第3話 元武闘家の家のトイレが時々詰まる(前編)
【この物語の登場人物】
チェンリー = 元武闘家。老人なのに筋肉ムキムキ。
チェンリー夫人 = 同じく元武闘家。いつも笑顔のお婆さん。
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太郎が、チェンリー夫妻の自宅に訪問をするのは、これで二度目だ。
パリジャポーネ宮殿郊外の閑静な住宅街にチェンリー夫妻の自宅はある。
チェンリーさんとそのご夫人は、揃って元武闘家だ。かつては、この辺りでそこそこ名を馳せた武闘家夫婦だったらしい。今は七十歳を過ぎ、夫婦仲睦まじく悠々自適な年金生活を送っている。
一度目は「キッチンの蛇口から水がポタポタと滴って、完全に止まらないので何とかして欲しい」という依頼で訪問をした。
その日は、キッチンの水栓を分解して、ケレップという駒のような形をしたパッキンを取り替えることで、蛇口の止水不良は改善し、作業を終了した。
帰り際に玄関先で工事金の支払い方法などを説明していると、チェンリーさんが、何やら、じろじろと、まじまじと、念入りに太郎の顔を見続けるので、
「……あの、僕の顔に何かついていますかね?」
となにげに太郎は尋ねた。
「……いや、別に」
とチェンリーさんは、太郎から視線を逸らし、ややたじろいた。
自分にそのつもりがなくても、言われた側からすれば険のある言葉だったかもしれない。太郎は速やかに反省をして、
「チェンリーさんは、ご老人とは思えない体つきをしていますね。ほら、全身筋肉ムキムキだ」
場の空気を変えるべく、さっそく別の話題を提示した。
「いや~、筋肉はこれでもかなり落ちたほうです。現役当時はこの二の腕だってもっと太かった。懐かしいなあ。その昔、海を渡って巨大な怪物と戦ったことを昨日のように思い出します。
その怪物はね、 大蛇のような体の背に、びっちりとの鱗(うろこ)があってね、胴からは四本の足が生えていた。頭には二本の角、二つの耳、口からウネウネと長い髭が生えていた」
「恐ろしい怪物ですね。それで、戦いには勝ったのですか?」
「勿論です。この妻と、もう一人の武闘家と、三人で力を合わせて退治をしましたよ」
ご夫人は、傍らで太郎とチェンリーさんの雑談を聞きながら、終始無言で、ただずっと笑顔を絶やさずに頷いていた。そんなこんなで、太郎はチェンリー邸での作業を終えたのだった。
★ ★ ★ ★ ★
「チェンリーさん、こんにちは、ハレルヤ水道工事店の天野です」
「おお、天野さん、ご無沙汰しています。逢いたかった」
「そんなに久しぶりでもないですよ。先週訪問をしたばかりです」
太郎は、チェンリー邸に、二度目の訪問をした。今回の依頼内容は「トイレの流れが悪いようなので一度見て欲しい」とのことだった。
事前情報を得る為に、チェンリーさんから具体的な状況を説明してもらう。
「便器に水だけを流した時は、比較的流れるのですけどね。ただし、汚物やトイレットペーパーと一緒に水を流すと、便器から水が溢れてしまうのです」
太郎は、実際にそれを検証し、目視で確認をした。
「なるほど、これは異物詰まりですね」
「異物詰まり?」
「最近この便器の中に何かを落としませんでしたか? 例えばペンとか、キーホルダーとか」
「う~ん、思い当たらないなあ……」
異物詰まりだと判断した理由を説明しながら、太郎は、便器本体を床から取り外す作業に取り掛かる。
「水は異物をすり抜けて流れますが、汚物や紙は異物に引っ掛かって配管を塞いでしまう。だから便器から水が溢れる。……ほらね」
太郎が便器を床から取り外すと、配管と便器を繋いでいたフランジという部品のところに異物を発見した。
「天野さん、何ですかそれは?」
「大根のヘタですね」
「大根のヘタ! あちゃ~、妻のやつ。……あの~、天野さん、大きな声では言えませんが、実は私の妻は、認知症なのです。恐らく料理をした後に便器をゴミ箱と勘違いをして捨ててしまったのでしょう。これは、妻の仕業です。すみません。以後私が目を光らせて監視をしますので」
チェンリーさんが、太郎にコソコソと耳打ちをする。ご夫人は、少し離れたところで椅子に座り、何も言わず、ただ笑顔で二人のやり取りを見ていた。
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翌週、またチェンリーさんから、自宅のトイレの修繕の依頼があった。
「先週とまったく同じ状況が起きています。水だけなら流れる。汚物やトイレットペーパーを流すと、便器から水が溢れてしまう」
「でしたら、また異物詰まりでしょう」
「いや、でも、私はあれからずっと注意をして妻の行動を監視しました。妻がキッチンで料理をした後も、食材のゴミはちゃんと三角コーナーに捨てているところを毎日確認しています」
熱心に釈明をするチェンリーさんを横目に、太郎は、便器を取り外し終えた。
また、大根のヘタだった。
「あれれ、おかしいなあ。ちゃんと監視をしたのに」
「ははは。今後は、ご夫人が大根料理をする時は、くれぐれも注意をして下さいね」
ご夫人は、いつものように、少し離れたところで椅子に座り、何も言わず、ただ笑顔で二人のやり取りを見ていた。
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さらに翌週、性懲りもなくチェンリーさんから、自宅のトイレの修繕の依頼があった。状況は、これまでと同じだと言う。
「……大根のヘタですね。また、大根のヘタなのですね」
「いやいやいや、それはあり得ません。だって、あれから我が家は大根料理を全面的に禁止していますもの。物理的に大根のヘタはあり得ない。だって、我が家に大根は置いていないのだから」
太郎は、便器を取り外し終えた。
人参のヘタ、二個だった。
「……なるほど、妻のやつ、そう来たか」
「……あの、今後は根菜系の野菜全般に注意をしてください」
二人は、ゆっくりと静かにご夫人のほうをチラ見した。
ご夫人は、相変わらず、ただ笑顔だった。
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あろうことか、更に翌週、チェンリーさんから、自宅のトイレの修繕の依頼があった。
いい加減にやりきれない気持ちになった太郎は、認知症だということは重々承知で、それでも今回ばかりはご夫人を注意してやろう、なんてことを決意して、勇み足でチェンリーさんの自宅に向かった。
「チェンリーさん、こんにちは、ハレルヤ水道工事店の天野です」
でも、そこに、チェンリーさんの姿は無かった。
その代わりに、いつもなら椅子に座ってこちらを見ているだけのご夫人が、玄関先で太郎を出迎えてくれた。
「いらっしゃい、天野さん」
ご夫人は、いつもの笑顔。
太郎は、その時ご夫人が大切そうに両手に持っていた写真を見て、思わず言葉を失った。
ご夫人が持ってた黒枠に縁取られた写真の中には、ご夫人に負けんばかりに素敵な笑顔の、チェンリーさんがいた。
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後編へ続く。
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