第5話 家庭教師への依頼

 帝国のシンボルとして使われているのは薔薇と獅子であり、皇族の家紋や皇族にゆかりがある場所には必ずそのシンボルが使われている。

 そして王立ローザ・リヒトオーフェン学園は初代皇帝が妻の名前を冠しつけられた帝国で最も古く最も格式高い教育機関である。広大な敷地と歴史ある重厚な建築物は帝国で美しい建築物の一つであるとされており、その校章に薔薇と獅子がついている。卒業生は官僚としての華々しい人生が約束され、併設されている士官学校を卒業すればエリート軍人として一生を確約される。

 その一室であるちょっとした事件が起こっていた。


「皇女殿下への家庭教師? 失礼、部署はここで間違いありませんか?」


 訪ねてきた使者に対し、灰色の髪を後ろで一つにまとめモノクルをつけた美青年は戸惑いながら返答した。青年はラルフ・フォン・シュバルツといい、彼が所属する王立高等教育部門という部署は皇族及び上流貴族の子息を教える家庭教師が所属し後続を育成する機関である。そのため、皇族の子息の家庭教師を求めるならばこの部署が正しかった。しかし、ラルフが尋ねたのは皇女であるマリアに対し、皇子や貴族の子息に対し教育を行う機関であるこの部署がふさわしいのかという意味だった。帝国の女性は基本的に帝王学、経済学などは学ばず一般的なマナーやダンス、楽器を習う。


__確かに一般教養として簡単な国の仕組みを教えたりすることはあるが___


「皇女殿下は国の制度について学びたいとおっしゃっております。皇帝陛下からも優秀な家庭教師をおつけになるようにとのお達しです」


 ざわつく部署の中で、使者は指令の紙を残して去っていった。皇族の子供への教育係など、普段なら我先にと誰しもが飛びつく役職であったが今回は誰も飛び付かなかった。家庭教師になり上流貴族や皇族の子息に認められればその領地でお抱えの教師もしくは高位の文官としての職にありつける。しかし、皇女の教育係など受け持てば「飽きた」の一言でその任を解かれかねない。子息にとって必須の教養であっても皇女には無用の長物、その一点において皇女は勉学をいつでも止めることができてしまう。そんなことをしている間に他の上流貴族からの要請を逃せば自分の人生を棒に振る可能性すらある。政治や帝王学などを教える教師であれば、たとえ皇族の皇女であろうと、上流貴族の子息に仕えた方がいいというのが帝国の実情だ。


「皇帝陛下は何をお考えだ?」


「まぁ、皇女が無知でいるよりはと考えたのだろう。皇帝陛下は何か深い意図があってのことだ」


「そうであればこの大役、ラルフ、君が行きなさい」


 普段から名君と名高い皇帝陛下を敬愛する高等教育部の面々も今回ばかりは首を捻る。そして、こういう旨味の少ない仕事は最も階級の低いラルフに回ってくるのが常であった。ラルフは平民出身だったが辺境の下流貴族の一人に認められ養子に迎えられた。そのため、名前に貴族を意味するフォンがついていても地位としては下級貴族よりもさらに下になる。出世はほとんど絶望的であると言っても良かった。

 しかし、ラルフはその才能と共に死に物狂いの努力をして若干20歳でこの王立学園にて家庭教師として教職の立場に着いた。地位もないラルフがこの年齢でここまで出世するには実力とコネが全てであり、そのためにどれだけ屈辱的であろうとも耐え、ここまでの努力を重ねてきた。それは全て自分の才能を信じてくれた貧しい家族と辺境伯のためであった。

 だからこそ、出世のためにこんな仕事は受けたくない。


「それは光栄ですが。私はまだ若く皇女殿下に失礼では」


 せめて角が立たないように笑みを浮かべて断るがそれを鼻で笑われる。


「お前はまだ見栄えがする顔をしているし年頃の皇女のお相手にはピッタリだろう」


「存外お気に入りとして飼っていただけるかもな」


「せいぜい機嫌を損ねぬようにしておけよ。皇帝陛下は素晴らしい方だがその娘もそうとは限らぬ。なにせ、ほとんど外に出されぬ箱入りだ。噂ではとんでもないワガママ娘だというのもある」


 その蔑みも含めた視線も、下卑な笑いも、嫉妬もラルフにとっては慣れたものではある。今までさまざまな無理難題もこなしてきたが今回ばかりは内心で頭を抱えた。ラルフは自分の容姿に自信があったからこそ、それを活用し男性しかいない社会でコネを作ってきた。上流階級の子息であれば気に入られることも簡単だという自信があったが皇女に対しそんなことが通用するとは思えない。

 そもそも社交界にも出ず、ほとんど情報が出回らない皇女の人となりは全くの謎であり、だからこそ、そんなリスクのある仕事を避けたかった。しかし、今回ばかりはこの押し付けられた仕事を回避することはできなかった。


「謹んでお受けいたします」


 心の中で悪態をつきながらそう頭を下げた。ここで下手に仕事を回避しようとすれば後ろ盾の少ない自分は簡単に辺境伯の元に戻らされてしまうだろう。そうなることだけは避けなくてはならなかった。ならば早々に皇女への教育という仕事をお役御免になり、上流階級の子息の依頼を待てばいい。考えを切り替えてラルフは頭を下げ、皇女に使っていただく教材の作成を始めた。


___どうして、俺がこんなハズレくじを引かされるんだ。くそっ、いつだって俺たちは上の奴らに振り回されて気まぐれで人生をめちゃくちゃにされる___


「あぁ、くそったれ」


 ラルフの小さいつぶやきは誰の耳にも届かなかった。


 一方、マリアは教師が来る前に少しでも事前知識がいるのではないかと考えていた。本来、帝国では男子は6歳から教育が始まる。マリアはすでに9歳であり、簡単な一般教養は教わっていても本格的な教育が始まれば苦労することは想像できた。何より、貴重な家庭教師がきている時間なのだから無駄にすることはしたくなかった。マリアは元々教えてもらっている家庭教師からも太鼓判を押されるくらいには真面目な生徒だった。


「ねぇ、ザラ、家庭教師の先生が来る前に事前に勉強をしたいのだけどどうすればいいのかわかるかしら?」


「そうですね、本を読んでみるのはいかがでしょうか?」


「国のことについて書いてある本もあるの?」


「ええ、お嬢様が普段読んでらっしゃるのは文学作品ですが、経済や社会に関する本もベルタン家のお屋敷で見たことがあります」


「ザラは昔、ベルタン家に仕えていたのよね。あそこは確か御子息がいらっしゃるものね。それなら簡単な本でいいからいくつか用意してもらいたいのだけど」


「わかりました。では、すぐに司書に用意させましょう。後ほど部屋に運ばせます。それではマリア様、バイオリンの先生がいらっしゃいます」


「上手に弾けたらお稽古の時間減らしてもらえたりしないかしら」


 マリアがそう呟くとザラは困ったように微笑む。昔から素直で受け身だったマリアはバイオリンのお稽古や習い事を嫌がることなんてほとんどなかった。しかし、最近では自主的に何かをしようとしていると感じた。その興味が少し普通のフロイラインとは違うが、そのワガママがザラには好ましく映った。


「先生に聞いてみましょうか。きっとマリア様が上手に弾けたら聞き届けてくださいます」


 バイオリンの準備を終えあとは他のメイドに任せ、ザラは部屋から退室し司書にマリア様のお願いを頼みに向かう。少し遠くで先生のお手本であろうバイオリンの軽やかな音色が聞こえてきた。


 実際にはそれはマリアのバイオリンの音色であり、その音色を聞いた家庭教師がマリアには音楽に天賦の才ありと確信し、この才能を伸ばすために稽古の時間を伸ばすように母に直談判を行うことになるなどその時はマリアも予想できなかった。


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