2

 飯屋は水をうったように静まりかえっていた。

 陽気に飲んでいた赤ら顔の客達はおろか、店のオヤジまで眠りこけている。空きを待っていた客も気持ちよさそうに眠っている始末である。

 その中から飛び出してきたミアを、町の人たちは不気味そうに、はたまた興味深そうに見送った。

 下手な誘いにのったばかりに、ミアの計画は全て水の泡になっていた。


(絶対に眠らないと言っておきながら本当に眠るなんて。ローラント・アレニウスぅ……!)


 そう言い切るからには何かしらの対抗策を持っているだろうと考えたミアが馬鹿だったのだ。

 氷槍のアレニウスと同じ名を持っていながらなんとも情けない男である。

 『フォルデの懐刀の爪の垢を煎じて飲んで出直してこい』とメモを残してきたが、彼がそれを読むのは明日の夜になるだろう。


(いいお勉強になったでしょうし、授業料としてこの指輪はもらっていくんだからね……! 軽率に指輪を賭けたことを、せいぜい後悔してなさい)


 ミアの聖歌の効力は一日。よほど強い衝撃を与えられない限り、目覚めることはない。

 かつてないほど浮かれたこの空気だが、すぐに沈下するのは目に見えている。

 非日常の今、燃え上がるような恋をして、その勢いで結婚をして、もう二度と聖歌はうたわないつもりでいたのに。


 ブルートパーズの指輪を握りしめ、ミアは夜に溶ける町の中を駆け抜けた。数刻前は人をかき分けなければ満足に進めなかったのに、今となっては通りを歩く人影はまばらだ。

 着飾ったミアを指さし、ひそひそと話しあっている者が何人か視界に入ってくる。

 身の丈に合わないような格好をしているから笑われているのだろうか。

 慣れない化粧をしてみたけれど、似合わなかっただろうか。

 そんな想像をして、胸がひやりとした。

 ――滑稽だ。

 同年代の流行も、男達の好みも、全て周回遅れで履修している。一番上等だと思っていた今日の服も、きっと今の流行からはかけ離れているに違いなかった。

 ミアは昼寝て、夜に活動している。皆が家族や友人、恋人とぬくぬくと過ごすなか、ミアはひとり、夜の森で魔物や外敵を眠らせる聖歌をうたっていた。

 万が一、町の方まで歌が響いてしまっても、皆が寝入る時間帯ならば問題ないからだ。

 それゆえ、この町にはミアが歌い手だと知らぬものが少なからず存在する。

 夜の町を歩く不良娘、男を漁る汚い女――残念ながらミアに引っかかるような男はこれまで一人もいなかったわけだが――だと見知らぬ人から罵倒されたこともある。他の歌い手ではありえないことが、この辺境の町では起こっている。


 そもそも、ミアの上司たる神官からして、ミアのことを軽んじる節があった。

 聖歌機関の監査人を前にして「成果といっても報告できるようなものはない。いてもいなくても同じだ」と堂々とのたまうほどだ。隣にいたミアがどれほど恥ずかしく、どれほど傷付いたか、あの神官は想像もしていないだろう。


 しかし、厄介なことになった。

 一体何人に目撃された?

 何人が、ミアの歌を聞いて眠った?


 酒とその場の雰囲気に酔って、どうせ最後だからと軽率に聖歌を使ったのはまずかった。

 考えると、途端に不安になって、背中にじわりと汗が滲んだ。

 その影響力を考慮して、歌い手が私的に聖歌をうたうのは禁止されている。

 フォルデ同盟を口実に、解任される前に自分から歌い手を引退してやろうと思っているものの、今回の件が聖歌機関の耳に入れば、引退ではなく追放の烙印が押される。

 それではあまりにもきまり悪い。

 追い出されるのと、みずからやめるのでは天と地ほどの違いがあるのだ。

 常日頃から、辺境の歌い手不要論があった中でのこの出来事は、ミアへの印象をことさら悪くするに違いなかった。

 役立たずの上に掟破りの歌い手とあってはどうしようもない。悪い噂を流されて、一生肩身の狭い思いをするだろう。


(わたしは馬鹿だ……結局、自分の首をしめている)


 眠らないと言い切る男の言葉にムキになって。自分の能力を誇示して。後から頭を抱えている。考えなしにもほどがある。

 恋人を見つけて結婚を決めて円満に引退するというミアの目標が、また遠のく。

 下手をしたら、むやみに聖歌を使った罰として、賠償金を請求されるかもしれない。そうなると頑張って貯めた結婚資金も吹っ飛び、この先運良く恋人ができても貧しさにあえぐ未来が見え、ミアは愕然がくぜんとしてつぶやいた。


「どうにかしてもみ消さなくちゃ」


 町外れの古びた教会まで来たところで、ミアはようやく歩調を緩めた。

 夜中燃えさかる篝火かがりびは明るく、つたの絡まる石壁を照らしていた。さすが、迷える子羊を導くための光だけあって、ゆれるその炎を見ると焦りと不安が和らいだ気がした。


「おかえり~、ミア」

「うわっ!」


 門をくぐるなり声をかけられ、ミアは飛び上がった。

 振り返ると、ミアと同室の童顔で小柄な修道女――メルティが草刈り鎌を手にして微笑んでいた。顔を照らす明かりの角度が絶妙で、その手にしている物も相まって不気味すぎる。バクバクする心臓をおさえて、ミアは唇を尖らせた。


「お、驚かさないでよ。メルティ――」

「帰りが遅いから、心配しちゃった。わたしの大事なミアが変な男に引っかかったんじゃないかって~」

「変な男って、そんな――」


 眠らない自信があると言ったのに即寝落ちした男を思い起こし、ミアは乾いた笑いをもらした。あれがミアに唯一、声をかけてきた男である。……間違いなく変だった。


「っていうか、こんな時間にそんなもの持って何してるの?」


 メルティはぶんぶんと草刈り鎌を素振りしながら答えた。


「うーん、悪い虫が寄ってきたら、退治しなきゃと思って~」

「え?」

「だって、今日のミアとってもきれいだもの。今までうまく隠してたのに、ミアがきれいで可愛いって皆にばれちゃったから~。普通の男は二の足を踏むでしょうから、声をかけてくるような男は絶対、悪い虫よ~」


 ミアは遠い目をした。

 本当にきれいで可愛かったら、一人さみしく夜の道を走ることもないだろうに。ミアを無条件で褒めてくれるのはメルティだけだ。草刈り鎌さえなければ、ミアはメルティのマシュマロボディに抱きついていたところであるが、今飛び込めば間違いなく鋭利な刃がミアに刺さる。


「悪い虫なんて、ジャガ男爵くらいでしょうよ。大丈夫、あの方の好みからわたしは外れているもの」


 このタクトの町を牛耳るジャガ男爵は女好きで有名である。

 いつも女を侍らせているのだが、皆美人で、その上肉付きがよく、大人の色気があった。細く小柄なミアとはかけ離れたたぐいの女性達である。

 その妖艶な美女達を一体どこで見つけてくるのか、毎回違う女を連れている。不思議なことに女達は皆うっとりとして男爵にしなだれかかり、男爵の方も女の細くくびれた腰を抱いて満足そうにしていた。

 男爵の屋敷からはいつも嬌声きょうせいが漏れ聞こえ、そば近くを通るだけでミアは気まずくなった。恋愛や色欲とは無縁のミアにとっては、男爵は永遠に交わることのない、遠い世界の住人である。

 しかもジャガ男爵は今年で四十。十八のミアとは、親子ほど年が離れている。

 天地がひっくり返ったって、男爵の目にかなうことはあるまい。もしそうなったとしたら、町を出て行くのもやぶさかではなかった。

 ミアは皆のように普通の恋をして、普通の幸せを手にしたいのだ。

 断じて、男爵の取り巻きの一人になりたいわけではなかった。

 メルティは不安そうに鎌をおろした。


「……そうだと、いいのだけれど。何だか、嫌な予感がしたから~」

「嫌な予感?」


 ミアが首をかしげると、メルティは小さく頷いた。


「そう。神官さまがね。ミアが帰ってきたら、ちゃんと見張っていなさいっていうのよ。すごく上機嫌で、年代ものの葡萄酒を開けていたわ……誰かと飲んでいたみたいだった。わたし、何だか心配になって。ミアはわたし達の大事な歌い手なのに、神官さまは勝手に誰かと何か約束をしたんじゃないかって~……」

「……そう、なんだ」


 喉元に苦いものが込み上げてくる。

 最弱とはいえ、たった十二人の歌い手の一人。将兵よりも重宝されるべき存在である。

 聖歌の発動条件は様々だ。共通しているのは、雑念を払い、精神を研ぎ澄ます必要があること。何者にも邪魔をされず、集中できる状況になければ失敗する。

 ミアの場合、最後まで歌いきった際に聖歌が発動する。その効果は、歌声の届く範囲にいるものすべてを眠らせることである。

 要するに、ミアの歌声が聞こえる位置にいるものが影響を受ける。声量によっては広範囲に効果を発揮するので、魔物の群れを相手にする時には役に立つと自負しているが、神官は頑なに否定してくる。

 聖歌は誰にでもうたえるものではなく、歌い手を見つけるのすら骨の折れる作業だ。聖歌機関が根気よくピアニッサ中を探し回って、出会えるかどうかというところ。

 現に、他の歌い手は好待遇だと聞いている。ミアのように一人で任務をこなすことはなく、何人もの護衛に囲まれ、壊れ物を扱うかのごとく大切にされていた。護衛がいれば露払いは彼らが請け負ってくれ、歌い手は聖歌の詠唱に集中できる。

 ミアのようにひとりで現場に出ている歌い手など、聞いたことがなかった。

 ため息をつくミアに、メルティは頭を下げた。


「ごめんね。文句の一つも言えなくて~……」

「メルティが謝ることないよ。見張っていろって言われただけでしょ?」

「……少しくらい、言い返せればいいのだけれど」

「大丈夫だよ、メルティ。歌い手の守護者の言うことは絶対――それが教会の規律でしょう?」


 聖歌機関から資金を受け取り、歌い手をどう扱うか決めるのは神官次第。

 聖歌機関の審問会が開かれるときがあれば異を唱えられるが、それまでは誰もその決定に逆らうことはできない。

 断言できる。ミアは貧乏くじを引いたのだ。

 ミアの神官は金と権力に執着している。ミアは立派な金づるで、周囲に自分の権威を見せつけるための道具にすぎない。

 きっと、フォルデと同盟が決まった辺りで誰かと話しを進めていたのだろう。フォルデ最強の騎士団がいれば、辺境の安全は保障されたも同然だ。

 是非とも歌い手がいる必要はない――どうやら神官もミアと同じ考えらしくて、それがまたおかしかった。



 ――翌朝。

 ジャガ男爵から求愛の手紙が届き、ミアは絶句することになる。

 開いた口がふさがらないミアを前にして、使者はうやうやしく礼をした。


「おめでとうございます、歌姫ナイチンゲール。昨晩、甘美なる聖歌と美しいお姿で、見事、男爵の御心を射止められた。あれがあったからこそ、我らはあなたにたどり着けたのです! そう、危うくあなたを見つけられないところだった」

「……な、に」

「この目で見るまで信じられなかった、何がなんでも側に置きたいと男爵は仰せです。今宵、必ずお迎えに参ります」


 ――安易に聖歌をうたった罰だろうか。

 絶対眠らないと豪語する男の鼻をあかしてやろうと、賭けに興じたのが悪かったのか。

 ミアの目の前は真っ暗になった。口は渇いて、指先が冷たい。足元が震え、その場にへたり込む。

 どれほどそうしていたか。

 手紙を受け取ったミアの反応を見に、でっぷりとした神官が部屋を訪れた。その巨体をゆすって神官はにやりと笑う。


「どうだ、ミア。男爵からのお誘いだ。今日の任務は休むことを許可しよう」

「それは掟破りの行為ではありませんか? わたしは歌い手です。歌い手を私的に招待し、任務を休ませるなんて――……」


 震えながら返すと、神官は顔をしかめた。


「他でもない、私が良いと言っているのだ。言うことを聞きなさい」

「……っ」


 胸から腹の方に冷たいものが落ちていった。同時に怒りと悲しみが込み上げてきて、心がぐちゃぐちゃになる。

 腐っていたとしても、せめて表面上だけは神官でいてほしかった。いくらミアが役立たずだったとしても、歌い手をけだものに与えるということだけはしない、その良心があるはずだと信じていた自分がどうしようもなく愚かに思える。


「何、この町で生きていく以上、男爵に取り入っておけば間違いないのだ。良かったじゃないか、ミア。この先、何があったとしても安泰だぞ。女の幸せも手に入れられる。どうせ居場所がないのだから、たくさんかわいがってもらいなさい」


 神官がかふかふと笑う傍ら、ミアはスカートの裾をきつく握りしめて俯いた。

 こんな屈辱的なことはない。

 口の中はカラカラに乾き、目の前がちかちかする。怒りでどうにかなってしまいそうだ。

 ミアは歌い手という職に対して、多少なりと誇りをもっている。

 それを、この神官は。女狂いの男爵は。

 ほんのわずかなプライドですら踏みにじって、自分たちの思い通りにことを運ぼうとしている。

 ――誰が。誰が思い通りになるものか。


 神官と入れ違いでメルティが帰ってくる。

 彼女は涙ぐんでうつむくミアを見て全てを察し、ミアを抱きしめて言った。


「ミア、わたし、隣町の教会までお使いに行ってくるわね~。いつ戻るか分からないから、任務に出る時は鍵だけかけておいてちょうだい」


 この山間の町から隣町の教会までは、歩いて一日はかかる。

 逃げるなら今だ、メルティはそう言っているのだ。

 ミアは黙って頷き、メルティを抱きしめ返した。


「うん……。ありがとう、メルティ。大好き」

「あらあら、ミアったら。あっちについたら、マリーに自慢しなくっちゃ~」

「うん……マリーにも、ごめんねって伝えておいて」


 結婚祝いに子守歌を贈ってあげると約束していた、ミアの友人だ。幼馴染と結婚して、隣町に越して行った。もうすぐ子どもも生まれる。

 きっとしばらく会えないだろう。いや、下手をしたら二度と。

 

 ミアは洗面台の前に立った。腰までまっすぐに伸びた亜麻色あまいろの髪はつややかで、丸くて大きな翠色すいしょくの瞳は怒りと悲しみに沈んでいる。珊瑚さんごのような唇、抜けるような白い肌。


「……そんなにダメだったかな、わたし。あんな、成金男爵にしか選んでもらえないような人間だったのかな……」


 そっと鏡に触れ、誰ともなく問いかけ、泣き笑いを浮かべてハサミを手に取った。

 ミアは、毎日手入れを欠かさなかったその亜麻色の髪に刃をいれた。

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