第14話
初めて出た外の世界に驚いた。こんなに世界には人が溢れているのかと思った。
馬車の暗幕の隙間から、外界を見つめる。夜の歓楽街は陽が落ちているのに光に溢れ、賑わい、進んでも進んでも人人人。孤児院で少女しか見てこなかった私にはすべてが未知だった。
初めて見る店、初めて見る他人、初めて見る男性。
あらゆる初めてが私の視界を埋め尽くし、気分を高揚させた。
右も左も喧騒ばかり。楽しそうに、嬉しそうに、声が流れていく。
十二歳になって、今日は私の披露会。舞台の前に立って、私という商品の価値を知らしめる日。私の価値が定まる、大切な日。
「マリア」
対面に座った修道士が、外から視線を外さない私を諫めた。
私は彼女に笑いかける。
いつもの修道士の服ではなく、ドレスでめかしこんだ”お目付け役”は、私を見て、身体を震わせた。
怯えている、怖がっている。
ワタシを。
もう、私は笑顔一つで他人を操れる。どうとでもできる。
私は、化け物。人の心を喰らう化け物。
「ふふ」
「ほら、マリア。もっと綺麗に笑って」
隣に座るイヴァン。
私と同じようにドレス姿。紅いドレスは彼女の銀髪と赤い目によく似合っている。
その綺麗さに、美しさに心を奪われて、思わず顔を近づけると、手で制された。
昨晩、私の価値が下がるだのなんだのと言われて、イヴァンからスキンシップは禁止にされた。昨晩は今日の分までいちゃいちゃしたから欲は収まっているけど、少し残念。
「綺麗よ、イヴァン」
だから言葉だけ伝える。
イヴァンは「マリアの方が素敵だけどね」と笑った。
私もドレスを着ている。白が基調になっているから、汚さないように転んだり食事をとらないようにと厳命された。
逆に、黒色のドレスはシクロのもの。
綺麗な服装に身を包んだ彼女。されど本人は青い顔をしていた。沈痛な面持ちで口を開く。
「マリア……。好きでしたよ」
「どうして過去形なの?」
「今日で私の人生は終わるからです。マリアと一緒に売ってもらっても、私だけ除外されて、何かの実験台にされるんです。犬と交尾させられたり、身体に花火を括りつけられて笑われたり、逆さ吊りにされて放置されるんです」
本当にそんなことされるの?
「悲観的ね」
私は、笑う。
安心させるように、包み込む様に、朗らかに。
「大丈夫よ、シクロ。私の傍にいれば、貴方は大丈夫」
どんな災厄からも危険からも、守ってあげる。
――私の傍にいれば、だけど。
だから、貴方は私の傍にいなければならないの。
祝詞。あるいは、呪い。
私は貴方の傍にずっといたい。だから、貴方にもそう思ってもらいたい。そう思うのは、いけないこと?
私がシクロの頭をなでると、シクロも安心したように笑った。
馬車が止まる。
修道士が外を見て、「着いたようですね」と呟いた。
◇
そこはとても大きい建物だった。道中に建物はいっぱいあったけれど、その中でも最大。孤児院の家の数十倍。よって、中に入れる人の数も、今までの人生で見たことがないくらい。
話を聞くと、昼間は演劇や演奏会でも使われるらしい。できることなら見てみたいし、聞いてみたいわ。
馬車から降りて、裏口を通って中に入って、今は舞台の袖。
そこに立って会場の様子を窺うと、ざわついているホールには人が満ちていた。半月状に開かれた客席に所狭しと人が座り、舞台上の司会に視線が注がれている。段々に配置された席の上、身分が明かされるとまずい人もいるからだろう、誰もが顔の上半分をマスクで覆っていた。
十、百、千――。
いっぱい人がいる。これでも人口のほんの一握りらしい。
世の中にはこんなにも人がいるのかと驚いた。
イヴァンのような、シクロのような外見の人はいない。なるほど、彼女たちが特別だと言われる理由も少しわかった。
でも、女性だけの世界で生きてきた私にとっては、イヴァンよりシクロより、ここにいる多くの男性の方がイレギュラー。髭も禿げ頭も、今まで見たことがない。
そんな知らない存在に、今から私は買われる。
しかし、イヴァンのような達観も、シクロのような悲観もなかった。
人は人。男だろうが女だろうが、そこは変わらないでしょう。人間と言う枠組みから、普通の人は、抜け出せない。
だから、私は捨てられたのだから。
「ふふ」
笑って、前を向く。
思考を切り替える。
私は、オトコにとっての理想のオンナ。
あらゆる欲望を受け止めるモノになる。
あらゆる輝きを纏う宝石になる。
あらゆる愛を受け止めるオンナになる。
さあ、貴方たちにとっての、私を教えて。
司会が何やら口上を述べて、私の方向に手を差し伸べた。
事前に教えられた通りに、私はゆっくりと舞台の上に進んでいく。
照らされた舞台の上。私に幾千もの視線が向けられる。
その感情は数多。期待、当惑、歓喜、無関心、――エトセトラ。
一度に多くの感情に晒され、私は感情が高ぶるのが抑えきれなかった。
ワタシという存在に、意味はない。
けれど、人の視界に映る私には意味がある。
ゆえに、この瞬間。
数えきれない視界の中に入った私は、確かにここに存在していた。
大勢、全員、みんなの中で、生きている。
私は、一人ではない。
「マリアと申します」
一言、口に出す。
修道士からは自分を売り込むよう口上を教えられていたが、その必要はないと判断した。
私は、できる。
この数多の視線、全てに応えることが。
期待を持った人には、満面の笑みを。
疑念を孕んでいれば、目じりを下げた優しい微笑みを。
無関心を貫くのなら、唇を尖らせた拗ねたようないたずらを。
戸惑ってるようなら、無邪気で無垢な笑い声を。
嗜虐に塗れていれば、少し目線を落として弱弱しさを。
真剣に凝視されたら、理知的な流し目を。
私の視界に映るすべてに応える。彼らの瞳に映るマリア。期待を裏切らず、期待に沿って、期待を超えていく。彼らの心の底に潜ませた欲望を暴き出し、それに対応できるマリアを、差し出してあげる。
各々の瞳に、”彼らのマリア”が映りこむ。
全部、私であって、私ではない。
けれど、貴方たちが望むのなら、その姿になってあげる。
人の瞳に映し出される希望の存在。それが私。
さあ、どうするの?
マリアは問いかけているわよ。
そんな理想の女に、貴方はいくら、支払うの?
私の挨拶から、しんと静まった会場。隣に立つ司会すらも、何も言わなかった。気持ちいいくらいの静寂。
「百億!」
声が響く。
客席の中段。少し小太りの男性。
私に愛情を求めているのね。愛妻にしたいのだわ。
その視線に対して私が返すのは、慈愛、そして少しのわがまま。優しい笑顔に、少し目つきに険を込める。
やっぱりこれがほしかったようで、少し不安げに挙げていた手に、力が宿った。
「百二十億!」
次に挙がる手。
私を厭らしい目で、嬲るように見つめてくる、大柄な男。
私は怯える様に視線を逸らした。窺うように、ゆっくりと視線を戻す。満足そうににやついた顔がそこにはあった。
「百五十億!」
同じように、
「二百!」
声のたび、
「三百だ!」
私は、理想を暴き出し、再現する。
上がる、上がる。
私が望み通りに笑えば、踊れば、それだけ私にかかる価値は吊り上がっていく。
私は、化け物。
けれど、ここにいる人たちには、自分の理想、人間の美女に見えているに違いない。
笑いを、噛み殺す。
こんなにも他人を狂わせる人間が、人間なわけがないのに。人の理を壊している人間が、人間を名乗れるわけもないのに。
でも、それが嬉しくもあった。
私には今、人を超える価値がついている。
私は、人ではない。
でも、人を超えているんだわ!
「千」
ざわっと、会場がざわめいた。
奥の方に座る偉丈夫。彼が胸を張って応えていた。
千億。トップクラスの人間の資産の十個分。
それは、高いのか低いのか。私の本来の価値的には、どうなのだろうか。
それだけ、なの? それとも、そんなに、なの?
「出ました! 千億ドリム!」
司会の人が大声を出す。彼は興奮しているようだった。そして、もう十分だと瞳が笑っていた。嗜虐的に、猛禽類のように、獲物を見つけた獣だった。
同時に、自分が噛まれることを全く予想もしていない、哀れな道化だった。
もう十分?
たった、千億ドリムで?
――阿呆め。
私は、他の方々を見渡した。
もう、終わり?
私を買えるのは、今だけなのに?
そんな寂しさを、悲しさを、楽しさを、愉快さを。
もう終わりかと煽る様に、
他の人に買われて大丈夫かと心配させるように、
貴方に買われたいと懇願するように、
今でしか買えないとそそらせるように。
私は、笑うだけ。
ただ、笑っているだけ。
すると、声はまた上がっていくの。
とっても不思議。
「千百!」
「千五百でどうだ!」
「俺は二千出すぞ!」
もっと。もっともっと。
もっと!
私を、私の価値を、教えて?
「ちょ、ちょっと、え……」
司会の人の困惑を置いて、声は増え続ける。
もう、掛け声に金銭的な価値はない。脳など回っているはずもない。
払えるかどうかなど、すでに度外視されている。どれだけほしいかどうか、それが試されている。
人としての矜持を奪われ、私との未来に心を喰われた、亡者たちの鳴き声が続いていく。
ふふ。
ふふふ。
わかる。わかる。私をどれほど求めているのか。欲しがっているのか。
私がどれほど求められているのか。
身体が震えるほど、――最高。
人に求められることは、こんなにも素敵なことなのね。
教えてくれて、ありがとう。
「一兆!」
「い、一兆ドリムが、出ました! 出ました、けど……。あ、貴方、払えるんですか!?」
司会の心配そうな声。
一兆。
トップクラスの人間の、百回分?
それくらいなら、私の価値になるのかもね。
でも、
まだ、
足りない。
そうでしょう?
司会も、私と同じ化け物。人を利用し、煽り、その金を、心を喰いばむ、人ではない類の存在。
仲間だと思ったので、同意を取るように、司会と目を合わせた。
私はまだいける、それを伝えた。
その眼の中にいた私は、まぎれもなく化け物だった。司会の人だけが、私の本性を見てしまった。
引きつった顔になる。
私の化け物についてこれていない。
残念。貴方はただの人だったのね。
「お、お客様各位には申し訳ございませんが、本日の競売は、これで打ち切りといたします! また後日、日を改めて、マリアの競売を行いますので、まずはご冷静になってください!」
当然沸くブーイング。
色んなものが舞台に投げ込まれた。
木片、ガラス、杖とか。どれもが舞台の上でバウンドして、壊れて、辺りを汚していく。
でも、私には飛んでこない。当たらない。
誰もが私を勘違いしているから、私を心の中に入れて、狂っているから。
かわいそうな孤児だと、閉じ込められた令嬢だと、自分が助けるべき姫君だと、心を捉えられたから。
傷つけてはいけないと、本能的にわかっているんだ。
違うのに。私は、ただの化け物なのに。
おかしいわね。
「マリア!」
袖から修道士に呼ばれた。
私は袖に捌けていく。すると、会場のブーイングはまた苛烈になった。
これも、私の価値を上げる調味料になる。
「ふふ」
袖に入ると、笑いが抑えきれなかった。
簡単。簡単。
人を乱すのなんて、狂わせるなんて、簡単。
だって、ワタシ、化け物だもの。
私のできることがわかって、良かった。
「……マリア」
修道士は複雑な顔をしていた。価値が上がって嬉しい。価値が上がりすぎて不安。わかるわ、その気持ち。
「どう? 私、一兆の女になったのよ」
数字自体に価値はない。
ただ、今も鳴り響く怒号が、私を価値づける。
「これで満足?」
「え、ええ、素晴らしいわ、けれど……」
「次の時には、また価値を上げるわ。いくらほしい? 十兆? 百兆?」
それも可能に感じられた。
これからの人生を棒に振っても、これまでの人生をドブに捨てても、私との未来を想像してしまった人は、もう戻れない。私なしの人生など、すでに思考の外だ。私のない人生など、あり得ない。どこかで後悔が滲んでしまう。
それくらい、私は彼らの中で絶対的になった。
たった十分ちょっと。長い人生の中では掠っただけような時間。でも、私には十分すぎた。
「……」
修道士は顔から色を失くした。
想像できない額は、人から思考を奪うらしい。
「今日は終わりみたいなんで、帰りましょうか。控室のイヴァンとシクロにも声をかけないと」
修道士の横を抜ける。
結局、私が帰るときになっても、喧騒が鳴りやむことはなかった。
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