5
昼過ぎには今後の旅に必要なものがそろって、ミアたちは宿へ向かった。
空は良く晴れ、雲一つない春がすみの青空が広がっている。頬を撫でる風はあたたかく、ほのかに花の香りがした。
太陽の照り返しで家々が白み、石畳の上もほんのりと暑い。
上空の魔物、
(……わたしがいなくても、本当に大丈夫みたい)
ピアニッサのほうに暗雲がたれこめているから、今はそちらを回遊しているのだろう。首都近郊には序列上位の歌い手が三人いるし、なんとかなるに違いない。
――四翼。
上空に四翼がおらずとも油断はできなかった。
地上を這いずり回る魔物もじゅうぶん
魔物の多くはスラー山脈に生息しているという話だが、実際に人里までおりてきたことはミアが辺境の歌い手となってから一度もなかった。
被害のほとんどは山中である。
魔物が眠っているのに気づかず洞窟に侵入し、そっとその場を離れれば良いものを、変に手を出して魔物を目覚めさせ、大怪我を負うパターンが多い。
山のほうで怪我人が出たと聞くたびに神官は寝ているミアを叩き起こして叱責した。一体なんのための聖歌だ、この役立たずと。ミアは毎回、何も言い返せなかったが、今になって思えばなんとも理不尽だった。
(いつどうなるか分からない不安はあるけど、あの頃を思えば、今の待遇は天国だわ)
ローラントのあとをくっついて石畳で舗装された大通りを歩くと、大きな窓ガラスに真新しい服に身を包んだミアの姿が映りこんだ。
白いシルクのシャツに、サロペット付きの黒いスラックス。頭にはベージュのキャスケット。革靴はピカピカに磨かれており、ミアの足にぴったりと合う。腰には真新しいダガーを差してあり、突然襲われたら迷わず抜けとローラントから言いふくめられている。
この他にもジャケット、キュロット、タイツまでローラントに買ってもらった。
(これでも、自重したほうという)
似合うものを全て買う、などと言うものだからミアも店員も目を丸くした。そんなに必要ないと断らねば、ローラントは陳列されたものすべて買う勢いだった。
そのどれもがミアの財力では手が出せない高級品ばかりである。そもそも店自体、庶民が気安く入れるような場所ではなかった。
そんな店に、朝までミアが着ていたよれよれの薄汚れた服を引き取ってもらったのだからどうかしている。辺境を守護する騎士団長の言葉には逆らえないのか、無言の圧に負けたのかは定かではない。
(……ローラントさまってやっぱり、そっちの人なのよね)
一度あやしいと思うと、もうそういう風にしか見えなかった。
どんな美人とすれ違っても目もくれないし、色香に溢れた花街の女を見ても無反応。
それよりもその辺を駆け回る少年を見ては首をかしげ、時に自分の頬を叩いては遠い目をしてため息をついている。国宝級の顔を叩くなんてとんでもない、と止めにはいるとまたため息。
一方でミアム少年に対してやたら甘い。
同情や哀れみによる甘さだと断言できないほどに、甘やかされている。
きれいな服を用意してくれるわ、甘くてあっさりしたものが食べたいとこぼせば、すぐさま露店で冷えたジュレを買ってくれるわ。そのジュレがまた美味しい。中には粒状の果実が入っていて、噛むたび果汁が弾けておいしかった。希望通り、甘くてあっさりとした口当たりである。
こんなに尽くしている相手が、他でもないナイチンゲールだと知ればどう思うだろう?
怒り狂って、その馬鹿力でミアの身体を真っ二つに折るかもしれない。
「ミアム。何をしている。ちゃんと隣を歩きなさい」
ぼんやりと歩いていると、ローラントに腕を掴まれた。
その眉間に深い皺を刻み、幼い子に言いふくめるように話すものだから、ミアはつい苦笑いをした。今しがたまで冷たく近寄りがたい雰囲気をかもしだしていたのに、従者が離れるのだけはどうしても見過ごせないらしい。
「あはははは……はい」
「はぐれないように手でもつなぐか?」
「大丈夫ですよ、ローラントさま。わたし、頑張ってついていきますから!」
気合いをいれて返すとローラントは吹きだした。
「頑張ってといってもな。足の長さからして違うだろう」
からかうように頭をくしゃくしゃに撫でられ、ミアはむきになった。
「そうですけど! はぐれてもすぐに見つける自信ありますし。追い付けるように走りますから」
上背のあるローラントはどこにいようとすぐに分かる。何より、その周囲には数多の視線が集まるし、自然とひとだかりができるからはぐれたとて困ることはない。
それに、ずっと歩調を合わせてくれていることにミアは気付いていた。何をしてもはぐれようがないではないか。
「ほう? 走って追いかけてくるだと? それは見物だな。ならば、俺はゆうゆうと歩いているとしようか」
ローラントがくつくつと笑うと、周囲が途端に騒めいた。すれ違った娘は卒倒し、町を巡回しているらしい騎士はぎょっとした顔でローラントを振り返った。冷たい氷のような眼差しが甘く溶けて、ミアをやさしく見つめている。
そんな目で見つめられると、勘違いをしてしまいそうになる。
彼の気遣いもやさしさも、ミアに向けられたものではないと分かっているのに。
――ミアムだから、少年だから。
女のミアに向けられたものではないから。
何度も言い聞かせてみるが、反則級の笑みと視線に心が揺れた。
全てを知った時、ローラントは一体何を思うだろう。少なくとも、今のようにじゃれあう関係ではいられなくなる――考えると、足元から冷たいものが這い上がってくるようで怖かった。
あの氷のような眼差しでなぶられて、突き放されたら、きっと立ち直れない。
湧き上がってくる思いを振り払って、ミアは抗議の声をあげる。
「そうしたら、わたし、ずーっと走ってないとならないじゃないですか!」
「それも鍛錬のうちだぞ」
言ってから、ローラントは突然ミアの肩を力強く抱き寄せた。
「な……っ⁉」
「このままで」
ローラントの低い囁きが腹にきゅんと響く。
その視線は建物の影に向けられている。何があるのかとちらりと見れば、がらの悪そうな数人の男たちが何やら話しあっていた。
うち、一人とばっちり目が合う。相手はにやりと笑い、舌なめずりをしてみせる。
ミアは鳥肌が立った。
慌てて視線を逸らし、ローラントのほうに身を寄せる。
「……案ずるな、必ず守ってやる」
頼もしい言葉を吐いてから、ローラントは人の波を縫うように足早に進んだ。しかし、男たちはどこまでも後をつけてくる。
(まさか、ジャガ男爵の追っ手?)
ミアは震えあがった。
ピアニッサから追い付くには早すぎる気もしたが、組織だっての追跡だとしたらありえなくもない話だ。あらかじめその特徴を共有しておけば、ゆく先々で標的を捕えることもできるだろうし。
にぎやかな大通りから逸れ、ひと気のない小路に入ったところで、ローラントはミアを抱く手に力を込めた。
「走るぞ」
言うと同時にローラントはあたふたとするミアの足の間に腕を入れ、そのまま軽々と抱き上げて肩で担いだ。
「ひゃあっ!」
思わず変な声が出る。ミアたちを追って男たちが小路に飛び込んでくるやいなや、ローラントはそのまま一気に走り出した。そのあまりの速さに、ミアはまともに息継ぎもできなかった。
どこまで逃げるつもりなの、聞きたくとも声も出せない。
しばらく走っているうちに開けた空間に躍り出る。
ただし、行き止まりだ。上を見れば洗濯ものを干すためのロープがはられていて、洗いざらしのシーツが数枚、風になびいていた。
ローラントはそこで止まると、ミアを背に隠して買ったばかりの短剣をひき抜いた。
「ローラントさま――」
「そこでじっとしていなさい」
ミアは息を詰めてうなずいた。
暴漢が下卑た笑みを浮かべる。
「観念しな、逃げ道はないぜ」
「後ろのかわい子ちゃんをこっちに渡せ。そうすれば、命だけは助けてやる」
ローラントは失笑する。
「はっ、誰にものを言っている」
片手で短剣をもてあそび、ローラントは冷笑を浮かべた。その場に痛いほどの殺気が満ち、ミアは息をつめて身を竦ませた。
男たちは無言で目配せをする。
屋根の上の鳩がはばたき、抜けた羽がはらりと落ちたその刹那。暴漢どもは腰に下げられたナイフを抜きとり、一斉に襲い掛かってきた。
「ザコが、死にさらせぇ!」
「
ローラントは短剣を軽く放り投げた。空中で回転したそれを逆手に持って構え、真正面から飛び掛かってきた男にむけて素早く振り下ろす。
その動きはミアの目では捕らえられないほど速く、突如として刃が繰り出されたようにも思えた。
男は目をむいて驚き、目の前で閃く刃をかわせずに切り裂かれ、そのまま血しぶきをあげて地面に倒れ伏した。
何が起こったのか分からぬうちに仲間がやられ、男たちは呻いた。
「ちくしょう、この野郎が!」
暴漢どもが引き下がる様子はない。
男の一人が怒声をあげてナイフを振りかざす。ローラントは相手の手首を掴み、肘をひねり上げながら短剣でその顔面をぶん殴った。鈍い音が響いて、男の鼻がおかしな方向に曲がる。悲鳴があがり、相手はそのまま倒れた。
一騎打ちでは勝ち目はないと踏んだのか、残りの暴漢どもが一斉に飛びかかってくる。
ローラントは背後をとってきた男に強烈な回し蹴りをくらわせた。回転した勢いに任せて別方向から迫る敵を切り裂く。相手の攻撃を見切り、ひとり、またひとりと処していった。
最後の一人が倒れたところで、血濡れた短剣が砕ける。むしろ、そこまでよくもった。
血なまぐさい現場を前にして呆然としていると、ローラントが駆け寄って膝をついた。ミアを見つめるその瞳が
何を恐れているのか、ミアに伸ばした指先は震えている。
「怪我はないか」
「……ない、です」
無事を確かめるように頬に触れた指は冷たい。今この場の誰よりも強く、ひとりで敵を圧倒していたというのに一体何が不安だったのだろう。
ミアはじっとローラントを見つめて、その大きな手におずおずと自らのそれを重ねた。
「あなたが、宣言通りに守ってくださったので。ありがとうございます。ローラントさまこそ、お怪我はありませんか?」
「……」
ローラントは何も言わない。すっと表情を消して、ミアを見つめる。
何か気にさわるようなことを言っただろうか。
不安になって、ミアは声を震わせた。
「ごめんなさい」
「何故謝る?」
「……ずっと、迷惑をかけているので」
役に立たない。
何もできない。
自分を偽って守ってもらっている。
その罪悪感に押しつぶされそうになる。
ミアがいなければ、ローラントは魔物退治に専念できる。上空を飛ぶ四翼や、地上を徘徊する魔物、辺境をおびやかすものを討伐できるだろうに。この辺境の安寧はローラントがいてこそだ。
それでも、今のミアは彼が必要だった。
せめて、見限られないようにしないと。
(…………からだで返すしかないのかな)
考えてから首をひねる。
一体、どうやって?
女だとばれるわけにはいかないし、ばれたとしても、ミア程度が寝所に忍び込んだところで失笑され、つまみ出される――いや、斬り捨てられるのが落ちではないか?
ぐるぐると考えていると、ローラントは何を思ったか眉間に皺を寄せ、ため息をついた。
「何も迷惑ではない」
ミアの手を取って立ち上がらせ、彼はまっすぐに従者を見た。
「お前を守りたいと思うのは俺の意思だ。謝る必要などない。願わくば、この先も――……」
「この先も?」
どきりとして目を丸くするミアを前にして、彼は咳払いをした。
「……いや、何でもない。忘れてくれ」
そうつぶやき、踵を返すと近くをうろついていた青年をつかまえる。
「見ていたな、シド。他にも仲間がいるはずだ。残らず捕らえよ」
「り、了解です」
どうやらローラントの部下――私服で巡回している騎士らしかった。
言ったものの、シド青年は背筋をぴんと伸ばし、敬礼したまま固まってしまった。
ローラントは眉根を寄せる。
「何をしている?」
「はっ! 空気を読んで距離をとっていたのですが、よもや話しかけられるとは思いませんで、動揺しております!」
この騎士団長、町中では常に話かけるなという冷え冷えのオーラを発していたのだからさもありなん。
「お前たちよく教育されているな。……分かった、クランのやつだな?」
余計な気を回して、とローラントは呟いた。
「はい! 副団長からはくれぐれも邪魔をするなと! おれはベルを抑えるから、とのことです!」
「…………そうか」
ローラントは額を抑えた。
町中で何度かもの言いたげな視線を向けていたのは、ローラントの部下だったらしい。報告したいことがあってもひたすら我慢していたに違いない。
ミアは、膝をがくがくと震わせる青年を哀れに思った。
「……もういいから行け。あれ以外にもあやしい者がいたら捕らえ、報告せよ」
「了解です!」
今度こそ弾かれるように走りだしたシドを見送ると、ローラントは壁にもたれてポツリと呟いた。
「人目を惹きすぎてしまったな」
「それはどうにもできなかったのでは?」
「いや、もう少し、地味な服にしておけば……」
「地味な服……?」
騎士服は白と金糸で目立つし、そうでなくともローラントは注目の的だから、何をしたところで無意味なのでは、と思ったがミアは黙っていた。
ローラントはじっとミアを見つめて真顔でこぼした。
「まあ、羽虫が群がってきたら、あまさずひねり潰せばいいか」
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