5
その日、ミアはまんじりともせず夜を明かした。
固い寝具の上でごろごろと寝返りをうってみては、隣に横たわる男の背中を見てそっと息を吐く。ミアが眠れないでいるように、彼もおそらく寝ていない。絶対に眠らないと豪語しただけあって、ミアの聖歌を聞かないかぎりは不眠らしかった。
従者になるか否か決まっていないのだが、結局ミアはローラントと同じ
ローラントは、咄嗟の答えも出せないミアを放り出すことはしなかった。
まだその辺に追っ手がいるかもしれない、我々といれば安全だからと、ローラントの言動に気が動転しているミアをその辺に張った
腹ぺこのミアはそこでも生理現象を我慢できず、盛大な腹の音を鳴らすことになる。恥ずかしくていたたまれないミアを気遣ったベルが、フルーツピールを散りばめた焼き菓子を切り分けてくれ、その上温かいスープをごちそうしてくれたのが寝る前のこと。
本当はこども――ローラント達はミアを十三、四才の男の子だと思っているようだ――を野宿させたくないとも言った。人目につきやすい町中に戻りたくなかったミアは内心ほっとしたが、同時に頭を抱えたくなるような事態でもあった。
服が泥だらけでも皆の目がある前では着替えもできない。胸のふくらみを隠すためのサラシも巻けないのだ。汚れた服は脱ぐようにベルから迫られたが、その場で脱ぐわけにもいかず言い訳に苦心する。「見られるのが恥ずかしいです」と、こどものように駄々をこねてみれば、急ごしらえの衝立を用意してもらってそこでどうにか着替えた。
男二人の服は明らかにサイズ違いで「私のでよろしければ、どうぞ」とベルが服を貸してくれる。この先何があるか分からないから、と皮の胸当てまで渡してくれるのだから本当にやさしい。ただし、胸が無防備なのは変わらない。どこかでサラシでも巻きたいところだが、はたして。
ミアはため息をついた。
――ローラントはミアに責任を取らせようとしている。
そのことが、ぐるぐると頭をめぐっていた。
(……一体何をされてしまうのかしら)
言葉の意味を深く考えようとするとひるんでしまい、喉に膜が張ったようで結局何も言えなかった。自分がそのミアだと申し出たら、ただで済むわけがない。
最強の名を冠した氷槍のアレニウスが、非力な女に眠らされたことがよほどお気に召さなかったのか?
屈辱を与えた女が許せず、責任を取らせようと?
ミアはひやりとした。服の下に隠している指輪を握りしめると、ミアに背を向けたままのローラントの広い背中をじっと見つめる。
氷槍のアレニウスが敵に対して容赦しないのは有名な話だ。
味方であれば頼もしいことこの上ないが、敵意をむけられたらと思うと心底おそろしい。
なんでも、ベルに聞いたところによれば鉄や鋼の武器をたやすく粉砕するほどの怪力らしい。ミアをひねり潰すなど容易くやってのけるに違いなかった。
ミアはどんな責任を取らされるのだろう。報復を受ける日はそう遠くないうちにやってくるはずで、気が重くなる。
(……痛いのは、いやだなあ)
昨日までは毎日心が痛かった。
どんなに頑張っても報われないどころか、役立たずだと罵倒されたことすらある。
それに耐えて、耐えて、耐え続けたが、男爵との話が出てきたところで限界を迎えた。心にできた小さな傷はいつの間にか醜く膿んでいて、ミア自身ではどうにもできないところまできていたのだ。
ピアニッサにはやさしい人もいた。大事な友人も。それでも、どうにかして逃げたかった。
やっとここまできたのだ、もうあの場所には戻りたくない。
寝不足で重だるい身体を起こすと、ローラントとぱっちり目が合った。何を言われるかと身構えたが、彼は暗がりの中でただじっとミアを見つめている。
ほの暗い空間に浮かぶ氷の目は、ミアのすべてを見透かすようで恐ろしい。
いたたまれなくなって、外套をひっ掴んで逃げるように天幕の外へ出ると、ミアはうんと伸びをした。
空は白み、森からは鳥が飛んでいく。冷たく澄んだ朝の空気がこわばった身に染みて、心地よい。
隙を見て逃げるべきだろうか。
だが男爵の追っ手はどうする。
ミアを捕まえられなかったと男爵が知れば、金にものを言わせて追っ手の数を増やすのではないか。そうなったら、いよいよ男爵の手に落ちるのだろう。
ミアはため息をついた。
幸い、ローラントはミアに気付いていない。好色家に狙われているいたいけな少年だと思っている。だからこそ、驚くほどやさしく接してくれているに違いないのだ。
男爵の愛人になって皆の同情を受けながらみじめに暮らすよりは、男としてローラントの側でやり過ごし、いつの日かひとり立ちする方がずっといいに決まっている。
少なくとも、ミアの正体がばれたりしない限りはローラント達と行動している方が安全で、尊厳は保たれる。
ミア・セレナードだとばれなければいいのだ。変態どもの慰みものにされそうになった哀れな少年――そう演じ続ければ。
(そうよ、正体を隠し通せばいい)
そして頃合いを見てローラント達と別れる。
ほんのわずかな間相席しただけの相手、その記憶が薄れていくのも時間の問題だろうし。
「よしっ……!」
心を決めてこぶしを天につきあげたその時、背後から肩を叩かれミアは飛び上がった。
「おはよう」
振り返るとそこにはローラントが立っている。
寝具に横になった時のまま、上は引き締まった身体のラインが浮かぶほどぴったりとした黒いシャツと、下は軍服をはいている。その体はつい触ってみたくなるほど鍛えられていて、ミアはどぎまぎした。
(目の保養だけど、目のやり場に困るのよね……)
まじまじと見るわけにもいかず、ミアは伏し目がちに答えた。
「……お、おはようございます」
「あまりうろちょろ動くなよ。辺境騎士団の天幕を見て近づく馬鹿は皆無だろうが、昨日のやつらがまだこの辺にいるとも限らない」
「……すみません」
ミアがげんなりと返せば、ローラントはくつくつと笑い、ミアの頭をくしゃりと撫でた。
「眠れなかったのか? 夜の森に逃げ込むほどの勇敢さがあるかと思えば、存外、繊細だな」
ミアはこども扱いに苦笑を浮かべる。
「眠れるものならそうしたかったのですが。いつ襲われるかと思うと寝付けなくて」
嘘は言っていない。ローラントは腕組をして、乱れた髪を手ぐしで直すミアをじっと見つめた。
「我々が側にいるのだから、気にせず眠ればよかったものを」
獅子の隣で眠る小鹿を見たことがあるのか、と声を大にして叫びたかったがミアは我慢した。ほんの少しの隙でも見せたら、正体がばれたら――そう考えて眠れずにいたミアの気持ちなどローラントには分かるまい。
第一、眠っていなかったのはそちらも同じではないか――思ってから、彼らはミアを保護した時点で誰かしら寝ずの番をしなければならなかったのだと気づく。
そういう点では、眠らない騎士というのは周囲にとって都合がいい。
ミアは手汗と一緒にこぶしを握りしめた。
「……実は、昨夜お申し出いただいたことを、ずっと考えていたのです。あなたに、仕えるかどうするか」
「なるほど。それで?」
決めたことを口にするのはやけに緊張する。ミアは何度も唇をなめ、小さく
「その……わたしのような、どこの誰とも知れないものをそばに置いたら、心配ではないですか?」
「……心配?」
ローラントは目を細めた。まとう空気が途端に冷ややかになって、ミアの心臓は勢いよく脈うちだす。
「……だって、わたしはあなたにとって、都合の悪い人間かもしれないし。教えを受けて、いずれあなたに刃を向けるかも――」
「それはなんだ。お前がこの私の寝首をかくかもしれない、それが心配ではないのか――とでも言いたいのか?」
ミアはローラントの圧を前にして、血の気が引くのを感じていた。
そこまでは言っていないが同じようなものである。
ローラントはミア・セレナードを敵視しているのだ。いつかミアの正体に気付いた時に、彼の敵意が向けられれば、ミアは場所や時間を選ばずに彼を眠らせる。そうしなければ、
――どう考えても都合が悪い人間ではないか?
ミアは息をつめたまま、ローラントの顔を見上げた。その表情は何とも読めない、無である。気を悪くさせたのかと思うとミアの肝は冷えた。
「もしそうなった時は、私の見る目がなかったまでのこと。第一、その細い腕で一体何ができるという? 襲い掛かってきた次の瞬間には、お前は私に組みしかれているだろうさ」
「おっしゃる通りかと」
武器をことごとく粉砕してしまうような超人と真正面から争って勝てるわけがない。ものすごく馬鹿な質問をしてしまった恥ずかしさと、自責の念で首をすくませたミアの頭に、ローラントの大きな手が乗せられる。
「スカウトした手前、そんな無謀なことを考えるようなやつではないことを願うばかりだが――っと、肝心の答えを聞いていないな。……さて、どうする?」
ミアは覚悟を決めて答えた。
「――当分の間、どうかお供させてください」
そう言ってローラントにずいと近づくと、彼は口元を片手で隠してミアから顔を背けた。耳の裏がわずかばかり赤い気がする。
(どういう反応なのよ、それ)
ミアは複雑な気持ちになった。
ローラントは咳払いをひとつして、きりっとした表情で返す。
「よろしい。使い物になるよう、手取り足取り教えてやろう」
「あっ、ありがとうございます!」
ローラントの肩の力が抜けた。
緊張していたのは間違いなくミアのほうなのに、ローラントのほうが余程ほっとしているようにも思えておかしかった。
哀れなこどもを放り出さずに済んで安心したのだろうか。冷酷無慈悲と恐れられているあの氷槍のアレニウスが。
ミアはそんな彼のやさしさを想像し、くすくすと笑った。
ローラントは笑うミアをしばらく見つめたあと、ところで、と切り出した。
「今更だが互いに名前すら名乗っていなかったな。私はローラント。ローラント・アレニウスだ。お前は?」
「わたしはミア――……」
言いかけたところでミアは固まる。ローラントの視線が痛い。
ミアから繋がるような男の名前が、何も浮かばなかった。そんなしゃれた名前、あっただろうか。男の知り合いはオヤジ連中しかおらず、咄嗟の言葉が出てこない。
ローラントは表情を消して、探るような目を向けてくる。
(どうしよう、どうしよう。怪しまれている……)
「ミ、ミアムです! そう、ミアム!」
「ミアム? それが名前か?」
ローラントはくっと笑った。ミアはもうどうにでもなれ、とやけくそになって頷いた。
「はい、これが名前です。おかしいですか?」
「いや、すまない。良い名だ。ミアム――か。フォルデの言葉でうまい、食いしん坊、という意味があるな。お前にぴったりだ」
「あはははは……そうでしょう?」
笑った理由はそれかとミアは納得する。
天幕の中で、もらったスープと焼き菓子を夢中で頬張っていたから、食いしん坊だと思われても仕方ない。
「本当に、うまそうだ」
風が吹いて、ローラントの青銀の髪が揺れる。氷のように青い目が含みを持たせるように細められた。その視線はやけに熱をおびていて、ミアは落ち着かない気持ちになる。
「そうだ。わたし、
呼び方に困ってそう言えば、ローラントはしかめっ面で答えた。
「お前は俺を団長と呼ぶ必要はない。専属の従者だからな。ローラント、と呼べ」
「……はい。ローラントさま」
言われるがままにそう呼べば、ローラントの口元が緩んだ。
「これから身の回りの世話は全てお前に任せる。薪を集める前に着替えを手伝え、ミアム」
「……えっ?」
ミアは戸惑い、目をしばたいた。ローラントは呆れたようにため息をつき、髪をかき上げその端正な顔をあらわにした。
「何を不思議がることがある。これから毎日、お前が俺の支度を手伝うようになるのだ。今覚えておかずにいつ覚える?」
「わたしが、ですか?」
「当然だろう、期限付きとはいえ従者になったのだから。従者は主人の補佐をする。そして俺の望みはできうるかぎり叶えねばならない。主従とはそういうものだ」
「……そうなのですか?」
訝しむミアにローラントは苦笑する。
「とにかく、お前の最初の仕事は俺のネクタイを結ぶことだ。ミアム」
「はい」
ミアは
ローラントの後に続いて天幕に戻ると、副官二人は既に着替え終わっている。クランはあくびを噛み殺して「薪を拾ってきます」と言って出て行き、ベルはローラントに一礼した後、ミアを見てやさしく微笑んだ。
ミアは渡されたネクタイを見下ろして途方にくれた。シャツを羽織ったローラントが質問する。
「奉公先では、こういうことはしてこなかったのか?」
「実を言うと、あまり」
――誇張だった。
あまりどころか、まったくである。
男の着替えを手伝ったことなどないし、ネクタイの結び方だってよく分からない。
「では、一体何が得意だ。言ってみろ」
ミアは答えに困った。そもそも人の世話などしたことがない。器用な方ではないし、料理ももっぱら食べる専門である。そう考えると、ミアにはつくづく歌しかなかったのだと思い知らされる。
「……お、音楽です」
――他に誇れるものがないのが恥ずかしい。
ミアは頬が熱くなるのを感じた。その歌でさえ、もうミアの武器ではなくなった。そう思うと胸に大きな風穴が開いたかのような気持ちになって、目頭が熱くなる。
ローラントは何も言わず、ミアを見下ろしている。
一体どんな顔をしているのか確かめるのが恐ろしく、ミアはひたすら彼の胸に視線を向けた。手元がおろそかになったところで、大きな手がミアの細い手首を掴む。それから色気にあふれた声が耳元でささやいた。
「……結び方を教えてやる。よく見ておくように」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます