第6話 勘違いは突然起こる

 マリアは家庭教師との初授業まで必死で本を読んでいた。1冊目は基本的な内容であるとかいてありながら内容が全くわからない。しかし、なんとか一冊読み終わり次の本を読む。それを繰り返していけばある程度理解が進みわかる事も増えてきた。


「私、本当に何も知らなかったのね」


 自分の食事がどうやって賄われているのか、自分達の服はどうやって作られるのかは税金の仕組みを知って初めて当たり前ではないことを知った。わからなかった質問をまとめて読み終わったものを積み上げる。


「マリア様、ダンスのお稽古の時間です。着替えましょうか」


「はぁ、分かったわ」


 不満そうな顔をしたマリアにザラは微笑む。メイドを呼びマリアの着替えを手伝う。


「マリア様はダンスも楽器も天賦の才ありと先生方もおっしゃっています。辞めてしまってはもったいないですよ」


「そうよね。先生にも失礼よね。でもね、本当に大切な事ばかりかいてあるのよ? これは男性だけではなく女性もみんな勉強するべきではないかしら?」


「まぁ、マリア様は面白い事をお考えになるのですね」


「やっぱりおかしな事かしら?」


「ええ、ですが、私にはとても素晴らしい事に思います。あぁ、他の国では女性も勉学に励む国があるらしいですよ」


「まぁ、そうなの?とっても素晴らしいわね。帝国もそうなればいいのに」


「マリア様、帝国令嬢が学ばなくていいのは帝国の豊かさの表れですわ。女性は子供を産み育てることが役目。きっと他の国では女性も働かなくては生きていけないのですよ」


___ザラはそういうけれど、本当にそうかしら? 少なくともこんなに面白いことが学べるなら私は帝国よりもその国の方が豊かなきがするわ__


 マリアのこの考え方は帝国の普通とは変わっているのだが。このままでは、帝国の行先はあの未来である。お稽古用のドレスに着替えていつものように首のアザを隠すチョーカーをつけようとしたところでザラが気づいた。


「あら、マリア様、首のアザ少し薄くなりましたか?」


「え?」


 そう言われてマリアが確認すればたしかに首元のアザが若干薄くなっている。

____それまで何をしても変わらなかったのにこうして色が薄くなるなんて___

 マリアにとって首を落とされたことの象徴だったそのアザが薄くなるという事は、自分の努力によって未来がマシな方に行っているという意味に思えた。


「よかった」


「ええ、本当に。すぐに良くなりますわ」


_________


「本日もよろしくお願いします。マリア様」


 にこやかに微笑むダンスの教師にマリアは笑みを返し、その隣にいる茶葉に緑の瞳をした若い男性に意識を向ける。茶色のふわふわとした髪と丸い瞳がどこか小型犬を思い浮かばせた。


「先生、こちらの方は?」


「挨拶が遅れ申し訳ございません、マリア様。王立音楽学校にてピアノを学んでおります。テオ・フォン・フォーゲルと申します。マリア様の音楽、芸術の才能を聞きおよびまして、先生にわがままを言いました」


「まぁ、バイオリンの先生の。はじめまして、先生にはいつもお世話になっているわ」


 王立劇場といえば帝国で最も地位の高い劇場であり、そこに所属しているフォーゲルといえば音楽をしている者なら誰であっても知っているような名家だった。フォーゲル家は初代皇帝が愛した音楽家の一族であり、その伝統を守り生まれた時から皇帝の催物などに真っ先に声がかかり、時には皇族の音楽の家庭教師となる。そして、音楽に卓越した才がない場合、廃嫡されるという一族だった。


「でも、先生、今日はダンスのお稽古だけではなくて?」


「ええ、そうです。しかし、これは私のわがままなのですが、一度だけでいいのです。マリア様のピアノを弾いていただけませんか?」


 先生が深々と頭を下げその後ろでテオも頭を下げる。テオが自身の父のツテではなくこのダンスの教師のツテでここにきたのは訳があった。テオは13歳であり、フォーゲル家では15歳までに一定以上の才が認められない子供は養子にだす。そして、フォーゲル家三男のテオは未だその才能を開花させていなかった。テオは父に言われた言葉が頭をよぎる。


___本来楽しませるべき皇族の方々よりも下手に楽器を弾く者がいるなどフォーゲルの恥晒しだとは思わんか?___


 深い落胆と共に言われたその一言がトラウマとなり、テオはピアノを前にすると体が硬直して何も弾けなくなっていた。それを見てテオの兄弟は心配や嘲りから口々にテオにさまざまな言葉をかけた。アドバイスであってもテオには受け止められるだけの余裕がなく、テオはますます鍵盤を弾く手は重く感じた。

 そんな時に、皇女にダンスを教えている、教師に声をかけられた。未熟なテオが皇女に会ったなど、テオの父にバレたらそれだけで折檻ものだがテオにとって自分を地獄に叩き落としたこのマリアの実力をみたいというのは当然の感情だった。


「マリア様は皇女、当主ならいざ知らずその子供の為にお手を煩わせようなど失礼ではないですか? 私はザラメイド長にマリア様を任された身、メイド長がいないからと言って、そのような事が許されると思いますか? そも、この件フォーゲル家当主様は知っておいでですか?」


 メイドの冷たい言葉にテオは血の気が引いた。すぐに謝って退室しようそう思って口を開こうとしたテオより先に教師はまた頭を下げた。


「今回の件、私の独断でございます。マリア様、どうか罰するのであれば私をそして、どうかフォーゲル侯には御内密に」


「先生、なんで、もう僕は」


「彼は、音楽や芸術を愛する才能があります。それに、天性の審美眼を持っています。その才能はピアノがうまい、楽器がうまいよりも時には役に立ちます。どうか、マリア様」


 その言葉を聞いてテオは胸が熱くなる。そしてみずからもさらに深く頭を下げてマリアの言葉を待った。テオに声をかけた教師とテオはそこまで深いつながりがあるわけではなかった。ただ、このダンス教師は昔に一度テオの奏でるピアノを聴いた。その時の軽やかな音と楽しそうにピアノを奏でるテオの姿に胸を打たれた。ただ、それだけの理由で十分だとこのダンス教師は思っていた。

 一方マリアはこの現状に静かに驚いていた。マリアとしてはダンスの授業がピアノになろうが別に大したことではない。そもそも、マリアは皇族でありながら権威や地位についてよく分かっていなかった。それにフォーゲル家のお家事情なども知らなかったからこそ、なぜ二人がここまで必死に頭を下げるのかわからなかった。


 でも、マリアはゆっくりと瞬きをしてから微笑んだ。


「いいですよ。でも条件があります」


「じょ、条件ですか?」


「ええ、ピアノを弾く代わりに少し早く授業を終わっていただけませんか? 早く終わったあとはテオ様がピアノを弾いていてください」


 現在マリアにとって優先順位はなによりも今日ある新しい授業と授業の予習だった。だからこそこの交渉をしてやろうと思い立った。しかし、踊ってないのが母にバレると少し困るのでテオがピアノを弾いて音楽に合わせて踊っていた事にすれば良い。マリアは無知だがこういう細かいところには頭が回った。


「そ、そんな、俺は」


___ピアノが弾けない__

 そう言いかけて口を閉じてテオは頷いた。覚悟を決めるときは今だとテオは思った。テオは、マリアがフォーゲル家の内情をしり、ここまで自分達に譲歩してくれたんだと勘違いした。


「ごめんなさいね、フレン。わがまま言って」


 メイドのフレンにそう言って微笑んだマリアにフレンは慌てた。マリアが「自分のわがまま」と言った事で教師の申し出に意を唱えた自分の面子も守られた。マリア様は他の上流貴族の自分よりも地位の低い人々に責任を押し付けたりせずに自分が責任を負おうとしている。


「出過ぎたことを申し上げました。申し訳ございません」


「いいのよ。でも、ザラやお母様には黙っていてね。二人の、いえ、四人の秘密よ」


 そう微笑む可憐な皇女にテオは驚いた。帝国で最も地位の高い女性の一人である皇女がここまで理性と慈愛に溢れている事に感動し、同い年でありながらこの思慮の深さの違いを恥じた。マリアはピアノの前に行き、椅子に座ると細く白い指がピアノを弾く。軽やかな美しい音色はまるで一つ一つが真珠のようにテオは思えた。窓から柔らかな光が差し、部屋に光が入る。豪華な室内がまるで神聖な空気を纏って見え、あまりの神々しさに瞬きも忘れてその光景を見つめる。


___あぁ、ピアノが弾きたい___

____この方のために____


 心の底からそう思った瞬間それまで鉛のように重たかった手がふと軽くなった気がした。久しく忘れていた手の指先にも血が通うような感覚にテオは驚く。最後の一つの音が終わりマリアは席をたつ。


「もう、大丈夫かしら」


「はい、はいっ!ありがとうございますマリア様!!」


 マリアはもう稽古を切り上げていいかという意味で尋ねた言葉にテオは自分を心配している言葉だと勘違いした。


「え、そ、それじゃあ、私は行きますね。テオ様、先生によろしくお願いします」


「はい、必ず父に認めてもらえるように、マリア様の優しさに報います」


「は、はい。応援しています」


 マリアは少しテオと自分の間に認識の違いが生じている事に勘づいたが知らないふりをした。マリアはフレンと共に部屋を出てすこし罪悪感がわく。マリアは終始自分の利益を追求していただけなのになんだかすごく感謝されてしまった。


___多分、テオ様もなんだか勘違いしているけれど、言い出すのも遅いというか違う気がするし___


「マリア様はお心が広くあらせられるのですね」


「えっ」


「あのように、美しい行いをフレンは初めて見ました。マリア様、フレンはマリア様のそばに仕える事ができて幸せです」


「あ、ありがとうフレン。私もフレン達がいてくれて本当に助かっているわ」


 フレンの純粋な尊敬の眼差しがマリアにとってさらに罪悪感と重責に感じた。しかし、マリアはフレンの言葉を否定できなかった。


____前世ではこんな事全く起こらなかったのに、なぜこんな事に_____


 前世ではマリアはこの時には、まだピアノもバイオリンもダンスもそれほど上手くなかった。しかし、前世の18年の記憶と経験値があるマリアはこの時すでに帝国令嬢が必要とされるスキルは全て高水準で備えていた。つまるところそこが違いなのだがこの時のマリアはそれに気づかない。


 トラウマを乗り越えたテオがピアノを弾く楽しさを思い出し、才能を開花させ帝国の音楽史にその名を残す天才になるのはまだ先の話。

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