第18話





「見て! イヴァン、シクロ! 大きい水たまりがあるわ!」


 目の前に広がる光景。私が今まで見たこともない世界の一端。


 視界を遮るくらいの木々、泳げるくらい広い水たまり。横並びにずらっと並んだ建築物。どこまでも広がる原っぱ。空が孤児院の塀の中より、青く澄んで見える。

 本やお話でのみ聞いたことがあるようなものが視界になだれ込んできて、私を高揚させた。


「わかる、わかるわ。この水たまり、海っていうんでしょう?」

「いや、これはただの湖だよ」


 イヴァンが私の隣でかがんで水を掬い取り、「人が創った疑似的で小規模な海、ってところかな」と鼻で笑っていた。


「あら。でも、魚が泳いでいるわよ」

「魚には淡水魚と海水魚がいるんだよ。海と川や湖で生きている魚で種類が違うの。魚がいるからイコール海ではないね」


 なるほど。確かにそうだ。

 学んだつもりだったが、実際に見ると知識ではわからないことも多い。

 これが、経験というもの。


「ふふふ」


 嬉しい。楽しい。

 私が今まで見聞きしたこと、それはすべて氷山の一角に過ぎない。世界には多種多様の人であふれていて、見たこともないものが存在している。


 そう、この世には未知が溢れていたのだ。

 私だって、この広い世界にとっては、有象無象の未知の一種に過ぎない。もしかしたら、ここで私は”普通の人”なのかもしれない。

 身体が溶けて、空気に浸透していくような爽快感があった。


 イーリス女学院。

 素敵なところだ。


 余りにたまらなくなったので、私は湖に飛び込んだ。ざぼん、なんて音を立てて、水しぶきが舞い、私を涼やかで地上とは異なる空間に誘われる。


「ちょ、マリア! 何してるんですか!」


 シクロがあわあわしているのが面白い。

 全身を水に浸した私は、浮き上がってからシクロに手を振った。


「気持ちいいわ! シクロも来る?」

「え、えっと、私は」

「冗談よ。せっかくおめかししたんだものね」


 本当に入ろうとしていたので、私は彼女を制した。


「……マリアもそれは同じでは」


 胡乱な視線は受け流した。

 私は本能を大事にしているからいいの。


 体から力を抜く。ぷかっと体が浮いていく。重力を無視している。普段から解放される。

 初の全身浴が気持ちよくて仕方がない。

 水は浴びるもので、泳ぐことなどしたことがない。そもそもこんなに大量の水を今まで見たこともない。涼しくて、ぷかぷか浮かんで、不思議な気持ち。

 腕を回して、水をかく。すると若干の抵抗を受けた後、身体は前に進んでいく。


 私の近くを魚が通っていく。あるいは、慌てて逃げ出していく。慌てなくても、私だって生で魚は食べないわ。私は人よりも貴方たちに近いのかもしれないし。


 なんてね。

 楽しい。


「マリアー。早く上がって着替えてよ。今日これから、学院の人と打ち合わせるんだからさ」


 イヴァンの声。「そ、そうですよ。時間が……」と、シクロの声。

 イヴァンが呆れて落ち着き払っているのに対して、シクロは不安そうに慌てている。

 二人とも同じ状況のはずなのに、対応が違って面白い。


 これが、人の個性。

 私が好きな、二人の反応。

 石を投げれば、水に起こる波紋のように、人は個性的に色んな反応を返してくれる。色んな私を見させてくれる。


 それが、私。

 ここには、私と同年代の少女たちが多数いるらしい。


 どんな子たちかな。

 かわいい子かな、面白い子かな、それとも、化け物みたいな子かな。

 なんでもいい、どれでもいい。


 全部、きっと好きになれる。

 私を知ってもらって、好きになってもらって、私を心の中に入れてもらって。


 そうすれば、私がわかる。

 他人の瞳に映ることで、私は私になる。

 もっともっと、私の知らない私が知りたい。

 ここでなら、それができそう。


 私は楽しそうな未来を思い描いて、目を閉じた。


「……何してんだ」


 低い声。

 あまり聞き覚えのないそれは、男性のもの。

 孤児院ではほとんど聞くことのなかった、野太くて、私とは明確に種が違うと思える声。


 湖に浮いたまま、その場で私は目を開けて顔をあげた。

 気だるげに開いた目、手入れされていない無精ひげ、刻まれたほうれい線。湖の淵に立って、私のことを胡散臭そうに見つめている。


 私は笑った。


「初めまして。私、マリアと申します。本日からこのイーリス女学院でお世話になります」


 その男性は私を不可解なものとして心の中に入れ込んでいた。


「……ああ、よろしく。上からは問題児が来るから注意しろとだけ言われてたんだが、なるほど、その通りだな。二十年近い教員人生で、湖の中から挨拶されたのは初めてだ」


 手を差し出されたので、近づいて行ってその手をとった。そのままぐいっと引っ張られる。男性は女性よりも基礎筋力が高いと聞いていたけど、確かに力強かった。


 まあ、私やイヴァン、シクロよりは圧倒的に弱いけれど。


 私は陸に上がって水をぼたぼた落とす。びっちょりと張り付いた衣服が私の造形を明らかにして、私のカタチがわかって、気持ちいい。

 男の教員はあからさまにため息をついて、


「顔はいいのに性格は残念な子だな。俺はミドル・ライゼフ。ここの教員で、おまえのクラスの担任になる。よろしく頼む」

「ご丁寧にありがとうございます」


 イヴァンとシクロが近寄ってくると、ミドルはそれぞれを指さした。


「んで、おまえらがイヴァンとシクロか。確かに突飛な見た目してんな」

「マリアほどではないですよ」とイヴァン。

「よろしくお願いいたします」とシクロ。

「まあ、こいつよりも問題児じゃなければそれでいい。俺の迷惑になるような行動は控える様に。おまえらの部屋を教えてやるから、さっさと着替えて戻ってこい」


 彼に促されて、私たちは歩き出した。

 びちゃびちゃで、物理的に重い足取り。

 けれど軽い調子で、私はついて行った。



 ◇



「おまえたちは運がいい」


 私たちは一度部屋に戻って用意されていた制服に着替えた後、ミドルに連れられて校舎内を歩いていた。


 学院。

 その中身は、教室と呼ばれる大部屋の集合体だった。廊下に面して、多くの教室が連なっている。保健室、特別教室、図書室などと案内され、いずれの機能をも理解した。要は生徒にとって、十全に勉強に打ち込める設備が整っているという事。目的は違えど、少しだけ孤児院と似ていた。


 今、その中には人が誰もいなかった。

 私たち三人と、ミドル。四人分の足音だけが廊下に木霊していく。


「運がいい、とは?」

「ちょうど年度末が終わったから、春休みを経て、あと二週間もすれば新学期になる。新規入学者が続々やってくるだろう。急に入学が決まったおまえたちも、転入生ではなく、新入生として入学できるってことだ。途中入学よりも、他のやつらとつるみやすいだろう?」

「違いがわかりません」


 孤児院は途中でやってくる人ばかりだったから。


「すでに出来上がったコミュニティに入るより、お互い手さぐりのところから始めたほうがいいだろ?」

「そういうものでしょうか」


 ただ、確かに私とイヴァンのような関係を考えれば、そうなのかもしれない。

 イヴァンはずっと私の近くにいてくれた。物心ついた時より一緒にいた存在。家族にも似た絶対。

 そんな風に親しくなれるのなら、大歓迎。


「色んな子と仲良くなれたらいいな」


 微笑む。

 ミドルが私を横目に見てきた。


「……おまえたちのことを、俺はあまり知らされていない。だが、こんな時期に入学をねじ込まれ、うち二人は覚醒遺伝持ちとくる。この学院の門扉をくぐるのは容易じゃないぞ。貴族さんだって厳正な審査が入る。……きな臭い何かを感じざるを得ないな」


 胡乱。猜疑心。

 私に向けられるのは、そんな色。


 だから私は、上書きするの。清廉潔白で、何も知らない、マリアで。

 ミドルが望んでいるのは、そんな私。


 笑う。


「私もよくわかりません。私は親の顔も知らないし、生まれからずっと孤児院です。イヴァンもシクロも、私と同じところの出身。二人とはとっても仲良しで、一緒に居られて嬉しいの。そして、二人以外にまた仲良しが増やせることは、私にとって幸せ。だからここに来られて、嬉しいんだわ」


 全部、嘘偽りない言葉、本心。

 だが、ミドルの欲しい回答ではないだろう。


 あえて、ずらす。

 化け物の私を見せない。

 普通の人にとっては、化け物は見せる必要もない。私は、隠せるのだ。普通の人の皮を被って、笑えるんだ。


 学んだ、学んだ。

 競売の会場で、大勢の人の瞳の中に入って、私は私を学んだ。


 どうすれば普通の人なのか、その尺度を。何が好かれる回答なのか、その具合を。

 ほら。ミドルの表情から険が溶けていく。私を何も知らない可哀そうな少女だと勘違いしていく。


「……まあ、そうだな。疑うようなこと言って悪かった。おまえ自身も知らないという事もあるからな。上の考えはわからない」

「どういうことですか?」


 小首を傾げる。

 疑いを知らない、汚れ無きマリア。

 この子を、あげるわ。


「なんでもない。俺の言ったことは忘れてくれ。とにかく、上からはおまえを見張れと言われてる。何が理由かは知らないが、大人しくしていてくれよ」


 校内を一周し終わった。

 その後、ミドルは昇降口まで私たちを連れてくると、「入学式までは、あと二週間。それまでは待機だ。寮に戻って大人しくしてろ。食事は寮の食堂で。次々に新入生が入ってくるから、望み通りに仲よくしとけ」


 手で追い払われ、私たちは学院を後にした。


 学院は広大だ。

 敷地には、湖、原っぱ、小規模な森が配置されている。そして周りを囲んでいる、人の上背二人分ほどの塀。


「なんというか、大きくなった孤児院ですね」

 シクロがキョロキョロしながら、「また閉じ込められてます」と、ため息をついた。

「広いだけいいじゃない。少しずつ、外を知っていきましょう。私は貴方が近くにいるなら、どこでもいいわ」


 私が微笑みかけると、シクロの顔もほころんだ。


「勿論、私もです。孤児院で想像していた恐ろしい未来からすれば、天国ですしね」

「マリアの好きにしたらいいよ」


 イヴァンも笑っていた。


「一応、気をつけておいて。第二王子が言っていたように、マリアは今後、狙われる対象になる。人さらいや、政治の道具にされたりするんだと思う」

「怖いわね。ふふ」


 笑ってしまう。

 むしろ、狙われたい。攫われたい、道具にされたい。

 私を、私の知らない状況に、状態にしてほしい。


 未知。未知。知りたいわ。


「まったく。そんなこと思ってないくせに。でも、そんなことはどうでもいいよ。私ができるフォローはするから、マリアは好きにして。ここなら孤児院にいた時よりも、色々できるだろうし、マリアのしたいことも増えてくると思う。何をしたって、私はマリアの味方だから」

「……」


 じわじわと脳髄を蕩かし、

 ぞくぞくと体の表面をなぞる。

 そんな、感覚。

 ああ、私も、同じ気持ち。

 貴方のためなら、全てを差し出せる。


「イヴァン。私は、貴方を味方だなんて思ってないわ。多分、家族、みたいなものだと思ってる。絶対に離れることはなくて、一生、硬い絆で結ばれているの」


 イヴァンの頬に手を添える。朱い目が潤んで、普段の冷静な彼女ではなくなっていく。

 好き。

 好きだわ、イヴァン。


「マリア……」

「わ、私は!? 私はどうなんですか、マリア!」


 シクロが顔を差し込んできた。

 焦って困って嫉妬して、可愛い。

 当然、答えなど決まっている。


「貴方も家族よ。一緒に学んでいって、成長していきましょう」


 そうして寮に戻った。私たちには個室、三人分の部屋を割り当てられていたが、結局一人部屋で夜を明かした。


 気持ちよくなって、不安を安心に変えて、溶け合って。

 家族と言ったが、多分家族以上の絆。

 血よりも固くて重い、絶対の鎖。


 深く絡ませて、がんじがらめにして、私はイヴァンに、シクロになっていく。

 こんな、関係を、広げていけたら、素敵ね。

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