5
雨あしは次第に弱まる。
雲の間隙から幾筋もの光が降り注いでいた。城塞都市の前に広がる平原の、ありとあらゆるところに水たまりができていた。その水面は数多の騎馬の振動に揺れ、波紋を広げている。
ミアは黒馬を駆るローラントの腰にしっかりと掴まって、聖歌の一節からうたいだした。
詠唱の間、ローラントは何ものも寄せ付けない。ただ、ミアのうたが終わるまで守り続けた。
ミアは敵に囲まれていても、怖くなかった。
心はかつてないほど研ぎ澄まされていた。
なにしろ、心配することは何もない。
氷槍を取り戻したローラントは、まさに軍神のようだった。
銃で遠距離攻撃を仕掛けてくる相手には氷槍を飛ばし、上空から急下降してくる四翼を氷槍で貫き弱らせ、地上では群がる敵をなぎ払う。
その武器が壊れてもすぐに生成され、次の攻撃が始まる。
ローラントが前で攻防を繰り広げている間、ミアは安心して詠唱を続けた。
レイ・クォーツがミアの聖歌を打ち消すから、ローラントが眠ることはない。
反して、二人を取り囲む敵は、ことごとく眠った。
ミアを狙うものは聖歌の前では子守唄を聞いた赤子同然である。鉤爪を立てて襲い掛かってくる四翼ですら聖歌の範囲に入った途端に眠る。そこをローラントが討ち取った。
戦術が気持ちいいほどはまって、得も言われぬ高揚感があった。
守護者が一人いるだけで、これほど簡単にことが進むのかと感動のあまり心が震える。
それが他でもないローラント・アレニウスであり、ミアは何だかこそばゆくなった。
――今まで散々苦労してきたのが、馬鹿みたいだ。
安全地帯を探さなくていい。ローラントがミアを守ってくれる。その絶対的な信頼と、安心感がミアを支えた。
「まさか、こんな近くでお前の歌をもう一度感じることになるとは、なっ!」
地表に転がる魔物を氷槍で貫き、ローラントは言った。
「感動して涙が出そうだ。その澄んだ歌声が聞こえないのは、この水晶のおかげか?」
「はい」
詠唱を終えたところでミアは答えた。
水晶は、ミアの聖歌と対を成す逆位相の音を出し続けている。聖歌はローラントに響かない。
「お望みならいくらでも聞かせて差し上げますよ。今だけは」
「そう言わず、これからも聞かせてくれ」
「……それは、考えておきます」
消え入るような声で答えれば、ローラントが肩をゆすって笑った。
様子を伺うように上空を飛んでいた残りの四翼は、二人を狙うことを早々に諦めた。氷槍で阻害されるどころか、近づけば行動不能になると学習したようで、恐ろしい咆哮をあげて去っていく。
「これで最弱なんて嘘だろう、ナイチンゲール? お前はじゅうぶんすごい」
「ローラントさまがいてこそだと思いますが。わたし一人では、このようにはいきません」
四翼が飛び去るのを見送ってミアはつぶやいた。
「どうかな。もっと誇っていいと思うが」
「……褒めても何も出ませんよ」
「それは残念だ」
ローラントは苦笑した。
「もっと早くに、ナイチンゲールだと教えてくれれば鍛えてやるなどと馬鹿なことを言わなかったのだがな」
聖歌さえ発動すれば相手を行動不能にできる歌い手を鍛えてどうするのか、とローラントはつぶやいた。
「聖歌を安全に歌える保障がなかったのですから、鍛えていただき感謝していますよ。以前よりは、危険を回避する能力が上がった気がしますし」
「……頼むから、危ないことはするな。心臓に悪い」
聖歌と氷槍の強烈な
二人の前に男が立ちはだかった。ミアを捕まえたあの外道である。
雨は完全に止み、風がうなる。男の擦り切れた外套がはためいた。
「勝手なことをされては困る。ナイチンゲール。神官殿はもう待てない。このままだと、本当に手足を折って連れていくしかなくなるが」
ローラントは手綱を引いて立ち止まり、男を睨み据えた。
「まだ残党がいたか。随分とふざけたことをぬかしているな」
「――どうして、寝ないの」
ミアは震える声で男にたずねた。
この男一人が聖歌の範囲外にいたとも考えにくい。詠唱は一度も中断されなかった。
男は動揺するミアをあざ笑うように喉を鳴らした。
「君を捕まえるための対策を取っていれば、何も不思議なことはない」
「……対策って、まさか――」
ミアは青ざめた。
――レイ・クォーツ。
持っているだけで聖歌と逆位相の音を出す貴重な水晶。
それ以外に聖歌を無効にできる手立てはない。
「そんな。だってあれは――!」
男は肩を竦めた。
「そう。闇市に稀に出て、聖歌機関が全て回収している。常時、歌い手を脅かされてはたまらないからな。そして、こういう時に使われるというわけだ。逃げた歌い手を捕える時、人知れず抹消したい時……確実に任務を遂行するために必要だからな」
何をしてでも歌い手を連れ戻すという意思を感じて、ミアは震えあがった。
「あらゆる事象を考えていたが、さすがに氷槍のアレニウスが登場するのは想定外だったよ。ナイチンゲールを連れ歩いていたのがまさかの辺境騎士団長その人とはね。せっかくの同盟関係にひびが入っては困るだろう。黙ってその女を置いていけ」
「いや……。お願い、やめて」
冷たいものが這い上がってくるようだ。ミアは震える手でぎゅっとローラントの服を掴み、首を横に振った。
「ピアニッサには、タクトの町には――戻りたくありません……。何でもするから、お願い。助けて……っ」
「ミア」
ローラントの呼び声は甘くやさしい。ミアを安心させるように彼はうなずいた。
「同盟関係だからこそ、
「さて、その辺りの事情はあずかり知らぬこと。依頼は何が何でも連れ戻せ、なのでね」
「……断る。何人にもミアを渡すつもりはない。諦めてこのまま去れ」
「やれやれ。困った騎士団長殿だ。できれば穏便に済ませたかったのだが、戦いは避けられないようだ」
男は腰から剣を引き抜いて、その切っ先をローラントへと向ける。ローラントは低くうなり、怒りを込めて返した。
「……穏便? 笑わせてくれる。ミアを散々苦しめたその罪。この刃でもってあがなえ」
「人聞きの悪いことを言わないでもらいたい。すべては、依頼主の意向だ」
「では、その依頼主もろとも地獄に堕ちろ」
「さあ。地獄に堕ちるのはどちらかな? 歌い手をかどわかした騎士団長殿」
ミアを背に激しい攻防がはじまり、
男の剣術の腕前は、その辺の兵卒の比ではなかった。
ローラントが槍を回して重たい一撃を繰り出す。男は力に逆らわずそれを剣で受け流し、逆に懐に飛び込んでくる。
「ご自慢の氷槍もこれじゃあ使えないでしょう?」
男はにやりと笑った。
氷槍で突けない位置まで間合いを詰め、その刃で切り伏せる。
「――口の減らない男だ」
だが、そこはローラント。閃いたその一撃を回避せずに受け止めて、馬鹿力ではじき返す。反動を受けて男は馬上でよろめいた。すかさず新たな氷槍を生成して刃を振り下ろすと、小生意気にもすんでのところでかわしてがむしゃらに反撃してくる。繰り出された切っ先を払うと、男の剣の刃が折れた。
「諦めて退け」
「誰が!」
叫んで、男は腰からダガーを引き抜いた。
それはミアがローラントから贈られたもの。捕らえられた時に奪われていたのだ。
男はローラントめがけてダガーを投げた。刃は弾丸のように鋭く飛んでくるが、ローラントは巧みに手綱を操ってよけ、それどころか空中のダガーを片手で掴み、くるりと回転させて腰に差す。
「おみそれした……人間離れしているという噂は本当のようだ」
「知らぬな」
今度はローラントが男にむかって無数の氷槍を投げた。まるで槍の雨だ。全てをよけきれるわけもなく、凍った刃が男の武装を貫き、無惨に砕く。
男は体勢を崩してそのまま落馬。からだは強く叩きつけられ、泥にまみれた。
「……ローラント・アレニウス……その尋常ならざる力。人間じゃあない……」
武装を砕かれた影響か、はたまた胸を強く打ったのか。男は血を吐いた。
「黙れ。ミアの手前、これでも手加減してやったのだ。貧弱すぎる己を悔いて、出直してこい」
「くははっ、これで手加減……なんとも恐ろしい男だ。ミア・セレナード……たいした守護者を手に入れたものだな」
先ほどはこの先もミアの守護者でいると言ったが、本心かどうかは分からない。ピアニッサに戻るのを嫌がるミアを哀れに思っての言葉かもしれなかった。
追っ手はどうにか退けた。
だが、この先どうなるのだろう。
――ローラントは、以前からナイチンゲールに責任を取らせようとしていた。
(責任をとる……どうやって?)
不安が波のように押し寄せてくる。
胃が締め付けられるようで、気持ち悪い。ミアは口元を片手で抑えた。
「せいぜい、その氷の刃が君に向かないように祈ることだな……」
男は呪いのような言葉を吐いて目を閉じた。
胸はわずかに上下している。死んだわけではなさそうだったが、このまま放置されればどうなるか分からない。
震えが止まらないミアを、ローラントは無言で振り返った。
どんな目をしているのか確かめるのが恐ろしくて、ミアはただ俯いていた。
◇
その日、検問所は朝から慌ただしかった。
市場でこどもがさらわれたという報告があがり、その次に亜麻色の髪の少年少女を見かけたら引き留めるようにと達しが来る。とにかく、出入りする者を徹底的に調べて、異常があれば即捕縛することになった。
亜麻色の髪の少年少女は通らなかったが、古びた荷馬車で大量の商品を運んでいく隊商はあった。中を調べたものの丸められた絨毯や木箱がいくつかあり、広げて見せるように言えば嫌な顔をされた。「試しに無差別で一枚見せてくれ、これも仕事だから」と言えば渋々見せてくれたものの、そわそわとして落ち着きはなかった。
不審に思いつつも決定的に何かがあるわけではなかったから通したが、その後ローラントが現れて事情を離せば、鬼気迫る形相で馬車を猛追した。
嵐のように去っていった団長だが、四半日もしたら戻ってきたのだ。悠々と馬を駆り、後ろには中性的な従者を乗せている。
名をミアムと言ったか。
女の子のように華奢で、きれいな顔立ちをしている。ローラントの従者でさえなければ親しくしたいと考える男女は数多くいた。
なるほど、どうしても追いかけたかったわけだと騎士たちは納得する。
ローラントがミア厶を慈しんでいるのは、騎士団員ならば皆知っていた。
二人は全身血まみれだった。
ただし、怪我をしているわけではない。騎士も兵も、検問所で調べを受けていた者たちも、そのひどい有様をみて引いている。
ローラントは馬上でため息をついた。
「……案ずるな、全て返り血だ」
騎士や兵士は絶句した。
「団長、一体何が……」
ひとりの騎士が勇気をだしてたずねた。皆、固唾を飲んで返答を待っている。ローラントは騎士たちを一瞥し、重たげに額をおさえて返す。
「ああ、シプ平原でちょっとした乱闘になった。悪いが、事後処理をたのむ。息のあるものは捕縛して牢に入れておくように」
その場は途端にざわめいた。
「ちょ、ちょっとした乱闘?」
血まみれになるような乱闘とは一体、と震えあがったが、天下のローラントにしてみればどんな戦いもちょっとした乱闘に違いない。平原は一体どれほどの血に染まったのだろうか。
「四翼の死骸もある。片づけてくれ」
「り、了解しました」
ローラントは休暇中ではなかったのか、そんな疑問が騎士たちの脳裏に浮かんでいたが、誰も口には出せずにいる。四翼出現の予兆は検問所でも観測していて、出撃するべきか副団長と協議しているうちに、いつの間にかその影が消えていた。
ローラントが退治をしたというのならありがたいことだった。休暇にもかかわらず対応したとは、騎士団長の鏡である。
それよりも、ローラントの後ろにくっついているミアムに視線が集まった。
亜麻色の髪とシャツは濡れて、ぴたりと肌に張り付いている。澄んだ翠色の瞳は寄る辺なく揺れ、ためらいがちにローラントの腰に手を添えている。
要するにとても怯えていたし、不安そうだった。
それなのにローラントときたら、喜色満面で手綱を握っているのだ。
その温度差といったらなく、騎士たちはおののいた。
もしや、無理矢理連れ帰ったのではないか?
そんな疑念を誰しもが抱く。
「ちなみに、団長はこれからどちらに?」
「とりあえず、城に戻る。何かあれば副官のどちらかに知らせるように」
従者との時間を邪魔したら許さない、そんな空気が漂っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます