第8話 町人貴族のお嫁さんとお姑さん(前編)
【この物語の登場人物】
ジュシル = 町人貴族。ミュルダン一族の嫁。
マーガレット = 町人貴族。ミュルダン一族の姑。
★ ★ ★ ★ ★
町人貴族とは、貴族になりたい愚かな金持ちの町人のこと。帝都パリジャポーネのスラングのひとつである。貴族のように気位だけ高い、感じの悪い町人のことを、皆はそう呼ぶ。
近年、石工職人の派遣事業で大成功したミュルダン一族も、その例外ではない。ご近所さんから密かに「町人貴族」揶揄されている。
「うわ~、腹立たしいほどの大豪邸。ただの成り上がり者の町人が、まったくいいご身分ですな」
ミュルダン邸の巨大な門の目に立った天野太郎は、ごく自然に嫌味なひとり言を漏らしている自分に気が付き「おっといけない。妬み嫉みは厳禁です。お客様は神様です」そう慌てて口を噤んだ。
ミュルダン一族は、親世帯と子世帯が二世帯住宅で共に生活をしている。
太郎は、門の鉄格子を開き、広い敷地を歩いて、約束の訪問時間ぴったりに、宮殿さながらの二世帯住宅の前についた。二世帯住宅の壁面は、幾千の石材が丁寧に積み上げられて出来ている。
敷地内の広大な庭園には、噴水、薔薇園、乗馬場、茶室、サウナ、カラオケボックスなどが点在をしている。
太郎は、親世帯に住む姑のマーガレットの依頼でここへ来た。
「最近、親世帯の排水の流れが悪かった。今朝は、いよいよトイレが溢れて流れない。急いで見て欲しい」との依頼であった。
★ ★ ★ ★ ★
「こんにちわー。ハレルヤ水道工事店の天野でーす」
親世帯の扉の前で呼び鈴を鳴らして叫ぶ。あれ、返事がない。
「マーガレットさーん。水道屋でーす。排水管の点検に来ましたー」
親世帯から人の気配がしない。
「おかしいな。ひょっとしてマーガレットさんは、子世帯に住んでいる嫁のジュシルさんと一緒に紅茶でも飲んでいるのかな」
太郎はそう思って、親世帯の扉のすぐ隣にある子世帯の扉の呼び鈴を鳴らした。
ミュルダン邸は、一階が親世帯の住居、二階が子世帯の住居、いわゆる一般的な二世帯住宅の家屋構造である。建物への入り口、水道メーター、電気メーター、ガスメーター、はそれぞれ個別になっている。
太郎が子世帯の呼び鈴を鳴らすと、しばらくして、極めて不機嫌そうに嫁のジュシルが玄関先に顔を出した。
「どちら様ですか? セールスならお断りです」
「こんにちは。私は、ハレルヤ水道工事店の天野と申します。本日は親世帯のマーガレットさんに呼ばれて排水管の点検に参りました。ところがマーガレットさんがご不在なのです。ひょっとして、こちらにお見えではないかと思って――」
「いません。うちに上げるわけがないでしょう、あんな婆さん」
太郎の話を途中で遮るように、嫁のジュシルが言った。
「では、マーガレットさんが、どちらにお出かけかご存知ですか? 連絡を取っていただけませんか?」
「あの婆さんの行方なんて、私の知ったことじゃないわよ。なぜ私が連絡を取る必要があるのよ」
「いや、でも、こうして同じ家屋に一緒にお住まいではないですか」
「だから何? うちは、一階の住人とは一切関係ありませんから」
開いた口がふさがらないとは、まさにこのこと。あんぐりと開いたままちょっとやそっとでは戻りそうにない口の塞ぎかたを、太郎はあれこれと試案をした。
その時だ。広い敷地の果てから姑のマーガレットさんが歩いてくるのが見えた。
「あら、水道屋さん。ごめんごめん。待った?」
「こんにちは、マーガレットさん。いいえ。僕は、ちょうど今来たところです」
ゼイゼイと息を上げ、ハンカチで汗を拭き、姑のマーガレットさんは会話を続けた。
「教会にトイレを借りに行っていたのよ。ほら、電話で説明した通り、今朝から親世帯のトイレが使えないから」
「でしたら、子世帯のトイレを借りればよろしいかと――」
「絶対に嫌よ。あんないけ好かない女に頭を下げるだなんて、考えただけで虫唾が走る」
太郎の話を途中で遮るように、姑のマーガレットが言った。
「あ~ら、全部聞こえてますわよ、お義母さま」
子世帯の入り口で、嫁のジュシルが、般若のような形相で腕を組んで仁王立ちをしている。
「あ~ら、これはこれはお嫁さん。私は聞こえるように言ったのですよ。無事お耳に届いたのならよかったわ」
姑のマーガレットが、嫁の感情をわざと逆撫でするようなことを言ってあざ笑う。
「親世帯の排水管が流れないのですってね。おほほ。住人の性根が腐っているので、排水管も腐ってしまったのではないかしら」
「これはこれはご丁寧に。どうぞ地獄に堕ちあそばせ」
見ちゃいられない。「お二人とも、おやめ下さい」太郎は、嫁と姑の醜い小競り合いの仲裁に入った。
「お二人の間にいったい何があったかは知りませんが、お嫁さんも、お姑さんも、同じ屋根の下に住む身内ではないですか。仲良くしましょうよ」
「ふん。たまたま家屋が一緒なだけよ」
嫁のジュシルが言った。
「そうよ。住居は別。玄関も別。水道代も、電気代も、ガス代も別々。私たちは他人よ」
姑のマーガレットが言った。
「でもね、たとえ総個別の二世帯住宅とはいえ、排水管だけは一緒なのですよ」
太郎は、頭をポリポリと掻きつつ、溜息交じりにそう言った。
「え、そうなの?」
「どういうこと?」
嫁のジュシルと、姑のマーガレットは、思わず言葉を失った。
★ ★ ★ ★ ★
後編に続く。
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