3
四方にそびえる緑の山々、そのふもとで風にそよぐ草原、上空を旋回する四翼の群れ――。
毒と灼熱の吐息を使い分け、一瞬で肉を抉るほどの鋭い爪と、骨をかみ砕く大きな牙で地上の人を襲い、フォルデ辺境騎士団を長年に渡って苦しめてきた魔物たちが視界に映っていた。
ローラント・アレニウスはその剛腕で氷槍を振り回し、獲物を狙って滑空してきた魔物を狩っていく。
地を蹴って飛び上がると氷槍で魔物を突き通し、あるいは空中にそれを生成させて標的めがけて投げ飛ばす。魔物は簡単に倒れたが、ローラントは途方もない違和感を覚えていた。
倒れた端から魔物が霧のように消えていく。何より、その肉を引き裂く手ごたえが全くないのだ。
それだけではない。
草木の生い茂る草原で、一人の女が立っていた。
亜麻色の長い髪は風になびいて、くりっとした翠色の瞳でローラントをやさしく見つめ、花が咲くようにふわりと微笑んでいる。
彼女はこれまでの人生の中で一番綺麗で、可愛らしいのだ。
その手に、唇に触れたら、一体どれほど甘くやわらかいのだろう。この腕の中に囲ったら、どんな顔をするのだろうか。そんな想像をすると、彼女はつれなく背を向けた。
一歩でもいい、彼女に近づきたい。そう願っても、自分がどう動いたらいいか、どうすれば彼女に触れられるのか分からなかった。
――おかしい。
からだが思うように動かせない。自分の手を離れ、遠くにあるようだった。
何だこれは。
この違和感が不快なわけではない。むしろ、その逆――なんとも心地よいのだ。
一日の最後には、泥沼にはまっているかのような倦怠感が必ずあったのに、どういうわけか己の身体は羽のように軽かった。
それどころか、芯から力がみなぎってくるようだ。
それに、何故――彼女が。
思った途端、ツンとした刺激臭が鼻につき、ローラントはびくりと肩を震わせる。
――何だ?
身を預けている布団は固いし、掛布はかび臭い。
思わずむせたところで、寝具を跳ねのけつつローラントは飛び起きた。
「一体何がどうなっている……⁉」
あたりを見回すと、そこは見知らぬ部屋であった。薄汚れた白い壁に、底が抜けそうな床。ベッドが二つ、長椅子が一つ。そこでぐったりとしているのは、ローラントの副官、クランとベルである。
(まさか……俺は、眠っていたのか?)
ローラントは戸惑った。
いつもは鉛のように重たい頭も、だるかった手足もすっきりしている。身体が信じられないほど軽い。今なら窓から飛び降りてもそのまま空を飛べそうな気がする――そんな馬鹿らしい考えが過る程度には、ローラントの気分は昂っていた。実に爽快であるが、それが不気味でもある。
ベッドから抜け出し、カーテンの閉め切られた窓辺に近づいた。
外をのぞけば暗く、山間の町は夜の中に溶けている。
ローラントは自分の置かれた状況がまったく理解できなかった。
そもそも、最後に訪れたのは飯屋である。そこで天使のように愛らしい女に出会った、それは覚えている。
亜麻色の髪は艶やかで、もの言いたげに潤む翠色の瞳はどこまでも澄んでいた。小さくて白い手は傷ひとつなくなめらかで、薔薇色に染まる頬はやわらかそうだった――。
あの一時で夢にまで出てくるほどに印象に残ったのか、そう自覚すると顔が妙に火照った。
「ここはどこだ……?」
つぶやくと、副官のクランがその栗色のぼさぼさ頭を掻き、垂れた目をしぱしぱとさせ、大あくびをしつつ答えた。
「やーっとお目覚めですか、団長。ここはタクトの宿屋です」
「クラン……」
クランは、よだれをたらしつつ舟をこいでいるベルの肩をつついた。
「うっ……何――おっ、おはようございます、団長!」
ベルは顔を真っ赤にして、慌てて手ぐしでゆるく波打った髪を整えた。その紫紺の髪にいつもの艶はない。若干二十でありながら、フォルデ辺境騎士団の副官にまで上り詰めた才女も、寝起きは弱いと見える。
「良かった。お目覚めになられたのですね!」
「俺はいつ宿屋に来た? まったく記憶がないのだが」
副官二人は顔を見合わせた。クランは肩をすくめて返す。
「昨晩ですよ。全然お戻りにならないので、おれ達二人でお迎えに上がったんです。はあ、もう、何食ったらそんなに重たくなるんだか。やっぱり、脳みそまで筋肉でできてるんですかね」
「クラン、貴様無礼にもほどがあるぞ! 団長が怪力のあまり手にする武器をことごとく粉々にしてしまうからと言って、脳みそまで筋肉でできているわけがなかろう!」
「そうか? 分かってないなあ、ベル。団長は鍛錬大好き、筋肉は裏切らないとか言ってるような人だぞ」
否定はできなかった。ローラントは咳払いを一つして「それで?」とたずねる。ベルは姿勢を正して返す。
「失礼いたしました。驚くべきことに、飯屋で眠ってしまわれたので、クランと協力してここまでお運びした次第です」
「あー、もう。本当に、びっくりしましたよ団長。一体何があったのかって。ベルなんか気が動転するあまり『大変、団長がこのまま死んでしまったらどうしよう』って、ずーっと騒いでましたからね」
「……余計なことを言わないでくれる?」
ベルがこぶしを握りしめると、クランは肩をすくめた。
「とにかく、昨晩は大変でしたよ。正直、おれも団長がこのまま起きなかったらどうしようかと焦りました。身体が
ローラントは頭を抱える。
「昨晩……一日も眠っていたというのか?」
クランとベルは頷いた。
「全然起きられなかったので、辺境伯には私の方からご連絡いたしました。そりゃあ大事件だな、ゆっくり休めよ、と笑っておおせでしたよ」
辺境伯がピアニッサを訪問するにあたって、ローラントがその護衛として付き従っていたのが昨日までのこと。「ここまでくりゃ大丈夫、一日くらい休みをやるから、お前はもうちっと遊んでこい」と言って、辺境伯は他の騎士を護衛に連れて領地に帰った。
「嘘だろう、信じられない」
そういいつつも、身体にはかつてないほど力がみなぎっている。今ならどんな強敵が襲い掛かってこようと、負ける気がしなかった。眠りとはこんなに気持ちよいものだったか。
――ローラントは不眠症である。
もう何年もまともに眠っていない。ベッドに横になっても、目をつぶっても、眠気がくることはなかった。静かな夜は特にそれが辛く、結局夜明けには動き出して、訓練場で素振りをしていたくらいだ。
ただ、フォルデ辺境騎士団長の地位についてから忙しさに拍車がかかり、片付けるべき仕事ができたことで不眠を苦痛に感じることは減っていった。眠らずとも身体さえ休まれば任務に支障はない。少し横になる、目を閉じる、しかし意識は手放さない。それでよかった。無防備になったところを討たれずに済む。
絶対に眠らない自信があった。眠れず辛い思いをした一時、どうにかして寝ようと様々な方法を試して、全てが徒労に終わったという過去がある。しかし今回は、それを嘲笑うかのごとく一瞬で眠った――一体何がどうなったというのだろう。
ローラントはため息をついた。
「そういえば、団長宛てのお手紙があるのですが、ご覧になりますか?」
「手紙? 誰から?」
ベルは困ったようにクランを見た。彼は黙ってかぶりを振り、神妙な表情でその紙切れを差し出した。
『指輪は確かにいただいた。フォルデの懐刀の爪の垢を煎じて飲んで出直してこい』
可愛らしい字でそう書かれている。気になっている女からの初めての手紙がこれ。情緒のかけらもなくて笑える。
「……自分の爪の垢を煎じて飲めと?」
紙を握りつぶしてつぶやくと、我慢できなかったのか、クランが吹き出した。
ローラント・アレニウス――その異名は様々である。氷槍のアレニウス、フォルデの懐刀。ここら一帯でも通用する程度には、己の名は通っていると思っていたが、違うらしい。うぬぼれるなと突きつけられたようで屈辱的だし、これ以上ないほど恥ずかしかった。
「あの女……!」
天使のように可愛いかったから、きっと血生臭い戦いとは無縁の人生で、フォルデの軍事事情など知る由もないのだろうと思っていたのに。
「団長、まさかとは思いますが、指輪ってあの指輪じゃないでしょうね?」
「……俺がもっている指輪は一つ。辺境伯から賜った、あの指輪だ。笑いたければ笑えよ」
「ええー⁉ う、嘘ですよね……?」
「いやいやいや。あれを渡した? 何考えてんスか。正気の沙汰じゃねえよ……。あれは、氷槍を生成するのに絶対に必要な指輪でしょうが! あんた、武器を手放したようなもんですよ。氷槍なくしてどうやって戦うんです?」
「小言を言ってくれるな。まさか……本当に眠るなんて思わんだろうが!」
あとあの女めっちゃ可愛かったから、あわよくば一夜だけでも過ごしたいと思った――その言葉は飲み込んで、ローラントは両手で顔をおおった。
美しきブルートパーズの指輪には、氷の魔力が込められている。その指輪をはめることで、ローラントは無限に氷の槍を生成できるのだ。
ローラントは異常なほど力が強かった。超人的とも言える怪力で、鉄や鋼の武器はローラントが振るうと、その力に耐えきれず粉々になってしまう。それを見かねた辺境伯が、王から賜った魔法の指輪を、更にローラントへ下贈したのだ。
壊れてもすぐに復活する氷の槍は耐久性を気にする必要もなく、ローラントの力をいかんなく発揮させた。
本来手放してはならない指輪であるが、何をとち狂ったのかローラントはこれを軽率に賭けたのだ。ベルは半ば呆れ、クランは大笑いをしている。
「うーん、しかし困りましたね。どうにかして取り戻さないと危険ですよ。使い方を間違えると、辺り一帯が凍りついちまう」
「……ああ、分かっている」
ローラントはため息をついた。
眠ったら指輪をくれる、そういう約束だった。一度渡したものを今更返してくれというのも決まり悪く見苦しいし、何より格好悪い。
しかし、ただの女にあの魔法の指輪は荷が重かろう。いずれ暴発し、指輪の魔力が尽きるまで周囲のものを凍らせる。魔力が尽きるのは少なく見積もって百年。つまり、素人が所有するには危険極まりない。それを説明して指輪を返してくれればいいが、嫌だと言われればそれまでだし、最悪、またよく分からぬ術を使って眠らされ、遠く手の届かぬ場所へ逃げてしまうかもしれない。
(さて、どうしたものか)
古びた椅子に腰かけると、みしり、と軋んだ。長い脚を組み、机を指でとんと叩きつつローラントは思案する。
「俺に屈辱と快楽を味わわせたあの
ベルは若干引き気味にたずねる。
「団長、それは一体……」
「彼女を手中におさめれば、それは指輪も俺の元に帰ってくるということだろう」
「……」
副官二人は一瞬黙り込み、クランが恐る恐る口を開いた。
「すっげーこと言い出したぞこの人。とんでも理論にもほどがあるだろ」
「クラン! 失礼なことを言うな。ちょっとぶっ飛んでいるが、ほら、結果的にそういうことになるだろう」
「そう。ゆえに何としても、俺の側にナイチンゲールを置かねばなるまい」
ベルは頭に疑問符をたくさん浮かべつつ返す。
「その、手中に収めるとか、側に置くというのはつまり……あの、一時的にという意味合いでしょうか? 指輪を取り戻したら、解放すると――」
言葉を重ねるたびにだんだんと不機嫌そうになっていくローラントを前にして、ベルの声はしぼんだ。
「解放、はしませんよね。責任をとっていただくのですから」
責任、責任……、とベルは呟いて思案して、あっと両手を叩いた。
「責任というと、契約……結婚? いや、まさか――」
ローラントは目をかっと見開き、しばし考えてから答えた。
「…………必ずしもそういうわけではないが、極論を言えば、そうだな。彼女の心身を手に入れればおのずと指輪も返ってくるだろう」
我ながらいい考えだとローラントは思う。そう、結婚して夫婦になってしまえば持ち物のやり取りをするのは造作もないはずだった。
「えっと、つまり何ですか。そのナイチンゲールちゃんを探し出して、責任取れって迫って、結婚を申し込むと?」
頭を抱えつつクランがまとめると、ローラントは溌剌と頷いた。
「その通りだ! 直ちにナイチンゲールの行方を探れ」
「………………っ了解です、団長」
クランは諸々の言葉を飲み込んで、脱力して返した。
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