4


 大きな揺れを感じてミアは目を開けた。


(ここは、どこ……)


 からだは揺れ動く床の上に横たえられている。湿った木の匂いが鼻腔をつんとさしてくる。

 頭がぼんやりとして、節々がじんとしていた。視界がかすみ、かろうじて空間のほの暗さを感じる。瞬きを繰り返すうちに視界がはっきりしてきて、そこここに木箱や積荷が紐で括りつけられていた。

 風を切る音と、馬のいななきが聞こえる。


(荷馬車……?)


 捕まって放り込まれたのだろうか。

 完全に油断していた。最後の最後までつめが甘くて泣けてくる。

 起きようとしたが四肢を縄で縛られ、口には猿轡さるぐつわを噛ませられていた。身動きが取れないどころか、足がただの棒になったようで、まったく動かすこともできない。

 ぞっとして、足元を見る。

 いたるところに、細く長い針が刺さっていた。見ているだけで痛々しいが、その感覚がないのだ。


(な、に……これ)


 状況が把握できず、動揺していると奥の方から低い笑い声が聞こえた。


「やっとお目覚めか。どうだ、私からのプレゼントは。神経に針を打たせてもらった。一時的に足が使えなくなるが、心配はいらない。抜けばまた元通りさ。――君は逃げ足が速いようだから、策を講じさせてもらったよ」


 煙管に火をつけつつ姿を現した相手に、ミアは身をかたくした。

 ――背後から薬を嗅がせてきた男だ。


「どうせなら、使えないように折ってしまってもよかったのだが、寝ている間にやってはもったいないからね。針を抜いて、また追いかけっこができるようになったら、その時は是非ともやらせてくれ」


(悪趣味。最低の外道……)


 噛みついてやりたいのにできず、ミアは煙管をくゆらせる男を睨んだ。


「もうすぐ、神官殿とも再会できる。ふっ、感動の再会というやつか」

「……っ」


 ミアは震えた。

 この外道は、神官の指示でミアを追ってきたのか。

 使えない、居てもいなくても同じ、最弱だなんだとあざ笑っておきながら、今になってミアを連れ戻そうと?


(……どうかしているわ)


 それも、こんな手荒な真似をして。フォルデと同盟を結んだことでミアが辺境での役割を失えば、世話人としての手当を搾り取れなくなると踏んで、早々に男爵に売ろうとしていたくせに。

 聖職者でありながら、闇の中で生きるものに助力を請い、力づくでミアを支配下に置こうというのか。

 敵から見つからない位置で隠れ潜んでいなければ詠唱できないと、邪魔をされれば子猫一匹眠らせられないと知っているから、何人もの暴漢を差し向けて追い詰めようと――ミアの意気地を根こそぎ奪いとるつもりなのか。


(もう、いやだ……。わたしは――わたしだって、普通に幸せになりたいの!)


 ――ずっと我慢してきた。


 十四で歌い手となり、タクトの町に赴任した。

 ミアをかわいがってくれるオヤジたち、友達のメルティ、マリー……やさしいひと達が住むあの町を守りたくて、神官から何を言われようと耐えてきた。ミアがいなくなれば、魔物が町を襲うから。

 ミアは魔物を仕留められない。他の歌い手のように護衛も連れて歩いていないから、敵に接近するのは危険すぎてできなかった。

 神官の言うように、弱い歌い手だった。

 町の人たちは序列が低いミアを慰めるように「お前は最弱なんかじゃねえ」と言ってくれたが、気休めでしかなかった。


 ――町の人たちは、ミアが逃げ出さないための足枷だと知っている。


 本来歌い手は、下々の者と交わらないものらしい。それぞれが教会の神官の守護を受け、護衛に守られて、民衆とは一線を引く。たわむれに異性をはべらせても本気にはならない。まれに結婚までする歌い手もいるが、ごく少数だ。

 俗世の思想には染まらず、崇高な理念を持って聖歌をうたう――それが、ミアが聖歌機関で教育を受けた時に聞いたことだった。

 


 ミアは違う。


 神官はミアを町の中に放り込んだ。町中で飯を食わせ、町の人たちをミアの心に刻み込んだ。

 ミアがいなくなれば彼らが食われる、暗にそう叩き込んだのだ。

 逃げてはならない、他に行くべき場所はない、そういう呪縛が長年ミアを縛っていた。


 馬車はピアニッサへ向かっているに違いなかった。このままではあの場所に逆戻りだ。

 そう思うと血の気が引いた。


(……嫌。どうにかして抜け出さないと……)


 もう助けに来てくれるような人はいない。ローラント達だって、勝手に逃げ出したミアを探すようなこともないだろう。自立できると思ったその時には離れても構わない、そういう話だったのだから。

 これまでピアニッサでもそうだったように、たったひとり、道を切り開くしかないのだ。


(この猿轡さえなければ……悪党どもを眠らせられるのに)


「悪いことは考えないほうがいい。抵抗すれば、一本ずつ君の骨を折ってあげよう。ピアニッサに戻るまでに、何本の骨が折れるだろうね?」

「――ッ!」

「さて、そろそろ、アジトの転移陣に着く頃だ。もしかすると、神官殿は我慢できずにこちらに飛んできているかもしれない」


 遠くで、雷鳴が地を這うように轟いた。

 辺りは途端にうす暗くなる。

 幌をあげ、暗雲のたれこめる空を見て「ひと雨きそうだな」と呟いて、男は荷台から出た。煙管の灰を処理してから口笛で馬を呼び、前方へと駆けていく。

 ――そのうち、雨粒が幌を打った。


(……いやな空気だわ)


 ミアはぶるりと震えた。

 どういうわけか、空気が凍りそうなほど冷たい。

 ――何かが迫ってきている。

 人ごときではどうにもできないほどの、大きな何かが。

 半端に空いた幌の隙間から、暗くかげった空を見上げる。黒い雲が渦巻いて、そのなかで稲光がはしった。一瞬の閃きのなかで、小さな影をみつけてミアはひやりとする。

 その時、馬車が急加速した。荷台は激しく揺れ、ミアはなすすべもなくそこら中に身体を打ち付けた。


「くそ、なんだあいつは……っ」

「さっきから追ってきやがる」

「止まるな、走れ、走れー!」


 幌の外で、馬車と並走していた悪党どもが慌てふためく声が聞こえる。


(何かに追いかけられているの?)


 ――まさか、四翼か。


 その予兆は確かにある。

 だが、もしそうなら皆もっと恐れおののいて逃げ場所を探すだろうし、その影を見れば誰もがそれと気づく。


 ――それとも辺境騎士団だろうか。


 市場で応援を呼んでいたようだし、善良な一般人がむざむざと連れ去られるのをよしとせず、追いかけてきてくれたのだろうか。


 一筋の光明が見えた気がして、ミアの鼓動は逸った。

 馬車を追うようにして蹄の音が迫っている。

 幌は風にあおられてふくらみ、横殴りの雨が吹き込んでくる。


「何だ、何なんだっ!」

「うまく検問所をやり過ごしたと思ったのによ!」


 悪党どもの声は恐怖で震えている。そして幌の外から聞こえる異音。まるで水面が凍り付くかのような、バリッとした音がする。

 直後、鋭利なもので衝かれたようで、悪党の影がひとつ、どさりと落ちた。


「こいつは、氷槍だ! ――氷槍のアレニウスだ!」


 馬車を取り囲む悪党どもがどよめいた。


「まさか、辺境騎士団が出動したのか?」

「ありえねえ! 頭領の話じゃ、辺境伯は今回の件に噛んでねえって――」


 ミアは息をのむ。


(ローラントさまが追いかけてきた……?)


 そう思うだけで胸が張り裂けそうになる。

 ――それほどまでに、あなたはわたしを許せないの? それとも、別の理由あって?

 もしや、その手でミアにとどめをさしに来たのだろうか。

 どちらにしても、ローラントはミアを追ってきたのだ。ほの暗い喜びが湧きあがって、ミアの目に涙がにじむ。


「ちくしょう、相手は一人だ。最悪引き寄せてやりあうしかねえ!」


 馬のいななきと、怒声が飛び交う。

 それと同時に再びバリッとした音が聞こえ、鋭い刃が幌を裂いた。

 辺りが急に開けてびくりと肩を震わせるミアと、激昂し、殺意のたぎるローラントの視線が合う。雨に打たれて濡れた青銀の髪、疾走するたびにはためく外套。荒々しくも優美で、ミアは目が離せなくなる。

 その瞳が刹那に揺れて、その口が「ミア」と動いた。

 しかしミアは答えられない。手足の縄はどんなにもがいても緩まないし、猿轡が苦しい。


「んんっ……」


 潤んだ瞳でローラントを見つめると、彼は心得ていると言わんばかりに頷いた。


「俺の従者――ミアは返してもらう」


 その言葉にミアの胸は締め付けられた。まだローラントは、ミアを従者だとみなしてくれているのだ。

 荷馬車に愛馬を寄せて、ローラントはその手の中に氷槍を出現させた。

 荷台の近くを走っていた悪党が巨大な片手剣を抜き、ローラントに特攻をしかけてくる。間合いを詰められんとしたその時、ローラントの氷槍がひらめき、冷たく鋭い刃が敵をなぎ払った。尖った矛先が相手の鎧を貫き、うめき声と同時に相手は落馬した。

 露払いをしたところで馬車の荷台に飛び乗って、ローラントは無言のままミアに近寄る。

 足に打ち込まれた無数の針を無表情のまま見つめていたが、その目にはあらゆる感情が渦巻いているようだった。ただ、怒気を孕んでいることは確かで、ミアは緊張して身体をこわばらせる。それをどう受け取ったのか、ローラントはため息をついた。


「ミア……ミア・セレナード」


 ローラントはミアをいましめる針を慎重に抜いてから手足を縛る縄を切り、口から猿轡を外した。それから硬直するミアを引き寄せ、無事を確かめるようにきつく抱きしめる。その力強さに全身の骨が軋んだが、不思議と嫌ではなかった。

 冷たい雨の匂いがした。頬ずりをされたところから濡れた髪から滴がしたたり落ちて、ミアの顔を濡らす。

 その身体はびっくりするほど熱かった。

 それはミアにも伝染して、胸の中がじんわりと熱を帯びていく。

 ローラントの鼓動が激しく伝わってきて、ミアのほうが動揺した。

 返事をしなくては。助けてもらった礼を言わなければ。そうは思えども、まだ喉に何かつかえているかのようで、声が出ない。

 代わりに、目から涙がこぼれた。


「ミア」


 その大きな手が頬に触れた。親指を唇へと滑らせて、血のにじんだ口の端をそっとぬぐう。

 息をするのもはばかられるほど、その流麗な顔がすぐそこにあった。氷のような瞳が切なげに揺れる。乱れたミアの髪を撫でて、額に唇を寄せる。


「ロ、ローラントさま」


 動揺を隠せないミアを見下ろして、ローラントはためらいがちに口を開いた。


「怪我はないか」

「……はい」

「足は? 動くか」

「大丈夫……です」


 棒のようだった足は、針を抜いたと同時に感覚が戻ってくる。痺れてはいるものの、思い通りに動かせた。


「そうか。良かった」


 ローラントはもう一度、壊れ物に触れるかのようにミアを抱きしめる。頬や髪に唇を寄せて何度も、ミア、とささいた。その声は切実に何かを確かめる儀式のようで、ミアはうろたえた。

 そこには怒りや憎しみはなく、ただひたすら、餓えと渇きがある。


 分からない。

 ローラントは、ナイチンゲールを許せないでいるはずなのに。

 まるで、大切なものを取り戻したかのような目をしている。

 ――自分を騙していた女なのに。


 ローラントは戸惑うミアを軽々と抱き上げ、口笛を吹いた。荷台から離れて並走していた黒馬が即座に駆け寄ってくる。ローラントが先に馬に飛び乗り荷台の端に立ったミアに手を差し伸べた。一瞬迷ったミアをローラントは真っ直ぐ射て、有無を言わさずそのまま引き寄せる。 

 横腹を叩いて荷馬車から離れると、手綱を巧みに操って反転、城塞都市へと進路を取った。

 彼の温度を感じるせいか、それとも何をされるか分からない不安からか、背中にじんわりと汗がにじむ。

 ミアは虚ろな目で前方を見た。城塞都市の検問所が遠くにあり、ローラントが追い付かなければ本当にピアニッサへ逆戻りだったと思い知る。


「……どうして」


 問う声は震えた。

 ひとりでも大丈夫だと思っていた。

 友人や知人に囲まれていても、ミアは突如として放り込まれたよそもの――異物に違いない。それに気づかないふりをするのは、得意だ。あの地で恋愛して結婚すれば、いつかは染まって普通になったのだろうが、誰にも選んでもらえない時点で望みは薄かった。

 この先どこに行ったとしても、孤独とさみしさを抱えて生きていけると思った。長年耐えてきたのだから。


 だが、ローラントの姿を見ると心が揺らいだ。これから先も一緒にいて、とすがりたくなってしまう。

 それはできないと分かっているのに。ローラントにとって、ナイチンゲールは忌むべき存在だから。


 冷たい雨に打たれ、指先が震える。熱を帯びたローラントの手が、手綱を握る冷たいミアの手に重ねられる。


「何故追ってきたのか疑問か?」

「わたしは、あなたを苦しめたから」


 ミアを抱く腕に力がこもる。


「まあ、ある意味では苦しめられたか。……ろくに話も聞かずに突然消えて、俺の心をめちゃくちゃにしたことは確かだ。しかし、お前は色々と誤解している」

「誤解って、どういう……――っ」


 ミアの言葉を遮るように銃声が鳴り響く。

 振り返れば、討ちもらした悪党どもがこちらに迫ってきていた。

 ローラントが舌打ちをする。


「話はあとだ。邪魔なあいつらを片付ける。ミアは安全な場所で待っていてくれ」


 言ってから、雷鳴が轟いた。

 上空を見上げると無数の影が旋回している。

 ――四翼だ。

 この平原で安全な場所など、最早どこにもないと悟る。

 ローラントひとりに全てを任せて、一体どこに逃げろというのか。

 いくらローラントが最強の男とはいえ、悪党に加えて魔物まで相手にしたのでは手に負えないはずだ。

 ミアはこぶしを握りしめた。


「――わたしも戦います」

「駄目だ――」

「ローラントさま。わたしは歌い手ナイチンゲールです」


 お忘れですか、とミアは囁いた。


「しかし……」


 ローラントは唸った。

 彼にはミアに眠らされた苦い記憶がある。

 ミアのいう戦いが何たるかを、ローラントは理解しているのだ。


「わたしが差し上げた水晶レイ・クォーツは持っていますか?」

「もちろん。ここに」


 ローラントはポーチをぽんと叩いた。


「良かった」


 ミアは心の底から笑った。

 あの水晶はミアの心そのものでもあった。

 ローラントに側にいて欲しい――そんな、勝手な思い。

 共に戦って、ミアが歌えるように守って欲しいという秘密の願いだ。

 正直、ミアムの正体を知って、たたき割られたかと思っていた。

 贈り物を大事にしてくれていると、さも自分が大事にしてもらっているかのような錯覚に陥って、ミアは頬を染めた。


「ローラントさまはプレゼントを大切にしてくださるので、わたしもうれしいです」

「当然だろう。他でもない、お前からの贈り物だし」

「どうか、この戦いでそれを手放しませんよう。特に、わたしが聖歌をうたう間は」

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