3

 朝霧のたちこめる城塞都市は静けさに包まれていた。

 城壁の上を巡回する兵士や騎士たちは、冷ややかな空気に耐えながらも警戒を怠らない。

 開門してすぐに、ちいさな影が街へと飛び出していったのにもいち早く気づいたが、それがローラントの従者だと分かると止めるものは誰もいなかった。

 朝早くから騎士団長が従者を使いに出したのだろう、そんな認識のようだった。

 しばらく歩くうちに、腹が空いてきた。何か買って食べようかと考えたが、ミアは自分が無一文だったことを思い出す。

 売れそうなのは買ってもらったダガーくらいだが、さすがにこれは手放せない。


(ローラントさま、ごめんなさい……)


 腰に差したダガーに触れ、ミアはうつむいた。

 散々利用するだけ利用して、逃げてきたかたちになる。

 善意につけこんであざむいたミアを、ローラントは軽蔑しただろう。

 女だと知って、激しく動揺していた。ミアを捕えるなど容易かっただろうに、咄嗟に動けないでいた。表情は硬くて、相当の衝撃を受けているようだった。

 愛する少年がまさかのナイチンゲールで、がっかりしたに違いない。

 それとも、あの酔っ払いはすべてをまぼろしで片づけてしまっただろうか。

 キスをしたことも、好きだといったことも、全部なかったことに……。

 腫れぼったくなった唇にふれる。

 はじめてのキスは、プラム酒の味だった。久しぶりのアルコールを味わったミアだが、変なことを口走っていなかったか。

 ローラントは本気でミアムを想っていたのだ。

 逃がすものかと言わんばかりに力強く抱きしめられて、息も絶え絶えになるほどに深い口づけをした。


(だけど、愛されていたのはわたしではなく、ミアムだ……)


 そう分かっていても、思い返すと身体が熱くなって、奥のほうが疼く。

 何にせよ、全てを知ったうえでも優しくしてくれるわけがない。

 冷えた氷の眼差しでミアをなぶってなじられるくらいなら、何も聞かずに離れるほうがずっとましだった。

 告げないでほしかった。そうすれば、知らないふりをして一緒にいられたのに。


(……指輪は返したし。手紙も残してきた。きっともう、わたしに用事はないよね)


 氷槍のアレニウスが復活すれば、魔物など何匹現れても困らない。

 無尽蔵に生成される氷の槍が敵を貫くのだから。 

 もう二度と、ローラントの前には姿を見せられない。

 次に会えば、どんな言葉を投げつけられるか分からず恐ろしくて、胸が痛い。

 ローラントから否定されたら、心が砕けてしまいそうだ。

 キャスケットを目深にかぶり、ミアはため息をつく。


 この先、歩いて移動するにはフォルデは広すぎる。都市には王都直通の転移魔法陣があるとの話だったが、それは相当な金か人脈がなければ使えないし、それがあるのは辺境伯の城内。無理な話だった。

 都市から都市へと移動する隊商があるはずで、それについていけば少なくともこの城塞都市からは離れられるだろうか。

 そう考えて、ひとまず、市場を目指した。

 石造りの家々が立ち並ぶ通りを歩き、広場を横切って、人通りの多い方へと歩を進める。

 朝早いにもかかわらず、市場には既に多くの人達が行きかっていた。

 色とりどりの旗がなびいているのが見え、その先の雑踏の中で様々な品物が並べられている。商人たちは声たかだかに客を呼び込み、宣伝文句をうたっていた。干した肉や新鮮な野菜、みずみずしい果物や香辛料。陶器や宝石まで、市場にはあらゆる商品がそろう。

 その他に怪しげな占い師、芸人や魔術師が集まっているようだ。

 これだけ人が多ければ、ピアニッサや辺境から離れた見知らぬ場所へと移動するものもいるだろう。


(よし、色々あたってみよう)


 まずは観察だ――あちこちを見て、辺境や山のほうでは見ないようなものを探す。

 途中、市場を騎士や兵士が巡回していてひやひやしたが、積み上がった商品や木箱の陰に身を隠してやり過ごした。

 いくつかの隊商に見当をつけ、交渉にうつる。

 女は余計なお荷物だとみなされてしまうので、ここでも少年のふりをした。

 寝ずの番をして敵を眠らせることができると言えば、「うちは中央に向かうが。一緒にいくか、坊主」と、とある隊商がミアを受け入れてくれた。

 仕入れたものを荷台へ積むのを手伝って、いざ出発となったその時。

 目つきの悪い商人が数人寄ってきて、隊商を率いるリーダーに声をかけた。

 彼らは荷台に乗るミアを見てから目配せをする。

 隊商のリーダーはいぶかしむようにしてミアを見た。


(一体何を話しているの……?)


 ミアはこくりと喉をならした。

 善意で話しかけているわけではなさそうだし、ミアを指さしつつ何か言っている。

 ――ベルが言っていたではないか、市場にはスリや詐欺師、果ては人さらいまで、悪人もたくさんひそんでいると。騎士団や兵士が巡回して治安維持につとめているものの、これだけ雑多に人が集まっていると何が起こってもおかしくない。

 女こどもは特に狙われやすい、とも。

 ミアは息を止め、いつどうなってもいいように、ダガーに手をかけた。緊張で、指先が震える。

 リーダーの静止を振り切って、目つきの悪い男たちが大股で近寄ってくる。彼らの外套が風にはためいた時、その腰に銃やナイフが下げられているのが見えた。

 ミアは弾かれたように荷台から飛び降りて、人の流れに逆らって駆け出した。


(何、なに、なんなの⁉)


 ミアが逃げ出すなり、目つきの悪い男達は通行人を突き飛ばして追ってくる。


「待ちやがれ!」

「そっちにいったぞ! 今度こそ逃がすなよ!」

「あの色男はいねえ! 絶好の機会だ!」

「ピアニッサに引き渡せば高く売れる!」


 迂闊だった。

 辺境の町で襲われて以降何もなかったから、もう諦めたものだと思っていた。

 しかもここは城塞都市。フォルデ辺境伯のひざ元だ。騎士団の存在を知りながらそこで騒ぎを起こすはずがない、氷槍のアレニウスと真正面からやりあおうとする馬鹿はいないと思い込んでいたのだ。


 どうせ愛人として囲うだけなのに、男爵の執念は異常だ。

 ここまできたら、地の果てまでも追いかけてくるつもりだろう。意地でも捕まえて男爵に引き渡すつもりに違いない。そうなったら、取り巻きの一人として生きていくことになる。


 ミアは鳥肌が立った。


 今まではローラントが側にいたから手を出してこなかっただけで、行商人に扮装して、ずっと機会をうかがっていたに違いない。ひとりになったミアを捕えるなど、彼らにとってたやすい。

 伸びてきた腕を機敏にかわし、ミアは走った。


「ごめんなさい、道を開けてください!」


 人と人の間を縫って、まろぶように駆け抜ける。

 人が多すぎる。ここで身勝手にも聖歌を発動させるわけにはいかない。

 心臓が破れそうだった。野太い声がミアをどこまでも追ってくる。

 身体のばねを最大限に生かして、飛ぶように走る。女だからと相手はなめてかかっているようだったが、ミアは想像以上にすばしっこくて、伸ばされる手をことごとく避けるものだから追っ手たちも次第に苛立ってきていた。怒号をあげ、通行人を吹っ飛ばしつつ、ミアめがけて突進してくる。

 騒ぎに気付いた兵士や騎士たちが暴れる追っ手どもを取り押さえる。

 だが、一体何人いることか。次から次へと暴漢が湧いて、ミアをつかまえようと追いかけてきた。巡回の兵士は焦り、上空に向かって光弾を打ち上げた。応援を呼ぶ合図である。


「クソッ、面倒なことになった。さっさとかたを付けるぞ!」

「このアマ! さっきからうろちょろとしやがって!」


 ミアは慌てて屋台に立てかけてあった幅広い木の板を駆け上がり、建物の屋根によじ登って家と家の間を飛び移っていく。

 後ろから発砲音が響いた。当たりはしなかったものの足元に銃弾が撃ち込まれて血の気が引く。一歩間違えば、足を貫かれていた。


「手足なんざなくたってかまわねえって話だ! しっかり足狙え、動きを止めろ!」


 相手はなりふりかまわないようだった。

 恐怖で身がすくみそうになる。


(立ち止まるな。動け、わたしの足!)


 どこかに安全地帯があるはずだ――ミアは走った。

 途中何度も足がもつれ、つまずいて転びそうになったが、追っ手がしつこく追いかけてくるので立ち止まることもできない。

 もうつたえる屋根がなくなったところで、足元から怒声が飛んだ。


「観念しな、ミア・セレナード!」

「ばか言わないで! 絶対にいや!」


 下に降りたら捕まる。ならば戻ろうかと振り返ると、後ろの方からも屋根をつたって迫る影が見える。

 囲まれる前に眠らせられれば――……。


(だめ、聖歌の詠唱中に追いつかれる……!)


 迷った末、ミアはベランダにするりとおりて、広場とは反対側のひと気のない小路のほうへと飛び降りた。奇跡的に着地はうまくいったが、足の裏がじんとする。

 路地は細く、すれ違うこともできない。がたいのいい男が踏み入ろうものなら、容易に身動きはとれないだろう。追っ手たちに取り囲まれることはない、安全地帯である。


(ここでなら……っ)


 敵の視界に入らないよう、できるかぎり壁に背を預け、ミアは胸の前で手を組んで聖歌の詠唱を始めた。

 屋根の上から、広場から。追っ手が迫る足音がする。彼らが追い付く頃には詠唱が終わる。


(眠れ……!)


 ――飛び交う罵声、怒号。それらがぴたりとやんだ。代わりに、ミアの目の前に人が転がり落ちてきた。


「うそ……。やった……!」


 一人、二人、三人と折り重なってゆく手を塞ぎ、広場には戻れなくなった。

 残党が追ってこないか振り返りつつ狭い小路を抜けると、開けた空間に出る。水洗い場だった。女たちが桶を手に、おしゃべりをしながら洗濯をしていた。先ほどまでの殺伐さが嘘のように穏やかな日常がそこにある。

 きっともう大丈夫だろうと喜んだのもつかの間。何かとぶつかった。


「ごめんなさい」


 振り返ると、人のよさそうな男が立っていた。目は弓なりに細まり、ミアの肩に手を置いてにっこりと笑う。


「やっと捕まえた」

「え……?」

「手足をもがれたくなかったらおとなしくしたほうがいい。それとも、この私のために可愛い声で啼いてくれるのかな?」


 その表情とは裏腹に残酷な言葉が吐かれ、肩に置かれた手に力がこもる。

 ミアは恐怖で青ざめた。腰のダガーを抜こうとするが、素早く手を抑えられ、独特な薬の匂いがする布で鼻と口をおおわれる。


「おやすみ、ナイチンゲール」


 ミアはそのまま気絶した。


 ◇



「バレット様……騎士団として動いてはいけないというのはどういう意味ですか」


 辺境伯は、すっかり取り乱したローラントを見てため息をついた。その目には怒りがほとばしり、今にも爆発して辺境伯の胸倉をつかみそうな勢いだ。

 今朝からローラントの周囲には文字通り吹雪が吹き荒れている。歩くたびに床面は凍り付いて、騎士団の宿舎は全面冷凍の様相をていしていた。

 魔法ブルートパーズの指輪には、感情の昂りによって溢れてくるローラントの氷の力を制御する効果もあるのだが、漏れ出る力が普段のそれより大きく、うまく機能していないようだ。理性と叡智によって抑えられている力は激情に乗って周囲を侵そうとしていた。

 その氷の道は城主の間まで続いた。見張りの兵士は絶対零度のまなざしを前にしてすっかり委縮しているし、誰も近づけないでいる。この状態のローラントを前にして堂々としていられるのは、バレットとクランくらいであった。


 ローラントは、広い机を感情にまかせて強く叩いた。山のように積み上がった書類の一部が揺れるが、奇跡的に崩れなかった。


「今ミアを追いかけなければ、取り返しのつかないことになる!」


 ローラントは何としてもこの手でミアム――いや、ミア・セレナードを連れ戻したかった。


『わたしはあなたの対象外』


 ――最初からお前しか見ていなかった。


『あなた好みの少年ではない』


 ――少年が好きだなどと一言でも言ったか?


『ナイチンゲールを許せないでいるのは知っています』


 ――どういうわけか、ひどい誤解を受けている。


 散々人の心をかき乱してきたミアがこの手をすり抜けていく。好きだと告げたことすら、なかったことにされる……それだけはどうしても受け入れがたい。


 どうして逃げた。

 好きだと告げたからいけなかったのか?

 ローラントがミアに何か酷い仕打ちをするとでも思ったのか?


 ピアニッサでミアが憂き目にあっていたらしいことは聞いている。

 その上、田舎貴族の愛妾として召し上げられそうになっていたのだから泣けてくる。何としてでもその環境から抜け出したくて、ひとり夜の森の中を逃げ回っていたのだとすると、愛おしさと切なさと怒りが込み上げてきて、冷静ではいられなくなる。


 ふと、昨日抱きしめたミアのやわらかさがよみがえる。

 繊細で、甘くて、今にも壊れてしまいそうだった。

 もう一度抱きしめて、安易に眠りを与えた責任を取って生涯そばにいろと言わねばならなかった。そしてどれほど想っているか伝えるのだ。


 使えるものを総動員してミアを探し出すつもりでいたところ、待てをかけられたローラントはすっかり怒り心頭だ。


「まあ落ち着け。ピアニッサの歌い手については、俺も聞いちゃいる。中央から直接話が回ってきたからな。ただ、この件に騎士団は関われねえ。いなくなったのはてめえの従者だ。そうだろう? 何より、自分の意思で飛び出して行ったやつを無理矢理連れ戻すってのは、何とも感じが悪いと思わねえか?」

「……」

 

 言い返せなかった。

 だが、逃げたいというのがミアの本心とも思えない。彼女はあんなにも追っ手に捕まるのを嫌がっていたのだ。 


「まあ、大きい声じゃ言えねえが、同盟締結したばっかだってのに、両国に亀裂が入るような話にはさせたくねえわけよ。今のまんまじゃ、俺が意図してナイチンゲールを隠していたと受け取られかねない」


 分かるよな、とバレットは太い笑みを浮かべた。ローラントは鼻白んだ。

 知らなかったとはいえ、辺境伯麾下きかのローラントがミアを連れ歩いていたのだ。私利私欲で歌い手を隠していたのかと糾弾されてもおかしくはない。


「……そんでよ、アレニウス。てめえが休暇中に何をしようと俺は関与するつもりは微塵もねえ。休みの間は騎士団長代理を副官のクランかベルに任せりゃ済む話だ。あいつら二人とも、相当有能だからな」


 これも俺の人徳のなせるわざか、とバレットは肩を揺すった。

 ローラントはバレットを凝視する。


「つまり、休暇をいただけると?」

「おう。申請すればいくらでも」


 バレットは両肘を机の上にかけて手を組んだ。


「そうすりゃ、今すぐすっ飛んでいったって何も文句なんて言わねえさ。好きにしろ」

「バレット様……恩に着ます」



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