆した者の努力の結晶であり、加えて美しい装丁が施されているのだからそれも当然であろう。それがたとえ写字生スクライブの手で写本されたものであったとしても、凄まじい労力の上で作られるのだから。

 だからこそ知識は生きていく武器となる。そう思った私は、故郷を追放されるまでの間に司書の谷中の家々を訪ね歩き、知恵者が居ると聞けばリンデン交易国の首都スィノニームまで出かけたりしてとにかく本を読み漁った。

 おかげで成人してすぐブレインワーカーの試験に合格し、追放早々行き倒れるような事態は防ぐことができている。何ならその後も色々なコレクタに頼られて交易国から王国へ、王国から帝国へと渡り歩くこともできた。残念ながら人付き合いは上手くならなかったため、どこかの集団に居つくことはヘンメに会うまでなかったが。

 そんな経験から私は本が好きだったが、忙しいコレクタ稼業の傍ら探すことも難しく、運よく見つけられても金子が足りなくて、結局手に入れられないというジレンマに陥っていた。

 いたのだが。


「……最近金銭感覚がおかしい気がする」


 キョウイチから自室にするようにと与えられた一室で、置かれた立派な机に革袋の中身を広げてみれば、一気に銀貨が10枚以上転がり出てくる。これはブレインワーカーをしていた時に、いつか本を買うのだと必死で貯めた金額の10倍であり、それもここ半年以内でこんな額に達しているのだから眩暈がした。

 ただでさえキョウイチは全員の生活費を自身の財布から出しており、寝食どころか衣料に至るまで一切お金を使わないで済んでいる。おかげで今までは食費を切り詰めたり、安宿を選んだりして節約していた感覚は完全に麻痺していた。


 ――贅沢に慣れるのはよくない。せめて私だけはきちんと貯金しておかないと。


 他の皆がどうしているかは知らないが、キョウイチの金銭感覚はミクスチャ討伐以来完全に庶民からかけ離れている。ならばブレインワーカーとして不測の事態に備えるくらいは自分が担当すべきなのだ。

 細い腕に力を込めて私はふんと気合を入れ、確固たる決意を心に刻む。


「シューニャ、行商さん来たよー」


「ん」


 キョウイチに呼ばれて私は金子を革袋に纏めて入れ、口をきつく縛ってから階段を下った。

 最初の取引、絶対に節制しなければならない。


 ■



「や、やってしまった……」


 数分前の決意は何処へやら。

 目の前に鎮座する大きな箱。それは立派な革張りで、なんなら鍵までついている。

 クローゼに手紙で頼んでおいた行商は、どういう思惑なのか何なのか、このとんでもなく高級そうな箱を1つだけ目立つように積んでいた。

 鍵付きの大箱は珍しいと私は興味を持ったわけだが、ニヤリと頬を歪めた行商人はそっと蓋を開き、中身を私にだけ見せたのである。

 それはまさしく自分が追い求めて止まなかった本。それが一杯に詰まっているなどまさに金銀財宝に勝るとも劣らぬ宝箱だ。この時点で私から節制の二文字は完全に吹き飛んでしまっていた。

 なんでも物好きな貴族が金に困って放出したらしいが、それを銀貨5枚でいいと言われては飛びつくのも止む無し。私はまんまと商人の掌で転がされたわけだ。

 至る現在。目の前にはファティマに運んでもらった大箱が、部屋の片隅に鎮座している。

 脳内で飛び交う独特の多幸感とやらかした感。しかし買ってしまった以上、今更お金は帰ってこない訳であり、ならばと私は後悔の念を振り切って、知識の泉たる恋焦がれた本たちを幾つか取り出してみた。


「ヴェナー・グレン薬草学とアプトの人種分類、また読める日が来るとは思わなかった。ベイロレル神話は無茶苦茶なお話だったはず、また少し読み返すとして……ん?」


 自分が読んだことのある本たちのタイトルに、それを我が物とした嬉しさ半分、既読の本であることによる残念さ半分で複雑な感情を抱いていれば、適当に取り出した中にあった最後の本は、見たことの無い物だった。


「タイトルは潜む者? 作者は……書いてない?」


 著者名がない本は初めて目にする。それもページ数が少ないのか薄く、装丁も凝ったものではないという随分変わった本だ。

 逆に珍しい見た目に私は強い興味を引かれ、無意識にそれを机まで持っていくと、ダマルが設置してくれたとても明るいランプ卓上スタンドライトを点けてページを捲り始めた。



 ■



 内容は学術書や図鑑の類ではなく、神話や物語のようなものらしい。

 それはとある農家の話。秋の夜、若い娘が町へ出掛けた両親のため、1人留守番していた時のことが記されている。

 鎧戸が風にガタガタと鳴る中、彼女は藁の上でシーツにくるまって眠ろうとしていた。けれどどうにも寝付けない。

 昼の農作業で疲れているはずなのに、と不思議に思った彼女は静かに起き上がると、暗闇の中を手探りで進み、かめから手で水を掬って飲んだ。

 するとふいに風がやみ、鎧戸の隙間から薄く月明かりが差し込んで部屋の中が、僅かに浮かび上がる。

 どこかホッとした様子で彼女が水甕を覗き込むと、何故かそこには自分の顔ではない何かが映り込んだ。

 驚いた娘は慌てて藁の上に飛びのいた。しかしいつものチクチクとした藁の感覚がなく、何故かぬめりを感じて下に視線を向ける。

 そこでは赤い目をした黒い影が、自分を飲み込もうと大きな口を開いていたのであった。



 ■



 物語に没入するというのはわるいことではない。だが今回の場合は最悪だった。いや名前のない著者からしてみれば、これこそ狙いだったのかもしれないが。

 私は1人湯に浸かりながら、あんなものは所詮作り話に過ぎないと考えるのだが、振り払おうとすれば振り払おうとするほど、恐怖心というものは泥のように心に巻きついてくる。


「大体そんなものが居たなら、どこかで討伐依頼が出ていそうなもの。それに農家の娘以外が見ていないなら、あれを書いた人物は知りようがない。非現実的」


 顔に湯を浴びせながら、そうだそうだと自分の理論に納得する。

 だが、頭の納得と心の納得は別物であるらしく、天井から滴った冷たい水滴が背中に触れた瞬間、私は驚いてその場に立ち上がった。


「ひぅ……ッ!?」


 無論水滴なので周囲を見回したところで何もないのだが、そういうちょっとしたショックだけで自分の鼓動が急にうるさくなって、荒く息を吐く。

 しかし一度恐怖を覚えてしまうと、もう何もかもが恐ろしく感じてくる。

 物語で現れたかめの中に見えた化物が、この湯の中にもいるのではないか。反射するもののどこかに映り込むのではないか。あるいは天井に貼りついているのではないか。

 見える場所も見えない場所も全てに恐怖を感じてしまい、私は再び湯の中に身体を沈めてゆっくり目を閉じた。


 ――何もない。安心できるこの場所に、そんな化物など。


 頭ではそう思っているはずなのに、何故今日に限って誰も彼も先に入浴を終えているのか、などという怒りも湧いてくるのだから、我ながら理不尽なものである。

 目を瞑ったままそんなことを考えていたら、ふと眩暈を感じた気がして、私は額を押さえながらゆっくりと立ちあがった。

 早く上がろう。そして皆が居るリビングに戻れば、恐怖なんて感じなくなるに決まっているのだから。

 だが、立ち上がったと思った途端私の身体は大きく傾き、何かを叫ぶよりも早く湯に叩きつけられた。

 何が起こったのかわからない。何せこれまでの生活で、風呂に浸かった経験などほとんどないのだから。それなのに、これは溺れるのではないかという漠然とした不安と、熱いお湯に感じる眩暈の気持ち悪さだけが胸の中を渦巻いていく。

 ただ、湯の中の浮遊感は長く続くことはなく、突然身体を覆っていた熱が途絶えたかと思えば、同時に耳元でキョウイチの声が響いた。


「シューニャ!」


 ぼやける視線の中で、なぜ風呂に彼が居るのかが理解できず、しかし声を発することも億劫で何も考えられない。


「あぁくそ、完全にのぼせてるな……ちょっと待っててくれ」


 背中に固くひんやりした感覚が伝わってきた。どうやら風呂場の床に降ろされたらしい。身体の上に柔らかいタオルが乗せられ、そこで私はようやく声を出すことができた。


「キョウ、イチ……なんで?」


「皆が寝に行ってもまだ出てこないから、やけに長風呂だなと思ってね。声をかけに来てよかったよ……水は飲めるかい?」


「ん……」


 私が小さく頷くと、彼はキッチンへコップを取りに行ってくれた。

 開かれた扉から流れ込んでくる冷たい風が気持ちよく、少しずつ頭がハッキリしてくる。

 すると自分が風呂に入っていたため裸であることも思い出し、今度は羞恥心で頬が熱くなった。


 ――み、見られた。いや、これは私の不注意が招いたこと、だけど。


 それこそマオリィネやファティマのようなスタイルならば、恥ずかしくとも恰好がついたかもしれない。なんならアポロニアのように豊満な胸だったなら、羞恥に加えて劣等感を抱く必要などなかったようにも思う。

 そんなことを考えていれば、キョウイチが足早に戻ってきて、優しく上体が起こされた。私は危うくタオルが落ちそうになるのを覚束おぼつかない手で必死に押さえつつ、しかし彼の腕に身体を預けながら反対の手でコップを受け取った。


「……ありがと」


 喉を流れていく水は冷たく、火照った身体が冷えていくのが分かる。おかげでようやく狭まっていた視界も戻り、胸につっかえていた気持ち悪さも和らいだ。

 だからだろうか。ふと隣でしゃがみ込んで視線を逸らしている彼の服が、派手に濡れていることに気付いてしまったのだ。


「あ……キョウイチ、その」


「あぁその、すまなかった。咄嗟のこととはいえ風呂に乱入するなど。そのまましばらく横になっていてくれ、誰か女性を呼んで――」


「いい。大丈夫、だから」


 まだ力の入らない手で、私は彼の裾を小さく握った。

 羞恥心はあるけれど、助けてくれたのだからそれを責めるのは間違っている。それに具合が悪いからだろうか。優しくされたことが何故だかとても嬉しく、そして湯に浸かっていた時に感じた恐怖心から、キョウイチに離れて欲しくなかったのだ。


「しかし……」


「服、とってくれる?」


「あ、あぁ。手を離すよ?」


 体重を預けていた腕がなくなれば、私はまだ僅かな眩暈を覚える。しかし座っている分には問題なさそうだった。


「はい、着替え」


「ありがと……少しだけ、扉の方を向いていてほしい」


 そう言っておきながら、私は彼が振り向くのを確認しない内に身体を拭いて、普段より鈍い動きで寝衣用のワンピースを着こむ。立ち上がったり複雑な動きをすると気持ち悪くなりそうだったので、下着をつけるのは諦めた。

 髪も濡れたままであり、正直身体もきちんとはふけていない。だがなんとなく、キョウイチを待たせたくなかったのだ。


「できた」


「立てるかい?」


「……ん」


 彼の質問に対し、私はまるで幼子になったかのように両手を広げて抱き上げろと無言で告げる。

 こんなこと、普段の状態でやろうものなら羞恥心で逃げ出してしまうだろうが、こうも体がだるいと何をしてもかまうものか、と妙な思考が働いていた。

 それをキョウイチは苦笑しながらもわかったと言ってくれ、まるで壊れ物を扱うかのように優しく私を抱き上げてくれる。お互いに薄い寝衣だからか密着した肌の感触がハッキリと伝わるが、感じるのは恥ずかしさよりも安心感だった。

 だから私は親に甘えるように彼の肩に頭を乗せて、自ら首に腕を回して子どものように抱き着いて見せる。


「そんなに強く掴まらなくても落とさないよ」


「……こうしてたい、だけ」


「珍しいな。まぁ、シューニャがそう言うならいいんだが」


 各所の明かりを落としながら、キョウイチはゆっくりと私の部屋へ向かって歩く。

 如何に大きいといっても所詮は家の中。あっという間に行き来できる距離の中で、けれど私はその時間がなんだかとても幸せに思えて、部屋に入るのを拒みたくなってしまう。流石にそんな駄々は捏ねられなかったが。

 キョウイチの手でゆっくりとベッドに寝かされた私は、まだ濡れたままの頭を持ってきたタオルで軽く拭かれ、最後に上から毛布までかけてもらった。


「ゆっくり休むといい。気分が優れないなら、何でも言ってくれればいいから」


「なんでも?」


 立ち去ろうとする彼の背中に、私は小さく声を投げかける。

 ここまで甘えたのだ。澄ました自分のプライドなど、今は欠片も残っていない。

 だから不思議そうに振り返った彼を、私は手招きして呼び戻したのだ。


「ああ、別に僕にできる事ならなんでもいいが」


「あの……一緒に、寝て欲しい」


「ん゛ん゛ッ!?」


 毛布で口元を覆いながらそんなことを言えば、キョウイチはなんだかとんでもない声を出して軽く咳き込む。

 未婚の乙女として、また淑女としてはとんでもないお願いなのだろうが、もう私の中で自分は子どもなのだと固めており、それなら心細い時に大人に甘えるのもいいだろうなんて、都合のいい設定が完成させている。具合が良くないことも含めて、ここまで開き直ると何も怖くはなかった。


「……だめ?」


「い、いやそれは、ベッドも狭いし、だね」


「朝までじゃなくていい。せめて、私が眠るまで居て欲しい」


 縋るような言葉だったと思う。

 それにもキョウイチは僅かにうろたえて頬を掻いたが、やがて何かを諦めたように、それくらいなら、と言ってベッドに入ってきてくれた。

 私は自ら彼に身体を寄せ、丸くなるようにして額を当てる。


「具合が悪いにしても、今日は随分甘えん坊じゃないか」


「私だってたまには――甘えたいときくらいある」


 また小さくキョウイチの服を掴めば、彼は優しく私の背中を叩いてくれる。

 ただそれだけのことで、何故だかとても温かい気持ちが広がり、弛んだ口から恐怖心が転がり落ちた。


「……恐ろしい物語を読んだ」


「うん? 恐ろしい物語って――あぁ、本かい?」


 コクンと小さく頷く。

 そこから私は本の内容を、自分の感じた恐怖も含めてキョウイチに語った。そんないるかどうかさえ分からない化物を怖がるなど、子どもっぽいと笑われるかもしれない。

 しかし、彼は穏やかに何度も頷きながらそれを聞くと、笑い飛ばすようなこともせずに湿ったままの私の髪をくようにして優しく撫でてくれた。


「大丈夫だよ。僕はここに居るから、安心してお休み」


「あ……」


 この声だ、と思った。

 キョウイチはいつも自分が不安になった時、この声で支えてくれる。私はこれが好きなのだ。

 拙い恋心かも知れない、永遠に叶わないかも知れない。けれど、諦めたくないという気持ちだけはどんどん強くなる。

 だから私はそんな恋心を抑えつつ、けれどこんなときだから目一杯自分を曝け出して、キョウイチの蕩けるような優しさに甘えたのだ。

 そうしてみれば、風に揺れる鎧戸も、置かれたままのあの本も、遠くで聞こえた水音さえ、もう私には怖くなかった。

 自分がいつ眠りに落ちたのかは、よく覚えていない。



 ■



「おはよう」


「おはよーございます……くあぁ」


 私がリビングに入れば、意外にもファティマがソファで横になっていた。

 まだアポロニアが炊事に精を出しているような時間であり、彼女がこんな早くから起きているのは珍しい。


「今日はやけに早い。どうかした?」


「聞いてくださいシューニャ。ちょっとヘンテコな夢を見たんですよぉ」


 私が首を傾げてみれば、彼女はだるそうにうっそりと身体を起こし、ブンブンと不機嫌そうに尻尾を振り回しながら耳を後ろに逸らして、軽く頬を膨らませた。


「なんだかこう、変な黒い影みたいなのが出てきて、それに食べられそーになったんですよ。びっくりして飛び起きちゃって、もうそこから寝られなくて――シューニャ?」


「……なんでも、ない」


 嫌な汗が背中を伝う。

 ファティマはあの本を読んでいないはず。だのに何故その存在を夢に見られるのか。


 ――まさか、本当に居るの?


 今は明るい時間だから平気だが、夜になったらと考えると、自分の背中を昨日と同じ恐怖が這い上がってくる。

 今日は絶対に誰かと風呂に入ろう。そしてファティマのベッドにでも入れてもらおう。そうしなければ眠れる気がしない。


「おーう、おはようさん――って、なに固まってんだ?」


「ひっ!?」


 意識の世界に入り込んでいた私は、突如後ろに現れた骸骨に素っ頓狂な声を漏らす。

 無論それはいつも通りの色欲骸骨エロトマニアンデッドダマルであり、別に恐れるような存在ではない。だが昨日の化物がフラッシュバックしていた私は、ついついファティマの後ろに隠れてしまう。


「あん? なんだなんだ?」


「なんでも、なんでもない!」


 面白がるようにカタカタ骨を鳴らすダマルに、あっちいけと手を振って私は威嚇する。これには流石のファティマも不思議そうな顔をしていた。

 この時私は、自分について1つはっきり理解した。

 自分は訳の分からない怖いもの。いわば幽霊や化物の類が、心底苦手なのだ。

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