3

 ミアはその日、久しぶりによく眠れた。

 何しろ、部屋にはミア一人だけ。ローラント達の目を気にしなくていいのだからさもありなん。しかもベッドはふかふか、布団は日向の匂いがしたのだ。

 何よりも心配事の一つが解消されたのもあって、心が軽い。


 ――そう、尻問題である。

 

 昨日の夜、ミアは意を決し、ベルに頼んで薬を塗ってもらった。

 何を見ても驚かないでくださいね、と前置きをして。

 そうしなければ、ミアの尻は耐えられなかった。皮がむけるだけならまだしも、傷が深くなってくれば膿んで治りも遅くなる。自分では状態を確認しようがないし、ローラントやクランには絶対に頼めない。

 ベルだけが頼りだった。

 彼女がミアの助けとなってくれるなら、終わりの見えないこの旅路であっても、心身共に楽になるのは間違いない。

 たかが尻を見せるのに真剣になっているミアにベルは苦笑して、「大丈夫、どんな酷い傷でも驚きませんから」と言ったが、結局、ミアのそれを見て絶句。もくもくと処置をして、軟膏の蓋を閉めたところで口を開いた。


「……女の子だったのですね」

「黙っていてごめんなさい。色々と、事情がありまして」

「そう。どこまでが本当のことなのか、聞いても? 売られそうになって逃げてきたのは本当のこと?」

「はい……」


 親子ほど年のはなれた男爵の愛人にされそうになったこと、すべてに嫌気がさして逃げたこと。ピアニッサの歌い手であることは伏せて、これまでのことを話せば、ベルはミアをぎゅっと抱きしめ、頭をやさしく撫でて返した。ベルからは石鹸のいい匂いがする。不意に友達のメルティが脳裏を過り、ミアは泣きそうになった。

 背中を規則的に叩くベルの手はあたたかく、やわらかい。


「……怖い目にあいましたね。でも、もう大丈夫。我々と一緒にいれば安全です。団長も、私も、クランもいます」

「はい。本当に頼もしいです。ただ……」


 言い淀むミアにベルは首を傾げた。


「ただ?」

「わたしが女だって、ローラントさまには言わないでもらいたいんです」

「どうして? 色々と、その、不都合じゃありませんか?」


 ベルの言うことはもっともだった。

 これから先、困りごとが出てくるのは確実である。月のものが訪れたとき、一体どうやって誤魔化すかと今から考えてしまう。

 それでもミアは、わずかでも自分の痕跡を残したくないのだ。いつ追っ手が迫るとも分からないし、見つかって連れ戻されるなどごめんだった。

 ローラントに本当の性別を知られたら、ミアム少年こそがナイチンゲールだと気づくだろうし、そうなればミアなど一捻りで処されるに違いなかった。

 ミアはぶるりと震えた。


「クランはともかく、ローラントさまは嘘をつくのがへたくそだと思うんです。敵をあざむくには味方から、とも言いますし」


 ベルは何か言いたげに口を開いたが、すぐに口を閉ざした。

 ミアが深い事情を抱えているのを察してくれたのか、ベルはそれ以上突っ込んだことを聞いてこなかった。

 ただ、「何かあれば遠慮せずに言ってくださいね、協力します」と約束してくれたのだ。



 ――……何にせよ、悩みの種が一つ減ったのは喜ばしいことである。

 鼻歌を歌いつつサラシを巻いて、その上から板を付ける。下着をかぶり、男もののシャツを羽織ってしまえば胸のふくらみなど、まったくわからない。

 夏なら暑くて倒れてしまいそうだが、幸い今の時期は耐えられる。朝晩肌寒いくらいだから、むしろちょうどいい。


(よし……大丈夫よ、ミア。どこからどうみても美少年)


 着替えたところでカーテンを開けると、蜜色の光が差し込んでくる。昨日到着したときは薄暗くて、町の様子も分からなかったが、思ったよりも大きな町のようだ。朝焼けに染まる町並みは絵画のようにうつくしかった。

 山裾に広がる平原、街道沿いにある辺境の町。フォルデほどの強国であっても、侵入をたくらむ敵はいくらでもいる。その際、まず狙われるのがこの町だろうし、攻防時の拠点として機能するのもここの町なのか。


(……定住地にするには不安よね)


 ミアは苦笑を浮かべた。安全な場所、誰も自分のことを知らない場所となると、もっとフォルデの内地になる。少なくともそこにたどり着くまでは、ローラント達のやっかいにならねばならない。


(それまでは、使えないから捨てて行こうなんて思われないようにしないと)


 深呼吸をしてから部屋を出て、に向かう。


 ローラントの部屋は宿の最上階、最上級の部屋である。その重厚な扉からして意匠をこらしたデザインで、ノックをしてから踏み入るのに一瞬のためらいが生じる。


 昨晩、宿屋の娘がローラントの部屋から勢いよく飛び出してきたのを見た。

 男の部屋から出てきたのだから、何があったのか大体想像できて、ミアは心中複雑だ。


 ローラントの容姿は、抜群に良い。女子が放っておくはずがないし、何をしなくともモテるのは当然だろう。


 入室を促されてミアが扉を押し開けると、長い脚を組んでソファーにもたれかかる美青年の姿が視界に飛び込んでくる。その手には書面があるが、今まで女でも侍らせていたのか、シャツはわずかにはだけて、無駄なく引き締まった身体がちらりとのぞいている。


(我が主人ながら色っぽい。いつ見ても顔がいい。罪な男め)


 一体何人の女を泣かせてきたのだろう。聞いた話によるとまだ独身、決まった相手もいないらしい。その目に適うのは一体どんな人物なのか興味はあるが、ミアにとっては縁遠い話に違いなかった。

 ミアに気が付くと、ローラントは驚いたように目をみはり、書面を机に投げ出してから勢いよく立ち上がった。


「ミアムッ……どうして」


 やけに上ずった声でそう呟いて、青銀色の髪を掻きむしる。その不可解な反応に小首をかしげつつも、ミアは折りたたんであった主人のネクタイを手に取って近づいた。


「おはようございます、ローラントさま」

「ああ……おはよう」


 ローラントはちらりとミアを見てから、気まずそうに視線を外して返す。

 ミアはかまわず一歩踏み込んだ。


「お仕度を手伝います」

「……正直言って、今日は来ないのかと思ったが」

「どうしてですか? ネクタイを結ぶのは、今のところわたしができる唯一のご奉仕ですが」

「……奉仕、か」


 呟いてから、ローラントは口元を片手でおさえた。ミアはおぼつかない手つきでネクタイを結びはじめた。


「そう、です、よっ!」


 仕上げに締め上げれば、首が締まってローラントはむせ込んだ。


「これで、昨日の発言は忘れてあげます。変に意識もしませんから」

「……――そうか」

「あの第一声では、相手に誤解を与えますよ。相手がわたしだからまだよかったですけど、他の人に言っていたら大変なことになっていましたからね」

「……すまなかった」


 もう尻を出せだなどとぶっ飛んだことは言ってくれるなと言外に訴えると、ローラントは苦い笑みを浮かべた。


「これからは言動に気を付ける」

「そうしてください」


 ふふっと笑うミアを見て、ローラントは目を眇めた。


「昨晩は眠れたか?」

「はい。もうぐっすり」

「それは何よりだ」

「そういうローラントさまは……――一晩中お楽しみのようでしたね?」


 机の上に出ているグラスは二つ。誰かと飲んでいたのは明白である。

 悪戯めいたミアの物言いに、ローラントは完全なる無表情――いや、死んだ魚のような目をして返す。


「お前が思っているようなことは何もないが」

「別に隠さずとも……。いいおとななんですから」

「隠してなどいない。本当に。頼むから、勘違いしないでくれ」


 逃がさぬとでも言わんばかりに両肩を掴まれ、懇願するように力説されれば頷くしかない。

 その必死さは、こどもには何としても、愛欲にまみれたおとなの一面を見せないという配慮だろうか。ミアは遠い目をして息を吐いた。


「別に、わたしに気を遣ってくださらずとも結構ですよ。女のひとりやふたりを侍らせていたとしても驚きませんし。それについてわたしがあれこれ苦言を申し上げることもありません。ほら、英雄えいゆういろを好む、と申すではありませんか」


 ――目の前でいたさなければ好きにして、と言いたかった。

 逆に、下手な言い訳を延々と聞かされるほうがよっぽど苦痛である。

 ローラントは不満げに鼻を鳴らした。


「俺の従者なのだから、嫌なことは嫌だと言って良い。お前が望まぬのなら今後は誰も部屋に呼ばない」

「お好きになさってください」


 ミアは苦笑を浮かべた。

 ローラントは主人である。新米従者のミアがどうこう言う権限などないのだ。


 それにしても、一体どれほど飲んだのか部屋は酒臭かった。ミアは顔をしかめた。わずかに息を止めて部屋を横切り、窓を開けて外の空気を入れる。冷えた朝の空気は清々すがすがしい。

 町中は静かで、大通りの人影もまばらだった。

 この時間に動いているのは次の目的地へ向かう旅人や行商人らしかった。朝食の用意をしているのか、家々からは空腹を刺激するような香りが漂ってきて、ミアの腹の音が鳴った。


(うう、恥ずかしい)


 いたたまれなくなり、消え入りそうな声でミアは訊ねた。


「……ところで、これからのご予定は」

「ああ。準備をしてから辺境伯の城へ向かう。何事もなければ大体一日くらいで到着するが、お前の尻はまだ万全ではないだろうし――」

「……はい」


 いまだに尻の心配をしてくれている。どう反応したらいいものかとミアは唸った。それだけミアをおもんばかってくれているのだし、よく見てくれているのだから、ありがたいことではある。その一方で過保護にも思えるが。


「途中魔物や賊が出現すれば、辺境騎士団として行動するし、そうなればもっとかかる」


 途中集落はあるだろうが、騎士団が無償で世話になるわけにもいかないようだった。つまり、閉門までに間に合わなければ野宿である。


「そういうわけで、今から買い出しに行く。お前もついてきなさい、ミアム」

「ローラントさまが自らお買い物に?」

「そうだ」


 この騎士団長は一体なんの用があってこの町で買い物をしたいと言い出すのだろうか。自分がいかに目立つかというのをちっとも分かっていないようで、ミアは呆れてしまった。

 ローラントが出歩けば、ちょっとした騒ぎになるのは火を見るよりも明らかだ。ミジンコのようにはりついている従者ミアに注目が集まることはないだろうが、人目が多くなればどうなるか分からない。何しろミアは、逃亡者である。


「そのようなことは、クランとベルとわたしにお任せくださればよろしいのでは」


 できれば、事情を分かってくれているベルと一緒のほうがミアはありがたい。


「……そんなにベルと一緒に行きたいのか?」

「はい!」


 力強く返事をすると、ローラントの顔から表情が抜け落ちた。まさに虚無である。


「ベルには、食材の調達を頼んである」


 食材、の言葉にミアは瞳を輝かせた。

 ベルの作るごはんはおいしい。

 薬草を潰して肉を柔らかくしてから、スパイスと塩コショウを振り、鉄板で焼く。肉汁がしみ出て、じゅうじゅうと音を立てて焼ける肉の香りがまた、たまらない。材料があればタレをつくれるのですよ、と話してくれたのを思い出す。それから、山菜ときのこのチーズスープもおいしかった。保存食の焼き菓子が底をついたから補充したいとも話していた。ベルはこの後、きっとおいしいお店にいくに違いなかった。


(ああっ、ベルについていきたい……!)


 考えるとまた腹が鳴り、ミアの頬に朱が差す。


「……言っておくが、荷物持ちはクランに命じた。二人はもう市場に向かっただろう。残念だったな」

「じゃあ、わたしは何を――」


 心細くたずねると、ローラントは皮肉げに唇の端を釣り上げた。


「言っただろう。俺と買い出しにいく。不服か?」

「めっそうもありません」

「そうだよな、お前は、俺の従者だ。それは理解しているか」


 やけに強調して言われ、ミアは小首をかしげてから頷いた。


「さようですね」


 ローラントは片手で目元を抑え、ため息とつく。ミアは怪訝に思いつつもたずねた。


「ところで一体、何の買い出しですか? わたしは荷物持ちとしてお役に立てるでしょうか?」

「そうだな、まずこの町で一番うまい店で飯を食って、それから替えの服を調達する」

「一番うまい店……」


 ミアは唾を飲みこんだ。空腹でどうにかなりそうなところに、その話はずるい。

 窓からは、次々と食べ物の匂いが漂ってくる。


「この町は辺境騎士団の拠点みたいなものだからな。路地裏の露店から大通りの高級飯屋まで知り尽くしているし、馴染みの店もいくつかある。まあ、この宿の飯も悪くはないが――どうする?」


 ミアは見事につられた。

 ――その時、替えの服がなんたるかを深く考えていなかったのだ。


「せっかくだから行きましょう、うまい店!」


 今度いつ来られるか分からないのだ。その場その時の名物名産品は、食べておいて損はない。

 こぶしを突き上げて言えば、ローラントは吹きだした。


「本当に、名前の通りだな。ミアム」

「ええ、何とでも言ってくださいよ。それより早く行きましょう、ローラントさま」


 急かすようにローラントの腕を取ると、彼の目が柔らかく細まった。


「店についたら、好きなだけ食べろ」

「いいんですか……⁉」

「ああ。男に二言はない」


 ローラントはあの夜と全く同じ言葉を、随分甘い声で囁いた。

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