不思議な白い薄衣

 それはタマクシゲが王都から出発する日の事。


「うむむむ……」


 ボクはソレを夜鳴鳥亭のベッドに広げ、1人唸っていた。

 他の荷造りは大概済んでいるため、急ぐ必要はない。否、ないはずだったのだが、なんだかんだと考えている内に時間はどんどん過ぎており、気が付けば部屋に残されているのは自分だけだった。

 しかしどうにも踏ん切りがつかないため、それを持ち上げては戻し、持ち上げては戻し、ザックに詰めることも売りに行くこともできないでいた。


「ねーこー? そろそろ時間――って、まーだ悩んでたッスか」


「うっ……だ、だって、どーすればいいかわからないんですもん」


 部屋に現れたのは、下でハイスラーたちへの挨拶をしていたアポロニアである。つまり自分が悩んでいた時間は、犬が世間話に興じていた時間よりも長いことになり、これはやや屈辱的だった。

 しかも年上面をしたそいつが、呆れたとため息を付いてくるのだから、余計に腹が立つ。

 だが、目の前にその原因が広げられている以上は、何を言い返しても鼻で笑われるのがオチであるため、ボクは諦めてどうするべきかを乞う。


「持ってきゃいいじゃないッスか。なにをそんなことでウダウダと」


「そうは言いますけど……犬はなんでフツーに持っていけるんですか」


「勿体ないからに決まってるじゃないッスか!」


 何を馬鹿なことを、とでも言いたげに彼女は腕を組んで鼻を鳴らす。

 こういうところが貧乏性のド庶民であり、実際自分も同じ感覚を持ち合わせているから、簡単には手放せず悩んでいたのだった。


「でも、何処で使うんですか?」


「そんなの追々考えればいいんスよ。持ってさえいれば、その内利用方法も思いつくッス!」


「おー……おー?」


 いい加減面倒くさくなったのか、あるいは本当に出発の時間がギリギリなのか。世話焼き癖のあるアポロニアは、こちらがボンヤリしている内に、広げられたソレを素早く畳むと、ベッドの横に放置されていたザックにそのまま放り込んでしまう。

 こうされてしまえば流石に悩むのも馬鹿馬鹿しくなり、ボクは考えるのをやめてザックを背負った。そもそもこんなどうでもいい悩みで、閉門時間に遅刻するという方がよっぽど問題であろう。何せ相手はよくわからない白い服だぼだぼのワイシャツ程度なのだから。

 おかげでボクは暫く、その存在を鞄の中に放り込んで忘れていた。

 ただでさえおにーさんの古い記憶を掘りだしてしまった代物であり、その上どう着てもなんだか恥ずかしい恰好になることから普段着にもできず、正直使い道などどこにもありはしなかったのだが。



 ■



 その存在を再び思い出したのは、スノウライト・テクニカを間借りしていた頃である。

 賓客としてもてなされていたボクたちには特にすることもなく、強いて言えば絶対安静と言われながら頑なに脱走を試みるおにーさんを捕縛し、自室へ押し戻すくらいのことしかしていなかった。

 ボクは決して退屈が嫌いではない。なんならボーっとしていられる時間や、誰にも邪魔されずに眠っていられる時間は多ければ多いほど素敵だとさえ思う。

 とはいえ流石にずっと眠っていられるわけもなく、おにーさんの外出許可が出るようになれば追いかけっこも終わりを迎え、しかもダマルさんが出掛けてマオリィネが王都に行ってしまったことも重なったせいで、退屈は日増しに大きくなった。

 しかし、すぐに有効な暇つぶしなどを思いつけるはずもなく、ボクはその日も時間を持て余しながら、灯台の頂上で日向ぼっこをしていたのだが。


「ファティ、少しいい?」


 そこへ珍しくシューニャが訪ねてきた。

 彼女はこのところ本を読み漁っていたり、ナイジェルとかいうもじゃもじゃ頭と話していることがほとんどで、あまり構ってくれなかったのだ。

 しかしわざわざここまでやってきたということは、自分にしかできないことなのだろう。面白いことかも知れないという期待から、ボクは跳ねるように身体を起こした。


「お? なんですかなんですか?」


「手伝ってほしいことがある。ちょっときて」


「はぁい」


 シューニャに続いて軽やかに石段を下ってテクニカの中へ戻る。

 そのまま後を追いかけてみれば、彼女が向かった先は中心の広間だった。先日の戦いではヴィンディケイタ達の主戦場となった場所だが、既に片付けが済んでおり、研究者たちがよくわからない物を弄りまわしている。

 だがこの場所で自分にできることは荷運びくらいであり、それはあのラウルとかいうファアルが担当なので、結局呼び出された理由はよくわからない。

 そんな中をシューニャは特に説明もないまま先へ先へと進んでいき、脇に設けられた小部屋に入ってようやくこちらを振り返った。


「これ、覚えてる?」


 そう言って彼女が指し示したのは、先日おにーさんたちが動かしていたセンタッキなる不思議道具である。


「勝手に洗濯してくれる奴ですよね?」


「ん。キョウイチに色々教えてもらったのだけれど、言葉から想像がつかない機能が多すぎて困っている」


「試してみればいいじゃないですか。というか、ボクにはそれ以外にできることが思いつきません」


 ただでさえ人や動物の力も借りず、風車や水車があるわけでもないのに勝手に動くだけで、魔法という以外に想像がつかないのに、機能がどうのと言われてもボクにはチンプンカンプンだった。

 しかしその程度のことをシューニャが思いつかないはずはないため、では何故やらないのかと首を傾げれば、彼女はそこが大事だと目を輝かせる。


「ファティ、洗濯前の服とか、ない?」


「え? そんなの皆持ってるじゃないですか。別にボクに頼まなくても――」


「それが……今はどこにもない」


 この発言にボクは心底驚いた。

 着まわせる服に余裕がない庶民にとっては、洗濯など数日ごとにしかできないのが当たり前であるため、着ている服は絶対に汚れてくる。


「どうやったら洗濯物がなくなるんですか。いくらテクニカの人たちが、結構いい暮らしをしてるからって――」


「……アポロニアが頑張りすぎている」


「お、おー……なるほど」


 どうやら暇だったのは自分だけではないらしい。

 時間を持て余したアポロニアはテクニカからの賓客待遇にも関わらず、何もせずのんびりしているというのは性に合わなかったに違いない。実に犬らしい性格である。

 そんな彼女はテクニカの中で仕事を探し回り、行きついた先が汚れた洗濯物を手当たり次第に綺麗にしていくという、とんでもないものだった。

 元々テクニカの職員たちの恰好は、あまり清潔ではなかったように思う。ヴィンディケイタは力仕事や荒事、外回りを担当するために汚れやすく、研究員たちは寝食を忘れて没頭するために、衣服のことなど二の次だったためだ。

 しかしいざアポロニアが洗濯をはじめれば、その清潔感をフェアリーが絶賛し、皆がこぞって彼女を頼るようになってしまったのだとか。

 おかげで今はテクニカ職員たち全員が清潔感に溢れており、それがセンタッキの実験を阻むという予期せぬ事態を生んだらしい。


「ファティなら、まだ持っているかと思って」


「ありますよ。犬が勝手にボクの服まで持ち出してなかったら、ですけど」


 いつも着替えがなくなった頃に纏めて洗うようにしていたため、そこそこ溜まっていたような覚えがある。

 するとシューニャは無表情のままで、しかし瞳だけは驚くほど嬉しそうに輝かせてボクの手をとった。


「やっぱりファティは優秀。とってもいい子」


「あの、それ褒めてるんですよね?」


 洗濯物を溜めていたことを褒められるとは、なんとも不思議な感覚だ。それこそアポロニアなら、ものぐさが過ぎるとキャンキャン小言を喚きそうなものなのに。

 とはいえ実験に協力して洗濯物が片付くなら、これほどありがたい話もないため、ボクはいそいそと自室から小部屋に衣類を運び込んだ。

 それを運び入れる度にシューニャは次々とセンタッキの操作を変え、よくわからない内容をメモに記載していく。


「これは綺麗になった……こっちは泡のようなものが沢山出てきたけど、効果は分からない。この赤い光がつくと、中のゴミを濾しとる部分を掃除した方がいい……?」


「おー、ホントに綺麗になりますね。あ、これ最後の1着です」


 絞られたような状態で出てくる洗濯物を受け取って、それを灯台の裏へ干しに行きつつ、ボクは残された最後の洗濯物をシューニャに手渡す。

 すると何故か彼女はピタリと動きを止め、ゆっくりとこちらへ振り向いた。


「……これで、全部?」


「そうですよ。あとはボクが今着てるのしかありません」


「それは困った。まだ確認したいことが残っているのに」


 むぅとシューニャは唸る。

 その後ろから手に持ったメモを覗き込んでみると、自分の身に着けている衣類の数と同じ分だけ、確認項目が残されていた。

 しかし流石に着られる物がなくなってしまうのは困るため、こればかりは諦めてもらうしかない。

 そう口にしようとした時、ふとあの謎の服が脳裏をよぎった。よぎってしまった。


「ファティ、どうにかできない?」


「あぅ……そ、そーです、ね」


 懇願するようなシューニャの目に、ボクは僅かにたじろいだ。

 どうにもボクは彼女にお願いされると弱い。それくらいにシューニャのことを気に入っていると言い換えてもいいだろう。

 時間的に今は昼。それも空からは暖かい太陽の光が降り注ぎ、穏やかな秋風も吹いているため、夜までには服も乾くはず。

 それまでの間はあの謎の服を着て凌げばいいのだ。それこそ部屋でゴロゴロしておいて、夕方くらいに犬を呼びつけて洗濯物を纏めて持ってきてもらえば、誰かに見られる心配もない。


「ひとつだけ、方法があります」


 だからボクは、ついついそう口走ってしまったのである。



 ■



「いやぁ助かったッスよペンドリナさん。おかげでギリッギリ取り込めたッス」


「知らせが間に合ってよかったよ」


 アポロニアとペンドリナのそんな会話が聞こえたのは、ちょうど昼寝から目覚めた頃だった。どうやら外の天気が急変したらしく、それで慌てて洗濯物を取り込んだのだろう。

 いつもよりやけにスースーする感覚に、そう言えば謎の服を着ていたなと思い出し、ボクは僅かに扉を開けてアポロニアを呼び止める。


「犬ぅー、ボクの洗濯物くださーい」


 しかし振り返ったアポロニアは、心底不思議そうな表情を浮かべていた。


「はぁ? なにを寝ぼけたこと言ってるッスか?」


「寝ぼけてませんよ。干してあったでしょ、ボクの洗濯物」


 雨のせいで余程慌てて取り込んだのだろう。犬はそそっかしいですね、と呆れかえってしまう。

 しかしペンドリナと顔を見合わせた彼女は、大きくと首を傾げて狼に問うた。


「そんなの見たッスか?」


「いや、見ていないが……ファティマ、それはどこに干したんだ?」


「え? いつも通り灯台の裏だと思いますけど」


 2人に訝し気な視線を向けられて、ボクはシューニャが干してくれたであろう位置をきちんと伝える。

 そこにはロープがしっかり張られており、テクニカの物干場となっていたはず。

 だが、それを聞いた2人は揃って諦め顔を浮かべる。


「あぁ、それは……手遅れだな」


「え? どういうことですか?」


 状況が呑み込めないボクが彼女たちの顔をキョロキョロと見回せば、アポロニアは呆れ果てたような深い深いため息をついて、ガリガリと後ろ頭を掻いた。


「あそこ狭いッスよね? 今日は洗濯物が増えたから、でっかい地下入口前駐車場出入口前に纏めて干してたんスよ」


 サッと血の気が引いていくのがわかる。

 言われてみれば確かに、溜めていた方の洗濯物を途中で干しに行った時、そこには何もかかっていなかったような。

 しかし、他に物干しがあるなど知るはずもないボクは、特に何も考えず、全てそこに引っ掛けて帰ってきたのである。多分、身につけていた分を干してくれたシューニャも同じく。


「え、じゃあ……ボクの着替えって」


「すぐ取り込んでは来るが、今日は今着ている物で過ごしてくれ」


 ペンドリナは慰めるように優しくそんなことを言ってくれた。

 ただしそれは自分にとって、まだしばらくこの格好で居なければならないという宣告に過ぎなかったのだが。



 ■



 部屋の中に引き籠って過ごすこと。それはボクにとってそう難しいことではない。

 食事は事情を知ったアポロニアが運んできてくれたため問題なく、シューニャは普段より冷えるだろうからと、どこかから追加のシーツまで持ってきてくれた。まるで御貴族様にでもなったかのような気分である。マオリィネがこんな生活をしているかは知らないが。

 ただし、それで全てが解決するわけではない。


「ふぅ……ギリギリでしたね」


 そう、おトイレである。

 こればかりは誰かに代わってもらうことはできない。それこそたとえ王族であっても、同じ人種である限りは不可能だろう。

 とはいえ、流石にこの薄衣1枚で人前に出るわけにはいかないため、ボクは必死で皆が寝静まるまで我慢していたのだ。

 実際トイレに駆け込めたのはギリギリだったが、おかげで誰にも見られることなく行動することができていた。

 あとは来た時と同じようにコソコソと部屋へ戻り、再びベッドに潜って眠ってしまえばいいだけ。シューニャは朝から服をもう一度洗濯してくれると言っていたし、昼頃には服も乾くはず。


 ――よし、誰も居ませんね。


 ボクはそっとトイレの入り口から外の様子を伺い、誰も居ないのを確認して廊下へと身を翻す。

 いつも以上に音を立てないように気を付けて、それでも可能な限り足早に進む。

 下着すらつけてないからか、謎の白い服はとにかくスースーして肌寒い。ただ着心地は悪くなく、寝衣として使うならば普段着よりも優秀だったため、そこに一考の価値はあるようにも思う。タマクシゲの中では絶対に使えないが。

 そんなことを考えながら廊下の分岐に差し掛かると、その先から足音が聞こえてきた。何なら欠伸まで響いてくるので、向こうは隠れる気もないらしい。


「ふぁぁ……眠ぃなぁ……なーんで俺が警備なんて」


 不真面目な声は、あのツンツン頭ことイーライ・グリーンリーのものである。

 彼は決して弱いわけではなく、むしろただの人間としては強い部類に入るだろう。ただし、それが警備に向いているとはとても思えなかったが。


 ――むぅ、面倒くさいですね。


 自分に与えられた部屋は、ちょうどイーライが近づいてきている方向にあり、他の通路から回り込む道をボクは知らない。

 つまり隠れてやり過ごすか、記憶が残らないくらいにボコボコにするしか方法がないのだ。しかも今は仲間のようなものであり、ボコボコにするのが難しい状況である。

 仕方なくボクは、曲がり角の僅かに出っ張っている壁へ身を潜めた。

 背後からは丸見えの状態であるが、少なくとも真正面からは見えず、ちょうど暗がりになっているため気配を殺せば簡単には見つからないだろう。

 だが、この時ボクは油断していた。何せ廊下の範囲にだけ気を配っていたのだから。

 ガチャンと扉が開く音がしたのはその直後だ。突如現れた背後からの気配に尻尾の毛が逆立った。


「あれ、ファティ? こんなとこで何を――」


「お、おにーさ……ッ!!」


 欠伸を噛み殺しながら現れた黒髪の青年に、ボクはついつい声を出してしまった。

 全く不覚である。急いで帰る事だけを考えていたため、ここが彼に与えられた部屋の前だったことなど完全に頭から抜けていたのだ。

 しかし、これは不味い。おにーさんに見られたのはこの際仕方ないとして、声が聞こえた以上、いかにポンコツのツンツン頭であっても気づかないはずがないのだ。

 実際曲がり角の向こうから急激に足音が大きくなった。


「おい、誰か居んのか?」


 この姿をイーライに見られた場合、ボクにはボコボコにして記憶をぶっ飛ばす以外の方法がなくなる。それができなければ、喉笛を掻っ切らねばならない。

 とはいえ焦る頭で対策などすぐ浮かぶはずもなく、ボクは致し方なしと全身に力を込めて、現れた瞬間に顎を砕いて沈める覚悟を決めた。


「ファティ、こっちへ」


「えっ!?」


 だが、おにーさんは冷静だったのだろう。

 混乱するボクの腕を引っ張ると、そのまま自室の扉を開けて素早く中へと押し込んだ。

 一瞬何が起こったか分からず呆然としてしまったが、しかし自慢の耳はしっかりと廊下での会話を拾ってくれる。


「なんだアンタか。こんな時間にどうした?」


「トイレに行ってただけだよ。随分慌てていたようだが、何かあったのかい?」


「物音がしたからさ。それに、女の声も聞こえたような気がしたんだが」


「はて、聞き間違えじゃないか? 僕には聞こえなかったが……」


 とぼけるような声に、心の中が暖かくなった。

 おにーさんはとても優しく、自分を守ろうとしてくれている。今回は些細な出来事かもしれないが、それだけで十分嬉しかった。

 ただ、ツンツン頭は何か思い当たる節があったらしい。


「――あぁ悪い。どうも邪魔しちまったみてぇだな」


「ちょっと待て、何の話だいそりゃ」


「とぼけなくてもいいぜ。ったく羨ましいなぁ英雄様はよォ」


「い、いや勘違いしないでくれ! 僕ぁやましいことは何もしてない――」


 はいはい、と呆れたような笑いを響かせながら、イーライの足音が遠のいていく。きっとおにーさんの抗議は、彼の耳に届かなかったことだろう。

 近いうちに組手でも頼み込んでボコボコにしてやろうとボクが決意を固めていれば、疲れた表情を浮かべたおにーさんが部屋に戻ってきた。


「誤解されたなぁ……全く困ったもんだ。それで、ファティは何で隠れようと――」


 はた、と彼と目が合った。

 不思議な天井のランプに照らされる室内は明るく、目の前には自分を隠す障害物もない。だからおにーさんの瞳には、自分の姿がくっきり映っていたことだろう。


「ぶっ!? な、なんでそんな恰好してんだい君は!?」


「ニャッ!?」


 咄嗟に顔を背けた彼に呼応して、ボクは慌てておにーさんのベッドへと潜り込み、シーツで全身を覆って顔だけを出した。


「だ、だって、これ以外を全部洗濯しちゃったんですよ!」


「えぇ……? いやそれにしたって、なんでワイシャツだけなんて……あ」


 困り果てたように頭を掻いたおにーさんは、しかし何かを思い出したらしく、見慣れた苦笑いを顔に貼りつけた。


「それってもしかして、あの時の?」


「あっ! ち、違うんです! ボクは別におにーさんが嫌がるのを知ってて捨てなかったとか、そういうつもりはなくて――」


 最悪だと思った。

 彼が自分と犬のよくわからない服や、シューニャのお仕着せを見ていい気分になるはずがない。ただでさえあの日、おにーさんは自分の過去を思い出して酷く傷ついたのだから。

 ボクは以前、アポロニアに対して、自分の好きはおにーさん自身に嫌われようとも曲げるつもりはない、と断言している。それは今でも変わらないが、だからと言って進んで嫌われるようなことがしたいはずもない。

 やはりあの日、捨てておくべきだった。犬の意見に流されず、勿体ないなどという貧乏性を無視して、適当な古着屋に売ってしまえばこんな事にはならなかったのだ。

 しかし今更破り捨てることもできないため、ボクにはどうしていいかわからず、とにかく必死で見せないようにシーツで身体を包むことしかできなかった。


「ファティ」


「ご、ごめんなさい!」


 こんなにおにーさんの声を聞きたくないと思ったことはない。

 嫌われただろうか、失望されただろうか。とにかくその顔を見るのが怖くて、ボクは固く目を瞑って耳を後ろに伏せる。

 だが覚悟していた凍てついた声は聞こえてこず、それどころか優しい掌の感触が頭に触れた。


「おにー……さん?」


「そんなに怯えないでくれ。僕は別に嫌がってなんていないから」


 いつもと変わらない穏やかな声。

 ボクはあまりの安堵に泣きそうになったが、おかげで全身から力が抜けてシーツが肩からずり落ちていった。だというのに、今はそんなことも気にならない。


「でも、お宿で……」


「気を遣わせてしまったみたいだね。あの時は色々一気に思い出しちゃったのが原因だから、その服が悪いとかはないんだ――けど」


「けど? けどなんですか?」


 ボクはシーツを跳ね除けて、前のめりになった。

 彼が嫌うことならば、きちんと聞いておかなければならない。そう思って一言も聞き逃すまいと耳に意識を集中する。

 だが、おにーさんはしばらく困ったように目を泳がせると、頬を掻きながらへらっと口の端を緩めた。


「い、いや……その恰好はあんまりにもこう、過激というか、色っぽいなぁ、と、ね」


 一瞬何を言っているのか理解できなかった。

 おかげでボクの頭はひとりでに斜めになり、しかしゆっくりと理解が進むと徐々に顔が熱くなってくる。

 色っぽい。その言葉が意味するところは単純だ。


「う、あ……お、おにーさんはやっぱり変態さんです」


「ぐぅ――ッ!? す、すみません否定できないです、ハイ……」


 だぼだぼ服の裾を強く引き伸ばしながら、ボクが上目遣いに睨みつければ、おにーさんは矢が突き立ったかのようによろめいてガックリ首を垂れる。

 しかし表情とは裏腹に、内心では不思議と悪い気はしていなかった。


 ――色っぽい、でしょうか。ボクが?


 自分の体格については、女の人としては多分普通じゃないか、くらいにしか考えたことがない。挙句、異性の趣味となればもうサッパリだ。

 しかし、好きな人から真っ直ぐ色っぽいと言われて悪い気はしないし、何とすれば少しだけ悪戯心が湧いてきた。


「……ふふん。でもおにーさんになら、ちょっとくらい見られても、いいかもですね」


「いっ!? ば、馬鹿な事言うんじゃない!」


 ぺろりと舌を見せてみれば、彼の咽がごくりと動くのが見えた。

 おにーさんはこの格好が嫌いではない。むしろ、欲情できるくらい好きなのではないか。そんな想像が頭を駆け巡り、ボクは彼の腕を引き寄せる。


「なーに想像したんですかー?」


「っ……からかわないでくれ。心臓に悪――うぉっ!?」


 おにーさんはふいと顔を背ける。自分より随分年上な彼のそんな行動が、ボクの目にはなんだかとても可愛く映って、そのまま力づくでベッドへと引きずり込んだ。

 何かをしたかった訳じゃない。ただアマミ・キョウイチという人の反応が愛おしくて、自分が嫌われていなかったことが嬉しくて、そういう時はできるだけ全身で表現したかった。


「ねぇおにーさん、一緒に寝ましょ? ボク、服がこれしかなくて寒いんです」


「い、いやいや、これは流石に不味いだろう。色々、そう色々」


「今日だけですから、ね? いーでしょー?」


 ぐりぐりと彼の胸板に頭を擦りつけながら、ボクは全力でおねだりをする。

 暫くはおにーさんも身体を動かして抵抗したが、純粋な力では絶対に負けないし、押さえつける技術は彼自身から学んだものだ。

 優しいおにーさんは、やがて抵抗が無意味なものだと悟ったらしい。はぁとため息をついた。


「わかったわかった……降参するから、せめてトイレ行かせてくれないか。僕ぁそのために起きたんだが」


「んー? ちゃんと戻ってきてくれるなら、放してあげてもいいですけどー」


「ああ、約束するよ。朝が思いやられるが、背に腹は代えられない」


「んふふっ、聞きましたからね」


 ふいと拘束を解けば、彼はやれやれと言いながらベッドから立ち上がる。

 ただそのまま部屋を出て行くかと思えば、扉の前で肩越しに振り返った。


「……その気があるかは知らないが、君も年頃の女の子だろう。誘惑みたいなことは、本当に好きな人が相手の時だけにしておきなさい」


 彼はそう呟くと、返事も聞かずに扉の向こうへと消えていく。

 沈黙が降りる部屋の中。ボクはほんのりした彼の温かさと残り香を感じながら、シーツをぎゅっと抱きしめた。


「そんなの、おにーさんだからやってるに決まってるじゃないですか」


 なんとなく興奮で寝られないかと思ったが、彼が部屋に戻ってくる頃、ボクは不思議な安心感からか、しっかり夢の世界へと落ちていたのだった。



 ■



 うららかな光が差し込む朝。

 ボクは暖かい毛布にくるまってしっかり二度寝を決め込んでいた。

 別に急いで起きる必要もないのだ。わざわざ肌寒い朝に動き出さずとも、もう少し気温が上がってからゆっくりと目を覚ませばいい。それが幸せというものだ。

 だというのに、そうは思わない者も居たりする。


「ゴルァ! いつまで寝てやがるッスかぁ!」


 ドカンと凄まじい音を立てて扉が蹴り開けられる。

 そこに居るのは勤勉の鬼。ダラダラすることを良しとしない小型犬だ。

 目を開けずともわかる光景に、ボクは面倒くさいと思いながら毛布を頭まで被って苦情を述べる。


「うるさいですよー……なんで朝からそんなに元気なんですかぁ」


「なーにが朝ッスか、もうお日様は真上ッスよ! いい加減に起きるッス!」


「うー……ボクまだ眠いですー」


 せっかく念願のお家を手に入れたというのに、寝ている傍からキャンキャン言われては堪らない。

 しかし、アポロニアは苦情を聞きいれるつもりはないらしく、素早く毛布の端を掴むと、派手にそれを取り払う。奪われる温もりと変わりに流れ込んでくる冷たい空気に、ボクは身体をぐるりと丸めてむーと唸った。


「返してくださいよー……寒い」


 薄く目を開けてアポロニアを睨みつける。自分から寝具を奪うなど、身内とはいえ重罪なのだ。

 しかし、犬はぽっかりと口を開けて間抜け面を晒し、なんなら僅かに顔を赤らめて身体を震わせた。


「な、な、なんって恰好して寝てやがるッスかこのエロ猫ぉ!!」


「えぇ……? なんですか急に……」


 破廉恥だと叫ぶ犬に、ボクは一気に毒気を抜かれ、ついでにせっかくの眠気も霧散してしまった。

 着心地のいい謎の服。流石にあの日と違って一応ショーツは身に着けているが、寝衣として使うならやっぱり抜群で、ここが自分だけの部屋なら別に何の問題もない。

 それにこの服をおにーさんは嫌いではないのだから、使わない方が勿体ないだろう。


 ――色っぽい、ですしね。


 せっかくあの鈍感さんがそんなことを言ってくれたのだ。魅力を感じるというのなら、少し恥ずかしくても構わない。それどころか、またいつかこの格好でベッドに潜り込んで、慌てさせてみたいとも思っている。

 犬が如何に叫ぼうとも、戸惑っていたあの人は、そう思わせてくれるくらいに可愛かったのだから。

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