4
夜の森、その上空に白い満月が浮かび、辺りを明るく照らしていた。
森は静かだ。
時折、気まぐれのようにフクロウが鳴いた。どんなに離れていようと、それはよく聞こえる。
遠くのごく小さな物音ですら耳に入ってくる。ミアがそうなのだから、追っ手も同じだろう。
ジャガ男爵の放った追っ手どもはしぶとかった。
彼らにはミアを諦めるという選択肢がないらしい。ほんの小さな物音も、うごめく影の動きも見逃さず、何か動きがあればそこを照らしてまわっている。
ミアは迂闊に動くこともできなかった。
かといってこのまま朝を迎えるのも不安だ。一カ所にとどまっていればいずれは追っ手に見つかってしまうに決まっている。
(……それならいっそのこと、敢えて聞こえるように歌って誘い出す……?)
揺れる明かりの数と追っ手の数が合致しているならばそれでもいいかもしれない。だが、他にもいるとしたらどうか。
横から邪魔が入って詠唱が途切れれば、聖歌は発動しないのだ。
眠らせるには中断することなく、最後まで歌いきらねばならない。なおかつ、全員を聖歌の聞こえる範囲に入れなければ。
それに、この状況で精神統一はなかなか難しい。
普段は安全地帯を見つけて、そこで集中して聖歌を詠唱する。それは、行動が予測できる魔物を相手にしているからこそできること。
今この状況では、安全地帯は刻一刻と変わる。敵の動きは変則的で、武器も様々。
(木の上はどうだろう……)
ちらりと頭上を見る。
登っている最中に見つかったら銃で撃たれるかもしれないし、それこそ逃げようがない。ましてや、のぼりおりの最中に脚をやられたら、もうどうにもできないのではないか。
ミアは小さく震えた。
男爵の愛人にはなりたくない。
あの町に帰るのはもう嫌だ。何としても逃げ切りたい。
ミアは頭の上から毛布をかぶって、低く身をかがめた。露に濡れて湿った草木の匂いが鼻腔に広がる。追っ手の明かりを避けるようにして、ぬかるんだ森の中を慎重に移動していく。
(お腹空いたなあ……)
教会の食事は質素で味気なく、任務が終わると町の飯屋に立ち寄ったものだ。旅人や傭兵を相手にしているからか、辺境の飯屋は朝早くからやっているし、手頃な価格で財布にも優しい。煙突から香ばしい匂いが漂ってくるから、流れ者達は皆ふらりとあそこに立ち寄るのだ。
考えていたら、焼きたてのパン、タレをつけた焼きたての鶏肉がとても食べたくなってきた。そこによく冷えたビールがあったら最高だ……。
無事に逃げ切れたら、どこかで食事をしよう。手持ちはそこそこあるし、困ったらあのブルートパーズの指輪を売ればいい。魔法の指輪は高値で取引されるのだ。
(……だめ、限界)
ミアはうずくまって腹をおさえた。
――生理現象、それは自分ではどうにもできない。
(お願い、鳴らないで)
ミアの願いもむなしく、腹は豪快に鳴った。
不運はそれだけではない。眩しい光がミアの頭上を照らし、男が野太く笑った。
「おい、女を見つけたぞ!」
ミアは悲鳴をあげる間もなく動きだした。
ぬかるんだ地面をまろぶようにして駆けるが、
背後から屈強な男がミアの腕を引っ掴んで、そのまま地面に組み伏せた。
「手間かけさせやがって!」
「放して! 汚い手で触らないでよ!」
身をよじってどうにか抜けだそうとあがいても、男の手が緩むことはない。泥が顔に跳ね、すっかり汚れた顔を見て男が笑う。
「可愛い顔が台無しだなァ、ミアちゃんよぉ。だけど、楽しむ分には問題ねえ」
男は馬乗りになってミアを押さえつけ、ズボンのベルトを外しつつ下卑た笑いを浮かべた。
「苦労させられた分、たっぷりと手間賃をいただかないとならねえ。くくく……なあ、他の奴らが来る前に一緒に気持よくなろうぜ。かわいがってやるからよぉ!」
このままでは犯される――恐怖で凍り付いたその時、馬のいななきが聞こえた。
街道を見れば、三つの明かりが揺れ動いている。それはだんだんとこちらに近づいてくるようだった。
ミアは声を震わせつつも必死で叫んだ。
「助けて! 助けてください!」
「てめぇ、黙ってろ! 無駄なあがきはするんじゃねえ!」
男は苛立ちを滲ませ、ミアの頭を地面に押しつける。
そのまま擦り切れた服に手をかけられ、もうだめだと震えたその時。背後から冷徹な声が降りそそいだ。
「貴様、そこで何をしている」
男は舌打ちをして、ミアを乱暴に突き放した。その勢いでミアの顔面は完全に泥に沈む。
「ったくよお、おたのしみの邪魔してんじゃねえ!」
「この
冷ややかな罵倒に男はいきり立ち、その腰に下げられた短刀を素早く引き抜くと、そのまま相手を切りつけた。
しかし、その刃はいともたやすくかわされる。標的をうしなってよろめいた男のみぞおちに、正確で強烈な拳が撃ち込まれた。
鈍い音がして、男は白目をむいてそのまま倒れ込んだ。泡を吹いて失神しており、当分は起き上がりそうもない。
驚きと恐怖と泥にまみれた恥ずかしさでうつむいていたミアは、使い込まれた黒い
忘れもしない、寝落ちしたあの男だ。
月光の下できらめく青銀の髪からのぞく、整った顔。外套の下は金糸で装飾された白い軍服。氷のような瞳が泥だらけのミアを気遣うように見下ろし、立ち上がらせようと手を差し伸べている。すらりとした体躯だが、その四肢は筋肉質なのだろう。ミアがおずおずと手を預けると、軽々と引っ張り上げられた。あまりにも力強くて、ミアは勢い余って男の広い胸にぶつかる。
その身長差は歴然としている。ミアは同じ年頃の娘達の中でも小柄な方ではあるが、それを加味しても彼の背は随分と高く、顔を見るたびに首が痛くなりそうだった。
「大丈夫か、少年」
(……ローラント・アレニウス)
ミアはぽかんと口を開けた。
一見して女だと思われたくもなかったが、顔を合わせたことのある男から少年だと思われるのは、どうにも複雑だ。
何も言えずにいるミアをどう思ったのか、ローラントは笑った。
「泥だらけだな、かわいそうに」
彼はハンカチを取り出して、幼い子にするようにそれでミアの顔をごしごしと拭った。なんだか恥ずかしいしこそばゆかったが、ミアはおとなしくしていた。
泥を落としたところで、ローラントは穴が開くかと思うほどミアの顔をまじまじと見つめた。
「……お前」
大きな両手で顔を包まれ、ミアは居心地が悪くなる。
相手の顔が良すぎるのもあり、どこに目を向けたらいいか分からない。
それから彼は何かを確かめるように髪に触れ、首筋に触れた。その長い指が肌をなぞり、ミアは鳥肌が立った。
「似ているが、男か……」
ローラントはそう呟いてミアから手を放した。心なしか顔が赤い。
その視線はミアのだぼっとした男物の服に向けられている。胸のふくらみは分からないし、そこから伸びた白い手足は細く、さしずめ枝のようにも見える。髪は短く、化粧もしていない。いかに月の光が明るいとはいえ、細部まで確認するのは不可能だろう。少年だと判断されるのも仕方なかった。どうせ、今後関わり合いになることもない人だろうし、どう思われても問題あるまい。
ミアはぎこちなく笑った。
「あの、助けていただきありがとうございました」
「礼には及ばん。辺境の治安を守るのも、我々フォルデ辺境騎士団の責務だからな」
「辺境騎士団……」
白い軍服を見た時からまさかとは思っていたが、いざその名を聞くとミアはぎくりとした。辺境騎士団所属の、ローラント・アレニウス……。
――氷槍のアレニウス?
(まさかね……)
ミアは頭を振った。最強の男が聖歌で寝落ちしたなんて笑えないし、冗談にしてはたちが悪い。考え込んでいると、二つの足音が近づいてきてミアはつい身構えた。
忘れてはならない、追っ手は他にもいるのだ。まだ安全になったとは言い切れない。
草木をかき分けて現れた二つの人影にミアは飛び上がり、思わずローラントの背中に隠れた。ローラントはそれを見て笑う。
「案ずるな、彼らは私の部下、男がクラン、女がベル。――遅かったな、二人とも」
クランは肩で息をしつつ、げんなりと返した。
「団長……あんた、自分が超人だっていう自覚ありますか? ありませんね? そうじゃなけりゃ、鬼ですよあんた。何にも言わずに全速力で真夜中の森の中に突っ込んでいって。しかも、ろくな武器も持たずに。相手が強敵だったらどうするつもりだったんですか! 氷槍は出せないってのに……。イノシシじゃあるまいし、ちょっとは立ち止まって考えてくださいよ……」
ミアはまじまじとローラントとクランを見比べた。
気になることは多々ある。
団長、武器……。
クランのいう団長がフォルデ辺境騎士団の、という意味であれば、男の正体は推して知るべし。
(この男が、氷槍のアレニウスで間違いないわ)
彼を前にして無傷で帰ったものは誰もおらず、諸国ではその全貌が謎に包まれていた最強の男。
武器など持たずとも素手で敵を倒してしまったことからも、その強さは確かなものだと分かる。予想していたような強面でもなく、無駄なく引き締まった身体をしているが、その剛腕は噂通り。繰り出された一撃は強烈で、追っ手の男の内臓は果たしてどうなっていることか。
ミアは生唾を飲み込んだ。
フォルデの懐刀が何故ここにいる。辺境伯の護衛をしているはずではなかったのか。
一体何があってピアニッサの街道にいたのだろう。
ミアの背中に冷や汗が滲んだ。ネックレス状にして首から下げていたブルートパーズの指輪を、こっそりと服の下に隠す。
――もしかして、とんでもないものを賭けさせてしまったのではないか?
魔法の指輪を一介の傭兵が所持しているなんておかしいと思ったのだ。
「悪かった。ただ、切羽詰まった声に聞こえたのでな。考えるより先に身体が動いたのだ。それに武器なら持っているが?」
ローラントはそう言って細やかで美しい模様の鞘に収まる短刀を見せた。
「それ、辺境伯から団長就任時に頂いた宝剣でしょうが! はっきり言って敵を切るためのものじゃないんですよ! 本当は屋敷で大事に飾っとくやつ。それで相手の頭でもぶん殴るつもりなんですか?」
「ああ、最高硬度の宝玉でできているし、多少の打撃では壊れん。俺が握りつぶさなければ大丈夫だろう。折角いただいたのだから、持ち歩かねば失礼だし」
胸をおさえつつ呼吸を整えていたベルは、呆れたように呟いた。
「そういう問題ではないかと存じますが……」
「ところで団長。そろそろ、あんたの後ろで隠れている子が何なのか説明してくださいよ。一体どこで拾ったんですか?」
クランはミアを覗き込むと、人のよさそうな笑みを浮かべた。
「真夜中の森で暴漢に襲われていた」
「襲われていた⁉ さぞや怖かったでしょうね。でも、もう安心してください。我々がおうちに返してあげますからね。安全なところまでは、一緒にいきましょう」
ベルはやさしくミアの頭を撫で、そっと肩を抱いてくれた。
「……帰りたくありません」
ミアは両手をかたく握りしめ、震えながら返した。ベルは思いもよらないミアの答えに困惑し、ローラントは驚きに目を見開いている。
何と説明したものか。歌い手の脱走を同盟関係にあるフォルデ辺境が知れば、国の上層部に通報するに違いない。序列最下位とは言え、歌い手を喪うのは国にとって痛手だ。聖歌機関や国の上層部は何としても取り戻そうとするだろう。
それは困る。
重要なところはぼかして、ミアは話した。
「……わたし、奉公先でいつもひどい目にあっていたんです。お前なんていてもいなくても同じだって言われるし、好色家に高値で売り飛ばすなんて話もあって、もう我慢できなくて、思い切って逃げ出してきたんです。そうしたら――」
「追っ手を差し向けてきた、と?」
「はい……。わたしを逃がしたとなったら大損だと思ったのでしょうね」
神官はきっと高値でミアを売ったのだ。そして男爵は、
ミアは唇を噛んだ。
――誰が、やつらの思い通りになんてなるものか。
ローラントは少し思案してから、おもむろに口を開いた。
「この先、行くあてはあるのか?」
「……いいえ。とにかく、遠くに――誰もわたしのことを知らないようなところまで行って、そこで一からはじめたいと……」
「そうか」
ローラントはミアと目線を合わせるようにその場に膝をついた。
「行く先も決まっていないのならば――私に仕えないか?」
言われた意味がよく分からず、ミアは首を傾げる。ローラントの部下二人がやや引いた様子でたずねる。
「団長、正気ですか?」
「ああ。このまま捨て置くこともできんだろう。遠くの地に逃れたからといって、安全というわけでもあるまいし。剣一本でその身を守れるくらいになるまでは、連れ歩いて鍛えてやるのも良かろう」
「……いや、まあ確かにそうですけど」
「別に、戦地に連れていくと言っているのではない。日常的な、こまごまとした世話を頼むだけだ。その合間に鍛えてやる。追っ手の一人や二人を撃退できるくらいには強くしてやれると思うが」
――鍛えてやる。
クランとベルは顔を見合わせ、ミアは震えあがった。非力な自分の骨が打ち砕かれる未来しか見えない。
「無論、使いものになるまではいくらでも守ってやる。どうだ、悪い条件ではないと思うが?」
ミアは答えに困った。
「でも、ご迷惑ではありませんか? そもそも、わたしをお助けくださったのも何かの任務を中断してのことでしょうし――」
ローラントの顔がこわばっていくため、ミアはそこで言葉を切った。
「……任務を中断しているわけではない」
「そうだぞ、ぼっちゃん。ごくごく私的な用事でここら辺を駆けずり回っていたというわけ」
クランは気まずそうに顔を背けるローラントの肩を組んで続けた。
「俺たちはその、なんていうか……人を探してるんだ。名前はミア・セレナード。ぼっちゃんみたいな亜麻色の髪に、エメラルドみたいにきれいな目をした女性をさ」
「……⁉」
ミアはどきりとした。
(わ、わたしを探してる……?)
「一体何故、その人を……?」
おそるおそるたずねると、ローラントは低く答えた。
「私に屈辱を味わわせた女だ。なんとしてでも探し出して、責任を取らせねばならぬ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます