13 熵

 無定形有形の影がその姿を再度人型に変えようとしていた。闇を押し込めているのにキラキラと輝き、まるで冬そのものを表象するかのようなまっ白い靄をまわりに纏わりつかせている。

 わたしはただガタガタと震えていた。怖くはなかったはずなのに、怖くはなかったはずなのに、と心の中で〈言葉〉を唱えながら……

 すると――

 ふいにその影がわたしの見知ったものの形に変化した。それは?

「先輩!」

 ギリギリとガラス面を擦るような、不安定で、快適をまっ二つに引き裂くような声音で、その人型の影がわたしに呼びかけた。

「里砂ちゃんなのね!」

 一瞬遅れて、わたしが叫んだ。いくら奇怪に変質していたとはいえ、それはまぎれもない工藤里砂の声だったのだ。

「でも、いったいどうして?」

「知性が生き残るための、たぶん唯一の方法だったんです。……この宇宙の変化に対応する」

 影=工藤里砂が答えた。

「先輩はひとつのモニターだったんですよ! それを実行するか否かの」

 ぐっと息を飲み込むと、まるで以前誰かから受けたレクチャーを思いだすかのように、表情をわずかに歪めて彼女が続けた。

「インフレーションはいくらでも宇宙を生みだします。なぜなら宇宙は無からの創造なんですから。重力エネルギーを負とする対概念から生まれた正のエネルギー。……そして泡宇宙」

「それって、どういう?」

 わけがわからず、わたしは聞き返した。けれども影の里砂はわたしの〈言葉〉が聞こえないとでもいうように、

「ワームホールで母宇宙と結ばれた子宇宙、そして孫宇宙、曾孫宇宙、玄孫宇宙と、宇宙は無限に増殖していきます。臍の緒であるワームホールが蒸発すれば、立派に一人前の宇宙に成長して…… あるいは、それは単なる多元宇宙理論からの帰結だったのかもしれません。ひとつの判断には最低二つの解答があり、その度に、量子の波束が収縮せず、あるひとつの〈現実〉が選択されなかったとしたら……。ああ、でもそれはわたしたちには判断できません。わたしたちにできたのは、はるか宇宙の彼方、認識上過去、膨張宇宙の収縮期にいる知性にとっては推定・未来の時間で観測された物理現象のみでした」

(そこで一瞬、わたしの脳裏に純粋・抽象の〈音〉と変じた怪物に、コンピューター・ディスプレイ内から翻弄される宮武ボスたちの姿が映じた。けれども、それはすぐさま記憶の彼方に押しやられ、正しい時間順序としての里砂の〈言葉〉の続きが、わたしの裡に押し寄せた)

「わかりますか? 先輩には、そこで何が観測されたかが……」

 もちろん、わたしには想像もつかない。

「それはエントロピーの異常混乱だったんです」

 と、厳かに工藤里砂は宣言した。まったく、いつもの彼女の口調とは相反している。

「もし宇宙の消費できるエネルギー=秩序の源泉に限界があったとしたら? そして、もし宇宙がいくらでも子供を生み続けるとしたなら? 答えはあまりにはっきりしています。それぞれの宇宙に混沌が訪れるんです。宇宙に子を生む意志が強ければ強いほど、その子供たちはエントロピー的に精薄になってしまうんですよ。使える秩序の総数が限られるので、子供たちのエントロピーはどこまでも増大し、やがてはまったくの混沌に陥ってしまいます。部分的には重なりあってしまうかもしれません」

「でも、単なる多元宇宙理論ならともかく、インフレーション理論では母宇宙と子宇宙、孫宇宙には因果関係がないはずよ!」

 わたしが叫んだ。彼女がいわんとすることが、だんだんとわたしにも理解できてきたのだ。

 宇宙は増える。どこまでも、いつまでも……。ひとつの宇宙が大きくなるというのではない。まったく別の宇宙が無限に生まれ出るのだ。それを説明する理論はいくらでもある。いや、量子力学や宇宙論の方程式とか考え方を煮詰めていったとき、その解答が浮かび上がったという方が正確な表現かもしれない。まったくとはいえないが、少なくとも現時点では実験的に確認できない理論からの帰結。水が沸騰するとき、それに先だって水蒸気が液体の水の中から生じてくる。それが泡宇宙。それは、ゼロ点エネルギーという量子真空の〈ゆらぎ〉が転がって生まれたものだ。インフレーション理論では宇宙は真空のエネルギーによって急激に膨張する。それとともに温度も急降下して相転移を起こし、その際過冷却状態となり、それによって潜熱が解放されてビッグバンが開始される。いや、そんなことはどうだっていい。重要なのは、いま里砂が述べた〈秩序に限りがある〉という指摘なのだ。それが本当かどうか、もちろんわたしにはわからない。いや、本当にわたしにはそれがわからないのだろうか? いまのいままで経験し、そしてこれからも果てしなく続くかもしれない〈わたし〉の混乱。宇宙がたったひとつなら、その事態は起こりようがない。あるいは、それぞれの実在宇宙が完全に因果関係を持たず独立しているのならば……。先の発言でわたしが指摘したのはそのことだった。けれども、もしそうでなかったら? いや、実際にそうではなかったのだから……

「先輩」

 そのとき、工藤里砂が言葉を紡いだ。

「この認識個体の表現方法に習って、先輩って呼ばせていただきますけど、先輩が経験してきた事態は、一見矛盾に感じられる出来事や他人の事象の経験さえ含めて、全部実際に起こるはずのこと、もっと正確にいえば、すでに起こってしまったことなんです。というのは、先輩たちのいる宇宙が収縮期にあるからです。先輩たちの知覚は熱力学的時間の矢の方向しか向けないので、わたしたちのいる過去を未来としか感じられないんです。先輩の脳波がわたしたちに捉えられる特殊なものだったというのは、もはやどうでもいいことでしょう。わたしたちが先輩に送ったはずの正しい情報が、混乱した思考ノイズの発現として、先輩に〈悪夢〉を見させてしまったことも…… 問題は、このグロテスクな事象を回避するためにわたしたちが先輩たちにしてあげられることが〈物語〉でしかなかったという事実です。自ら自由にどうにでも組み上げ可能な〈物語〉になる以外に、いずれ起こるこの事象を『精神に支障をきたすことなく』乗りきることはおそらく不可能なのです。……少なくとも、わたしたちの種族には不可能でした。

もちろん強要するつもりは、わたしたちにはありません。けれども……」

 けれども、そのとき工藤里砂の形をしたものが、あの、わたしの恋人を殺した言語怪物に変化した。わたしが悲鳴を上げる。言語怪物は〈言葉〉を発していた。わたしには理解不能な〈言葉〉を、どこまでもどこまでもグロテスクに……

「キイ語〉にな由にどりまうが先輩イたにでも組る以外テクことな宙が収縮ロシマあせナン期にあんです。とボカジャいうダサ。コレハん」

 言語怪物がしゃべっていた。ヌメヌメと、ブヨブヨと、芋虫のように、ミミズのように、昆虫の腹のように、魚の目玉のように、オニユリの球根のように、アナログ回路のプリント基盤のように、ファージのように、蜘蛛の巣のように、毛虫のように、卵のように、蛇の鱗のように、触手に変えた〈言葉〉を、すでにわたしに突き刺しながら……

「ギャァァァァァァァァァ」

 わたしは叫んでいた。事実を受け入れることができなかった。

 と、そのとき、一瞬だけ、

「わたしたちが利用したのは、先輩たちと同じく異常に繁殖力の強い生殖細胞だったというのに……〈物語〉を語るにはそれが最適だったというのに……それが……それが……それが……このコンタクトは……失敗?」


 そのとき、わたしが感じていたのは身体の内奥からの震動。


 脹れている。脹れている。脹れている。ほら、もうすぐ〈わたし〉が内側から破裂する。                                       (了)


 2023年から30-32年前のお話。

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ミームのファージを放ったもの り(PN) @ritsune_hayasuki

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