第11話 人間とは、九つの穴の糞袋である?

【この物語の登場人物】


天野太郎あまのたろう = 水道屋さん。節度ある偏屈者。


カトー伯爵 = 高慢ちきな伯爵。


女 = 舞踏会に招かれたどこぞの令嬢。



★ ★ ★ ★ ★



 冬ざれた異世界。パリジャポーネ宮殿内の多目的便所の中に、太郎はいた。


 大至急便器のフラッシュバルブの止水不良を修理して欲しいとの依頼があったのだ。宮殿からの依頼とあれば、先の予定を変更してでも駆けつけなければならない。難儀な話だ。『工事中につき、他のトイレをご使用下さい』の看板を設置して、早速作業に取り掛かる。


 この日は、宮殿で舞踏会が華やかに執り行われており、会場は大勢の貴族で溢れかえっていた。遠くの方から音楽隊の生演奏や貴族たちの賑やかな会話が、太郎のいる多目的便所の室内まできこえてくる。


 扉を開けたまま太郎が作業をしていると、一組の男女が多目的便所を覗いた。


「おい、水道屋。そこで何をしている」


 太郎はモンキースパナを回す手を止めて答える。


「はい。ご迷惑をお掛けしております。御覧の通り、宮殿からの依頼で便器の修理をしています」


「俺は、カトー伯爵。悪いことは言わん。今すぐ工事を中断して、この便所を俺様に使わせろ」


 日系の顔つきの大柄の男が、高慢ちきな態度でそう言った。隣でカトー伯爵の腕を抱いているどこぞの令嬢も、絵にかいたような上から目線だ。


「いや、でも……」


「早くしろ。こっちはウズウズしているのだ」


「いや、だけど……」


「とっととこの便所を使わせろ。分かっているな。俺がその気になれは、お前の会社に圧力をかけることなど簡単だぞ」


 致し方ない。太郎は一旦道具をまとめて、室外へ出た。


 カトー伯爵と女が室内に入り、ガチャリと鍵を掛ける。途端に中から女の喘ぎ声が聞こえてくる。舞踏会で意気投合し、欲情した男女が多目的便所で性行為をしているのだ。


「まったく、多目的便所を何だと思っている」


 太郎は、仕事柄これまで多目的便所を何十室もつくってきた。多目的便所を一室つくるのはとても大変だ。費用だって一般的な便所の何倍も掛かる。緊急ボタンの位置・高さ。人工肛門の方のオストメイト配慮器具の配置。車椅子の可動スペースの検討。可動手すりの下地の強度。外国人向けのメッセージの配置等々。様々な業者が入念な打ち合わせを重ねて作り上げる。彼らの技術の結晶と言っても過言ではない。


 握った拳の爪が、肉に深く食い込んで行く。太郎は多目的便所の大きな扉の前に立ち尽くし、中学生の頃、図書館で読んだお釈迦様の本のことを思い出していた。



★ ★ ★ ★ ★



 ゴータマ・ブッダにまつわる「マーガンディヤ」という経典の中にある話。


 とあるバラモンが、偉大なるブッダの側近になろうと、こんな計らいをした。

 

「ブッダ様、私の娘はとても美人でスタイル抜群、頭も良くて気立てもよい。是非とも私の娘と結婚をしてください。ちなみに私は大金持ち。今後は親族として楽しく暮らしましょうよ」


 そのバラモンは、実際に自分の娘をブッダの前に連れて来て見せた。バラモンの言う通り、娘は非の打ちどころのない美人であった。


 ところが、次の瞬間、その美人にブッダが放った言葉に、周囲はドン引きをした。


「この糞尿に満ちた女が何だというのだ! 私はこの汚らしい物体に足でさえも触れたくないわ!」


 つまり、どんな美人であっても、それは表面的なことで、その皮の下にはウンコやオシッコが詰まっている。美人が何だ。所詮はただの糞袋ではないか。とブッダは言い放ったのだ。


 確かに一理がるが、あまりに厳し過ぎる言葉。



 また、禅の世界には「人間とは、九つの穴の糞袋である」という禅語がある。


 人間の体の九つの穴からは毎日汚い糞が出る。目から目糞。耳から耳糞。鼻から鼻糞。口からは唾や痰、ゲロ。尿道から小便。そして肛門から大便。煩悩に振り回されるなかれ。人間は所詮は九つの穴の糞袋に過ぎないのだから。


 いや、確かにそうかもしれんけど。そんなこと言う? それを言っちゃあ、おしまいじゃね?


 思春期の真っただ中にこれらの教えに出会った太郎は、強い絶望感に打ちのめされた。


 あれから月日は流れ、気が付くと太郎は、水道設備業という、人間の排泄にかかわる仕事に就いていた。太郎は時々思うのである。自分が水道屋として日々こうして糞尿にまみれて働いているのは、あのブッダの教えが間違いであることを確かめたいからではないかと。ブッダさんよ、あんた、開き直りも甚だしいよ。人間がただの糞袋であってたまるか。人間とは、何と言うか、もっとこう、えーと上手く言えないけれど、とにかくアレだ、捨てたものじゃないんだ。



★ ★ ★ ★ ★



 行為を終えたカトー伯爵と女が、多目的便所を後にする。太郎が室内に戻ると、床のタイル上にカトー伯爵の性器から飛び散った体液がベットリと残っている。


 歯を食いしばりテッシュでカトー伯爵の体液を拭き取りながら太郎は思った。綺麗で便利な公衆便所が、当たり前に存在すると思ったら大間違いだ。制作・維持管理に関わる人が沢山いるのだ。水道屋も掃除のおばちゃんも、男女が性行為する空間を提供する為に、毎日がんばっている訳ではないのだ。


 昔から、便所を見ればその会社や家庭や個人の本質が見抜けると言う。人は、隠れた排泄行為の場では性根を露わにするものだ。広義の意味で人の性根は便所に現れる。間違いない。


「この糞袋どもが!」


 口から自然と本音が漏れ、思わす口をつぐむ。


「みなさーん、トイレは正しく綺麗に使いましょう」


 たった今の暴言を打ち消すように、太郎は慌てて事務的な独り言を呟くのだった。


 

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