2


 ローラントにあてがわれたのは、宿屋で最上級の部屋だった。

 内装は豪華絢爛ごうかけんらん、一見して高価と分かる調度品の数々、天井には美しいシャンデリア。

 辺境を守護する英雄に無礼を働いてはならない――宿屋連中はそんな強迫観念でもあるのだろうか、頼んでもいないのに、小麦色の看板娘が年代物の葡萄酒ワインを持ってきた。お代はいらないと言われれば断る理由も特になく、ローラントはそれをありがたく受け取る。

 しかし娘は立ち去る気配がなかった。それどころか、滑り込むように部屋に入ると、背中で扉を閉めて誘うような笑みを浮かべる。


僭越せんえつながら、夜のお相手を務めさせていただきたく……」


 媚びるような上目遣いでささやき、娘はローラントの腕に絡みつくと、その肢体をすりよせて、胸をつうと撫でた。


「……そういうことか」


 ローラントは額をおさえ、ため息をつく。冷ややかに娘を見下ろすと、彼女は怖気づいたようだ。


「わたしでは、不満ですか? 満足いただけるように、一生懸命奉仕いたしますので」

「……結構だ。ひとりにしてくれ」


 突き放すように返せば、娘は怯んだ。与えられた屈辱に肩を震わせていたが、それ以上食い下がることはなく、八つ当たりのように扉を強く閉めて去っていく。

 恥をかかせてしまったようだ。明朝には、ローラントの悪い噂が出回っているかもしれないが仕方あるまい。


 ローラントはその恵まれた容姿のおかげで、これまで女に困ったことはなかった。

 

 たまの非番の夜、誰かのぬくもりが欲しいときにはその辺を歩くだけで女達から声をかけられたし、努力するまでもなく女を落とせるものだから、周囲からの恨み節とひがみはすさまじかった。


 ただ、玉石混交とはよく言ったもので、なかなか上玉とは出会えない。


 えり好みをしている立場ではないくせに――ローラントは自嘲する。


 辺境騎士団長とはいえ、しょせんは侯爵家の三男坊。家を継げるわけでもなく、武功を立てて生きる道を選んできた。肩書きにつられてくるような女はろくなものではないし、夜の町に生きる女達も、一夜限りと割り切っている。心の底から欲しいと思う相手には、巡り会えていない。


 看板娘が悪いわけではないのだ。

 今は女を抱いて肉欲を満たすよりも、ただ無性に飲みたい気分だった。


 グラスに赤いワインを注ぐと、芳しい香りが鼻腔に満ちた。


(これは特級品だ。それを無償で提供しようとは、相当な赤字だろうに)


 ローラントは苦笑いを浮かべつつ、さかずきをあおった。


「……ミアムも立派な男なのか」


 ローラントはだだっ広い部屋でひとりごち、うなだれた。


 あんな、天使みたいなをしておきながら、年上の綺麗なおねえさんを指定するとは。そこは尊敬する主人に塗ってもらって感涙するところではないのか。


(俺の何がそんなに嫌だったんだ……)


 激しい拒絶の言葉を思い出すと、ローラントは途端に気分が沈み込んだ。

 男同士のほうが安心して傷を見せられるだろうと、気を利かせたつもりである。それを、寝言は寝て言えだと。いきなり尻を出せはまずかったのか。


 ため息がもれる。


 新米従者の言動に振り回され、一喜一憂している。それがあまりにもおかしくて、ローラントはつい苦笑いした。


 一番に頼って欲しかった。


 尻が痛いというのも、できればミアムの方から打ち明けて欲しかった。


(追っ手を振り切りたいという思いが強くて、言い出せなかったのだろうか)


 乗馬初心者は大体、乗り方が悪くて尻を痛める。ローラントもかつてはそうだったからよく分かる。本当は早くに診て手当てしてやりたかったが、皆がいる前では気が引けて、結局今日まできてしまった。


 今頃は、ベルにやさしく薬を塗ってもらっているのだろうか。ベルは世話好きでやさしいから、ミアムのおねがいなら二つ返事で承諾するに違いない。


「似ているからといって、馬鹿なことを……」


 はじめてあの少年を見たときから、ミア・セレナードの面影を感じている。


(ミア・セレナード。俺を眠らせた――ずっと得られなかったものをいともたやすく与えた美しいナイチンゲール)


 一刻も早く彼女を見つけ出して、責任を――いや、指輪を返してもらわねば。


 彼女は今、一体どこにいるのだろう。部下を使って探らせているが、いまだその影を捉えられずにいる。

 町中で聞き込みをしてもろくな情報は得られなかった。教会にいるとか、夜の森にいるとか。


 結局そのどちらにもミアはおらず、その足跡をたどっていたところに現れたのがミアムだった。


 短くとも艶のある亜麻色あまいろの髪に、瑞々みずみずしいみどり色の瞳。


 恥じらうように目を伏せた時に垣間見える、長い睫毛まつげ。声変わりのしていない、透き通ったソプラノ。

 ローラントを見上げるまなざしは澄んでいて、ネクタイを結ぶのに散々てこずってから成功すると、はにかむように笑うのだ。

 楽しみにしていたベルの菓子、その最後のひとつをローラントが食べたと知るやねてしまうのもまた可愛らしい。

 何かあるたびに小首をかしげる仕草、その素直な挙動を眺めているだけでローラントはむずむずとするし、頭をくしゃくしゃに撫でまわしたくなるのだ。


 こんなにかわいい少年が身近にいたら、金を積んででも手に入れたくなる変態野郎がいてもなんら不思議ではなかった。


 おとなの男になるまで側においてでたい――貴族や豪商の中にはそういう趣味のものが少なからず存在するのを、ローラントは知っている。金にものを言わせて幼い少年を囲う彼らをローラントは侮蔑していたが、この数日間ミアムを側に置いて少しだけ考えをあらためる。


 ――ミアム、何故あんなに可愛いのだろう。隙あらばかまい倒したくなる。


 ミアムを馬に乗せている間、ローラントは気がおかしくなりそうだった。


 あの新米従者は男とは思えないほど華奢でやわらかく、抱き上げると羽のように軽い。

 無防備にさらされる白い首筋や、見え隠れする鎖骨。馬の動きに合わせて上下する細い腰を、いけないと思いつつも目で追っていた。


 そしてあろうことか、想像してしまう。


 ――ベッドの中でき、乱れるミアムを。


 白昼夢でも見ているかのように何度も、何度も。 


 そのたびに己を律するように唇を噛んで正気を保とうとしたが、邪念は相変わらず、ローラントの脳内にはびこっていた。


 庇護下に置いたこどもに対してそんな淫らなことを考える自分に嫌悪感がこみあげてくるし、ミアムから、くもりなきまなこで見つめられると罪悪感がじわじわと精神を侵食した。

 一時の気の迷いだとしても湧きあがる想いは薄汚れていて、自分でも気持ちが悪くて仕方ない。

 それは、まだあどけなさを残した少年に対して向けてはならない想いだ。


 ミアムが近くにいるからいけない妄想をしてしまう、だから視界に入れなければいい――そう単純な話でもなかった。

 

 そこにいなくても頭にふと浮かんだし、むしろ、その姿が消えると思うと、いてもたってもいられなくなり、つい追いかけてしまっていた。


 おかげで、ミアムからはすっかりうっとうしがられてしまっている。


 あの少年を前にすると、心がどうしようもなくかき乱される。理性のタガが外れて、ガキみたいに馬鹿な言動を繰り返してしまう。


 いずれ、そのときがくれば手放す少年を、自分だけのもののように錯覚して、クランやベルに流れていきそうになるのを必死で押しとどめている。

 副官二人は気の置けないものだから、安心して任せたっていいのにそうしたくない。

 異常な執着心にローラント自身、驚いていた。


 剣さえまともに振れないミアムを、四六時中側に置くのは無理である。魔物退治の任務のほかに、有事の際は戦場へと赴くのだから。安全な場所まで連れて行き、そこで静かに穏やかに暮らすのが一番いい。


 そう分かっているのだが――。


(……本当に、どうかしている)


 ローラントは再びグラスをあおった。

 ナイチンゲールに人生の契約を結ばせようとしているローラントが、それとよく似た少年に対してあらぬ感情を抱いている。

 この汚い欲求と、よこしまな想いが消えないのであれば、せめて隠し通すしかない。


 変態野郎の魔の手から救ったはずが、こともあろうか庇護者ローラントが少年愛に目覚め、その欲望を満たすためにかの従者を側に置いているとなれば、周囲から冷たい目を向けられるのは確かである。


 グラスを傾け、最後の一口を流し込んだところでローラントはふらりと立ち上がった。アルコールが身体をめぐり、頬が熱い。


「明日の行程を決めていなかったな……」

 

 辺境騎士団としての職務――魔物退治、国境の警備、侵入者への対応など――その成果を、定期的に辺境伯に報告せねばならない。

 その居城まで、ここからおよそ一日はかかる。

 尻が痛いらしいミアムを連れていくのを考えれば、ゆっくり馬を走らせることになるだろうし、もっとかかるかもしれない。

 それなりに準備が必要だ。


 髪を掻きあげ、おぼつかない足どりでクランの部屋まで行くと、ノックをしてから返事も待たずに踏み込んだ。

 片眼鏡モノクルをかけて書面とにらめっこしていた副官は、突然の来訪者に片眉をあげる。


「おっと、団長。飲んでますね」

「そうだ。悪いか」


 クランは片眼鏡をはずし、書面を机に投げ出してから酔っ払いをソファーに座らせると、自身は固い椅子に腰かけた。


「内緒で飲むなんてずるいですね。おれにも分けてくださいよ」

「ああ。飲ませてやるからこっちの部屋にこい」

「いいんですか? まさか事後じゃないですよね。そうだとしたらちょっと――」

「違う」

「本当ですか? さっき、部屋から娘さんが出てきた気がしたけどな……」


 この副官は本当によく見ている。飄々ひょうひょうとしているくせに、仕事ができるのだ。


「とにかく付き合ってくれ」

「はいはい、団長閣下。ご命令のままに」


 クランは肩をすくめ、ローラントに続いて部屋に入った。扉を閉めると部屋の格差に口笛を吹き、高級葡萄酒を見つけるなり大喜びする。


「これ、なかなか手に入らないって噂のやつ!」

「まあ、とりあえず飲め」


 新しいグラスを備え付けの棚から出し、なみなみと葡萄酒を注ぐと遠慮なくソファーでくつろぐクランへ渡した。それをうまそうに飲む部下を見ながら、ローラントは口を開いた。


「なあ、クラン。お前男もいけるクチか?」


 クランは口に含んでいた葡萄酒を吹き出した。


「いきなり何言い出すんですか⁉ 冗談にしたってタチが悪い。あんたみたいな筋肉馬鹿は相手にできませんよ! たとえ命令でも無理ですからね⁉」


 必死に拒絶され、ローラントは苦笑いした。


「俺だってお前には微塵みじんも欲情しないから安心しろ」


 クランは鼻を鳴らした。


「それじゃあ、一体何故そんなご質問を?」

「人生の先輩として、そういう経験があるのではと思ってな……」

「いやいや、先輩ってそんな。三つしか違わないし。おれなんて、たった二十七年生きただけの若造ですからね。男をそういう目で見たことがあるかってきかれたら、ないとしか……」

「そうか。まあ、かく言う俺もそうだな。これまで、自分のそういう対象は女だと信じて疑っていなかった」


 騎士団にミアムと同じ年頃の見習い少年が来ることはこれまで何度もあったが、その時には何も感じなかった。

 だからこれはきっと、一時の気の迷い。ナイチンゲールの行方が分からず、ちょうど手の届くところによく似たミアムがいるから、その面影を重ねて見ているにすぎないのではないか――。

 そうやって自分を納得させようとしているが、心にくすぶるこの熱を、ローラントはどう処理して良いか分からない。


「……えっと、おれは今もしかしなくても、酔った団長の性癖暴露大会に付き合わされようとしていますね? 酔うとたまに厄介ですよね、あんた」

「そう。お前は暴露しなくていいぞ。いち友人として、俺の気の迷いとたわごとを聞いてくれ」


 クランは固唾をのんで返す。


「もしかして――気になる野郎でもいるんですか?」


 ローラントは手持無沙汰にグラスを回した。


「……俺は、最低の男だ」

「そんなやぶからぼうに。一体何があってそう思ったのか聞いても?」

「だってそうだろう。ナイチンゲールを探しておきながら、ミアムのことが……」


 ローラントはそこで口を噤んだ。

 ――ミアムのことが気になっている。

 一度でも口に出して認めてしまえば、雪だるま方式に思いは膨れ上がっていくだろう。

 はちきれんばかりに思慕が肥大したその時は、心の内に秘めるだけではすまされないだろう。せっかく変態野郎から逃げおおせたミアムを泣かせたり、怖がらせたりすることだけはしたくない。

 ローラントに助けてもらった手前、告白されれば嫌とも言いにくいだろうし。無理矢理頷かせたいわけではなかった。

 クランは後ろ頭を掻いて、苦笑を浮かべる。


「……あー、ミアム。薄々そんな気はしていました。まあ、男とは思えないほど可愛いですからね、あの子。金持ちのオジサンにモテそうだし、あんたが好きになっても驚きませんよ」


 そんなに分かりやすかったのだろうか。

 せめて、薄汚れた渇望がだだ漏れにならないようにと表情を引き締めていたが、かわいいミアムの前に出ると途端に脳が溶けるのだから、それも無意味な努力だったのかもしれない。


「……軽蔑しただろう」

「軽蔑はしませんけど、いばらの道を突っ切ろうとしてんなあと……」

「……正直言って、この気持ちは間違っている」

「あっ、間違っている自覚はあるんですね。良かった。直接手出しはしなさそうで」


 手出しはしていないが、尻を出せと言った――そこまで出かかった言葉を飲み込んで、ローラントはうつむいた。


「だってそうだろう。相手はまだこどもだぞ。それを俺は……お前に頭でもぶん殴ってもらって、きれいさっぱりなかったことにしたいくらいだ」

「出会って数日で落ちるくらいなんで、なかったことにしたところで、という気はしますけど。ミアムが色んなことに耐えかねて蒸発したりしない限り、今後も行動をともにするんですから」


 肩をすくめるクランを見つつ、ローラントはグラスを傾けた。


「どうしたらいい。こんな気持ちでナイチンゲールに責任を取らせようとするなど、不誠実はなはだしいだろう」


 クランはもう一口葡萄酒を飲んでからぽつりとこぼす。


「不誠実、なんですかねえ。現状、団長が勝手に結婚を迫ろうとしているだけだし。というか、嫌だと言われればそれまででしょう。ナイチンゲールも、ミアムも」


 クランは存外割り切った性格をしている。絡まった思考を整理したいときに話すと、大変すっきりするのだ。

 唸るローラントにクランは続けた。


「手に入るかどうかわかる前から不誠実だというのは、おれにはよく分かりません。まあ、二兎を追う者は一兎をも得ずって言葉もあるから、どっちかに決めた方がいいんでしょうけど。手軽なアム坊か、いつ出会えるとも限らないナイチンゲールか。どっちも掴もうとせず、どっちか手放したっていいと思えば気が楽になるかと」

「……周囲への影響を考えれば、ナイチンゲール一択だろうが」

「そんな、苦しそうな顔で言われてもねえ……」


 クランは苦笑を浮かべた。

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