第2章 ナイチンゲールと騎士団長の憂鬱
1
「これは由々しき事態だ」
聖歌機関の最高指導者、ブラムスがその立派な髭を撫でつけながら重苦しく吐き出すと、壇上にひとり立たされた辺境の神官――クズィーの顔から媚びた笑みがすっかり消えた。
広々とした聖堂内では、聖歌機関の幹部たちが傍聴席でことの成り行きを見守っている。
窓から見える空には暗雲が立ち込め、獰猛なけものが喉を鳴らすかのような雷の音が響いている。
嵐になりそうだった。
「十二番目の座にあった
「歌い手が消えたですと?」
「一体何故?」
その場がざわめき、クズィーは首をすくめた。
他の神官では有り余るほどの祭服が、彼のでっぷりとした体格ではパツパツで、その巨体が小刻みに震えるたびにたゆんと肉が揺れ動いた。あまりの醜さにその場の誰もが顔をしかめ、非難の眼差しを向けている。
ブラムスは厳しい表情でクズィーを見下ろした。
「その理由を、守護者たるそなたは把握しておらねばならぬが、いかがか」
「……それは」
男爵にミア・セレナードを引き渡そうとしたとは口が裂けても言えなかった。
「答えられぬ、と。事の重大さを理解できぬか。まこと、守護者失格よ。歌い手は我が国の至宝と心得ておらなんだか!」
吐き捨てるような言葉にクズィーはうなだれる。追い打ちをかけるようにブラムスは言った。
「その職務を怠ったそなたには、相応の沙汰をくださねばならぬ。まずもって神官の資格剥奪は免れぬと思え」
「そんな……!」
聖歌機関から呼び出されたのは、ついに昇格の話が持ち上がったからだろうと勝手に期待していただけに、予期せぬ言葉の数々は神官を打ちのめした。
教会の上層部ともなれば、その権威を振りかざして甘い蜜を吸い放題、主君たる大公家ですら顎で使えるようになるときく。それなのに――。
塩をまいたナメクジのように小さくなっていくクズィーをブラムスは冷ややかに見下ろした。
「ただ、その前に最後のチャンスをやろう。取り返しのつかぬ事態を引き起こす前に、なんとしてもナイチンゲールを連れ戻せ。そのあかつきには、そなたの処分について一考しても良い」
「かしこまりました……」
クズィーは怒りで顔をどす黒くし、とげとげしく返した。
勝手に逃げ出したのはミアのほうだ。
男爵の屋敷でうつくしくさえずるのを拒んだ
役立たずの歌い手のままでは肩身が狭かろうと、せっかく居場所を用意してやったというのに何が不満なのだか。おかげでとばっちりをうけ、聖歌機関の尋問を受ける羽目になっている。
――ミア・セレナードめ。捕まえたらただではおかない!
怒りに染まるクズィーの顔はつぶれたカエルのように醜く、それを見た聖歌機関員は慄いた。
清廉でうつくしい聖歌の歌い手を、この醜悪なカエルが食い荒らしていたのかもしれないと思うと、彼を守護者に選んだ機関は見る目が全くなかったということになる。
――いや、実際、見る目がなかったのだ。
ゆえに今、ピアニッサは得がたい至宝のひとつを喪おうとしている。
聖歌機関の審問を終えて聖堂を出ると、ぽつりと雨粒が地面に落ちた。それからあれよという間に土砂降りになる。雷鳴がとどろき、辺りはうす暗い。
クズィーはむしゃくしゃとして、濡れる大理石の柱を思いきり蹴り飛ばした。それから聖堂の裏に回ってあたりを見回すと、壁沿いでぼろ布に包まりうずくまっている男の肩を叩く。
そこは屋根下ではあるものの、横殴りの雨で男の体はすっかり濡れている。
肌は泥で汚れ、頭髪は伸び放題、無精ひげはだらしない。
その男は聖歌機関や教会の恥部をひそかに担うものだった。
時に掟を破った機関員や教会関係者を消し、時に駆け落ちして逃げた歌い手を連れ戻す――そういう男だ。
クズィーは彼に金を握らせると、短く頼んだ。
「ジャガ男爵より先にミア・セレナードを見つけだして、連れてこい」
男爵は、容易く手に入らなかったミアにすっかりご執心だ。
簡単に落ちない獲物ほど魅力的にうつるのだろう。聞いたところによれば、男爵は追っ手の数を倍に増やしたようだ。何としても手に入れようと鼻息荒くしているらしい。
クズィーはわなわなと震えた。
「不良品の分際で、このわしに恥をかかせてくれたこと、後悔させてやる」
受け取った金をポケットに突っ込んでゆらりと立ち上がると、男は何も言わずに踵を返し、豪雨の中に消えていった。
◇
ミアがローラントの従者として仕えてから、五日。
森を抜け、春を迎えたばかりの山を越え、夕陽に染まるフォルデ辺境に辿り着いた。
ここまでの道中、幸いなことに追っ手の気配はなかったが幾度か魔物と遭遇し、それら全てはローラントの手によって何の苦もなく倒された。
彼最大の武器である氷槍を繰り出さずとも、折れた槍やその辺の木の棒を削って作った武器で魔物を貫くのだからつくづく破格である。ローラントはその代名詞たる氷槍を出すまでもなく強いのだとミアは嫌というほど思い知らされた。
聖歌を使わずとも魔物を撃退できるのだから、確かに歌い手は必要ない。
――分かっていたことだがいざそれを目の当たりにすると、ミアは落ち込まずにはいられなかった。
(結局、氷槍のアレニウスさえいれば、何の問題もない)
いてもいなくても同じ――考えないようにしていたことが浮かんできて、苦しくなる。
(はやく自立したい……)
今は何をせずとも当たり前のように守ってもらえ、怪我はないかと気遣ってくれる。
たとえそれが可哀想な少年に対する心遣いだとしても、これまでそんな扱いを受けたことのなかったミアには新鮮で、ローラントやその副官達の一挙手一投足が、ミアの心を浮き立たせた。一方で、劣等感が刺激され、いたたまれなくなるのだ。
(――やさしくしてくれるのは、今だけよね)
ローラント達はミアに同情しているにすぎない。そうでなければ、特技は音楽などとのたまった野良少年を側に置こうなどとは思わないだろう。
今ミアにできることは、毎朝ローラントのネクタイを結ぶことだけだ。それもまだ下手で、ローラントの首を絞めすぎては不器用にもほどがあると苦笑されている。
失敗が許されるのは最初だけ。きっと時間が経つにつれ、疎ましがられるに決まっているのだ。そのうち冷えた眼差しでミアを抉る――そう思うと、胸がちくりと痛む。
空いた時間にローラントから指南を受けているが、ある程度教えを授けて強くならなければ、ローラント達はどう思うだろう。神官のように、役立たずだと指さすのだろうか。
(もう後戻りできないのだもの。強くなるしかないの、ミア)
――ただ、彼の教え方は壊滅的に下手だった。
自分ができるのだから相手も努力すればできるはずだと思っている節があり、初日から剣を寄越して「とりあえず、かかってこい」と言うのだからどうかしている。
普段一人で夜の森に赴いていたこともあり、それなりに足腰に自信のあるミアだったが、最強を冠する男の前では全てが無意味だった。「下半身と体幹が弱すぎるから鍛えるように」と言われる始末である。
ため息をつくミアをちらりと見て、ベルが口を開いた。
「今日中には町に入れそうですね」
「ああ。何事もなければな」
「滅多なこと言わないでくださいよ、団長。そういうこと言ってると絶対何かあるんですから」
げんなりとするクランを横目に、ミアは辺りを見回した。
街道沿いに並んだ木々にはやわらかな芽が出て、溶けた雪でわずかに
見たことのない景色のはずだが、ミアは不思議と懐かしいような気分になった。
(わたし、とうとうピアニッサから出たんだ)
目の前には青々とした草原が広がっている。
広々とした野原で風にそよぐ草木は、眺めているだけでも心穏やかになれる。視界は開けて、遠くに小さく町が見えた。そこが、国境から一番近い町らしかった。
(……知らない町、か)
ミアは今しがた下ってきた山道を振り返った。残雪残る山々はなんともうつくしい。あそこを越えて、堂々と異国の地を踏んでいる、その誇らしさと言ったらなかった。辺境に住んでいながらその一線を越えようとも思わなかったし、見えざる壁を感じて気後れしていたのが嘘のようだ。
後ろで手綱を握るローラントが穏やかに言った
「案ずるな、今のところ追っ手の気配はないようだぞ」
ミアは、その無駄に色気のある声音に肩を震わせた。そこで体勢を崩し、あわや落馬しかかる新米従者を、相乗りしていたローラントは背後から片腕で支えた。
「申し訳ありません、ローラントさま……」
「いや。気にするな。今日はろくに休憩もしなかったから、疲れただろう」
ローラントは咳払いをして、ミアを支える腕に力を込めた。逞しい身体がぴたりとくっついて、ミアは心臓が口から飛び出そうになった。
「もっとしっかり支えてやればよかったな」
(近い近い近い近い!)
ろくに隠せていない胸のふくらみに手が触れてしまいそうでひやひやする。何より、大切なものを抱えているかのような抱きっぷりにミアの顔は火照った。
それを見ていたクランは呆れた。
「団長、それ以上力を込めて支えたら、多分アム坊の内臓が潰れちまうかと」
「……こどもはそんなに脆いのか?」
「おっと、散々鉄や鋼の武器ぶっ壊しまくってるから感覚が麻痺してますね。脆いです。こどもじゃなくても、あんたの前ではみんな脆くなっちまうんですよ」
「そうか。気を付ける」
是非そうしてください、とミア以下二人は大きく頷く。ベルが励ますように言った。
「疲れが出てきて当然です、ミアム。あともう少し、頑張りましょう!」
「そうだ、閉門までに町に入れば、ベッドで休めるからな、アム坊」
「本当ですか?」
ミアは心底ほっとした。
(わたしのお尻がこれ以上ひどいことにならずに済む!)
鍛錬と、それから乗馬のせいで、ミアは身体じゅうが痛かった。特に尻から太ももにかけての筋肉は悲鳴を上げている。更に言えば、尻のほうは皮が
尻に関しては乗馬のせいである。
ミアはこれまでの人生で、乗馬の経験がなかった。乗り降りも一人ではできないので、必ず誰かの介助が必要だ。
まともに手綱も握れない新米従者をローラントは愛馬に乗せてくれたわけだが、疾風のごときその走りに初心者のミアはついていくのもやっとである。
疾走する馬の動きに合わせて身体を上下するなどという芸当、できるはずもない。それで尻は痛くならないはずだ、とのたまったローラントは、凡人の何たるかをちっとも理解していないのだ。
だが文句など言えるはずもなし。
徒歩だと倍以上かかると聞くし、いつ追っ手が迫りくるとも限らない。ピアニッサさえ抜ければ、安易に手出しできないはずだからとミアは自分に言い聞かせて今日まで乗り切ってきた。
一日目で懲りて、もうローラントの馬には乗らないと決めたのに、二日目ベルの馬に乗せてもらおうとしたところでローラントに止められる。
理由はよく分からないが、とにかくミアは毎回ご主人様と相乗りした。
乗る時も降りる時も、逞しい腕に軽々と抱き上げられて、その麗しい顔が接近するたびにミアは赤面したし、片手で身体を支えられるたびに鼓動が跳ね上がったが、ローラントのほうは全く表情を変えないどころか、鉄仮面を付けているかのごとく無であった。
本来身の回りをさせるべき従者を、主人みずからが世話しているのだから、虚無にもなるだろう。ミアひとりが目を白黒させているのは、さぞや滑稽だったろう。
宿なら今の寝具よりはましだろうし、フォルデの英傑が泊まるとなれば、宿屋だって特別いい部屋を用意するに決まっている。きっとローラントに宛がわれる部屋はきちんと間仕切りされていて、たとえ従者であっても個人の空間を確保できるに違いないのだ。それから、きっとふかふかのベッドがミアを迎えてくれる。
「ふふふっ」
楽しみのあまり笑うミアを見て、並走していたクランが苦笑を浮かべた。
「そんなに嬉しいのか、アム坊」
「そりゃあ嬉しいですよ!」
正直言って、野宿は色々と都合が悪かったのだ。
皆の前では着替えもできないのはもちろん、傷の確認もできない。正体がばれないようにと気を張っているのも疲れる。
何より、ローラントが全く寝ないのがミアを悩ませた。
下手に天幕を抜け出してあれこれしようものなら、すぐに追いかけてくるから困りものだ。彼からすれば、こども一人を放っておくなど言語道断なのだろうが。
閉門間際に町に滑り込み、無事に今夜の宿が決まった。幸いなことに部屋も空いており、贅沢なことにひとり一部屋使っていいとの申し出まであった。
――そこまでは良かったのだ。
やっと一人の時間が持てたことに大喜びして、身体を綺麗に拭って、打ち身と傷だらけになってしまった肌を見て落ち込んでいたところにドアノックの音が響いた。
「どうぞ」
言いつつ、ミアは慌てて服をかぶり、胸に板を入れた。
そこに現れたのは軟膏薬を手にしたローラントである。
「ローラントさま。あ、お薬をお塗りすればよろしいですか? 一体どちらに……」
首をかしげてたずねると、ローラントはかぶりを振った。
「尻を出せ、ミアム」
――ローラントの第一声がそれだった。
「…………寝言は寝て言ってくださいね」
そのまま扉を閉めようとすると、尋常ならざる馬鹿力で阻止される。古びた扉が軋んだところでミアは降参した。
「……いや、尻が痛いのは分かっているぞ。見せてみろ。薬を塗ってやる」
「いやです、絶対に嫌」
「恥ずかしがることはない。男同士だろう」
――男同士ではない。
言いたいのをこらえて、ミアは頑として首を縦にふらなかった。
「どうせ薬を塗ってもらうなら、ベルにお願いしますから! ローラントさまのお手を煩わせるなんていけませんし! きれいなお姉さんに塗ってもらうほうがわたしも嬉しいんです!」
「…………」
叫ぶと、ローラントは目に見えて動揺し、しばし考え込んだ後、「そういう趣味か……」と呟いて出ていった。
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