黒宮 零の今日の願望

仇

「……こっちもこっちで、かなりひどい光景だなあ」

　――壮佑との通話から数十分後。彼に行った調査続行の宣言通りもう一つの火災現場にたどり着いた零は、かろうじて輪郭だけが残っているその建物を見てため息を吐く。なまじ背の高い建物だったことが理解できてしまうからこそ、もうホテルとしての価値を微塵も持っていないその姿はとても痛々しかった。

　完全に燃えつきたわけでなく、所々にホテルの備品だったと思われる焼けこげた炭の塊がある事がそのもの悲しい雰囲気をさらに加速させる。その一部を映したのであろう写真が無ければ零が腰を上げることもなかったと思えば数奇な話だが、それだけで燃え残りの景色が報われるとは到底思えなかった。

『……あの焼け跡を見た後だと、幾分かは優しい焼き方に見えるけどな。聞いた話だと、こっちのが時系列的にも後の火災なんだろ？』

「分かってないなあ、これもあれも本質的には同じだよ。……この建物に捜査上の価値がなくなったと分かったら、このホテルも人の手によって解体される。こんないつ崩れるか分からないもの、遺しておくだけリスクなだけだからね」

　これで金が稼げるわけでもなし、と零はナベリウスの視点に物申す。零と過ごすうちに少しは人間的な感性が身についてきたとは言っても、本質的な考え方にはまだまだ違いがある事は否定できなかった。

　だがしかし、それが事実だとは言え見下されるような構図になる事には納得がいかない。零の視覚を借りて火災現場のホテルを見つめながら、ナベリウスは必死に思考を回転させた。

『そうか。……つまり、この建物はお前が謎を解くまでの命ってわけだな？』

「うん、だから寿命はいいとこあと二日ってところだろうね。二日もあれば、壮佑君たち警察が命がけで私に情報を回してくるには十分な時間だろうし」

　その思考の甲斐もなく、皮肉を込めたナベリウスの言葉は零にまぜっかえされるような形で処理されてしまう。……だがしかし、今はその事を悔しく思っている暇もなかった。

『……おい。なんだその『犯人はもうわかっている』みたいな物言いは？』

「みたいな、じゃなくてそうなんだよ。実名とかどこにいる人かとか、そういうことは分からないけど、この事件を巻き起こした人がどんな立場の人で、どうやって悪魔に魅入られたかはもうはっきりとわかってる。……だから後は、その悪魔憑きが次に狙うホテルを突き止めるだけだね」

　驚きを隠せないナベリウスとは対照的に、零はあくまで淡々とそう口にする。彼女の中では、もう事件は大詰めなのだ。……一体、零は何を見てどんな結論を得たというのか。

　いくら五感を通じて得られる情報を共有していようと、そこから何を考えているのかと言う思考を共有することは不可能だ。だから、ナベリウスにはその思考回路が理解できない。どんなプロセスを踏めば、調査開始から三時間足らずで悪魔憑きの大まかな人物像を把握できるというのだろう。

「……もっとも、そのターゲットを見極めるにはもう少し犯人像を絞り込んでいかないといけないんだけどね。まだここは二本目のスタートライン、推理って言えるのはここからだよ」

『……それじゃあ、このホテルに来たのもその二本目のスタートラインとやらから前に進むためか？』

　零がホテルの全体像をまじまじと見つめているのを感じて、ナベリウスはそんな風に問いかける。質問ばかりする立場になってしまっているのは悪魔としてあまりいいことではないが、二本目どころか一本目のスタートラインがどこであったかすらも分かっていないのだ。……癪な話ではあるが、零の思考について行こうと思えばその分大量の質問で補う以外に方法がない。

　とはいえ、説明ばかりで零の思考を停滞させるのも望むところではないだろう。そう思ったからこそ、ナベリウスはこの場所に来た理由を問いただそうとしたのだが――

「んや、この場所には仮説の補強をしに来ただけ。このホテルの両隣の建物が焼けてたりしようものなら、私の仮説は全部振り出しに戻さないといけなくなるからさ」

　返って来た答えすらもがナベリウスの期待を裏切るもので、ナベリウスは内心戸惑いを隠しきれない。十年もの間生活を共にしてきたわけだが、まだ彼女を理解しきるには多くの時間が必要そうだ。

　だが、それだけで思考停止していてはいずれ零に置いて行かれてしまう。人間の理解を越えた存在であるはずの悪魔は中々感じることのないであろう焦りの感情に突き動かされながら、ナベリウスは必死に思考を回転させた。

『……お前からすれば、『特定の建物だけが焼き尽くされたこと』が大切だってことか』

「うん、その通り。それが分かれば、まだ悪魔の契約は満了してないってことが自然に導き出せるからね」

　必死に頭を回転させた末の気づきに、零は満足そうな笑みを浮かべて頷く。それが零からしてどれほどのレベルに位置している気づきなのかはともかく、ナベリウスが必死に思考を回転させているという状況自体が零にとっては好ましいようだった。

「どっちの現場でも、ホテル以外の物が焼けてる形跡は微塵もなかった。それはきっと、悪魔憑きになって力を振るった人間の意志だ。悪魔もそれに付き合ってる当たり、まだ協力者として人間の手助けをしてる段階なんだと思う」

『悪魔はまだ協力者に過ぎない、か。……と言うことは、まだ悪魔の意志に添った破壊は行われてないってことになるな』

「うん、多分それで合ってる。……というか、まだ体の支配権は人間に残ってるんじゃないかな？」

　ナベリウスの考えを肯定しながら、零は話を前へと進めていく。零の思考を停滞させてはいけないと思いながらも、繰り広げられてるのはさながら零の推理ショーだ。それも、たった一人の観客のための。

「多分、人間の願いはあと一つだけ残ってる。……それが叶ってしまったら、私たちの負けって言ってもいいかもしれないね。支配権を奪い取った悪魔は、目についた燃やせるもの全てを燃やし尽くすと思うよ。……その中には、契約者が『燃やしたくない』って思ってたものもきっと含んでる」

『人間の魂の大きさじゃ、基本的に叶えられるのは三つの願いまでだからな。……それを知っていたからこそ、お前はさっきあの人間を脅すような真似をしてたのか』

　まるで予言書を読むかのような、淡々としながらも恐怖を煽るようなその口ぶり。壮佑を動かす決定打になったそれは、零の推理の賜物でもあったってわけだ。

　だがしかし、それでも起きうる最悪の未来に対する解像度が恐ろしく高かったことの説明にはなっていない。今一つぬぐいきれなかった疑問にナベリウスが頭を悩ませていると、零はふっと笑みを作って――

「半分正解で、半分は解答不足って感じだね。私があんなに具体的な未来を持ち出して文月君を脅したのは、何も作り話ってわけじゃない。……私が知ってる悪趣味な奴なら、きっとそうするだろうって思ってさ」

　世間話でもするかのように、零はナベリウスにそう言ってのける。その表情は確かに笑顔だったが、しかし声は全く笑っていなくて。……むしろ、吐き捨てるかのような憎悪がそこにはあって。

『……一応聞いておくが、その悪趣味な奴ってのはオレじゃあないよな？』

「もちろん。君は時々性格が悪くなるけど、悪趣味って程じゃない。私が言う、悪趣味な奴ってのはね――」

　そこで言葉を切って、零はふっと目を瞑る。そのまぶたの裏に映るのは、十年前のあの光景。全てを失ってなお生き延びた、あの夜の悪夢。それを演出した存在のことを、零は鮮明に覚えている。

　間違えるはずがない。あの事件以来悪魔絡みの火災事件が起きなかったことを、零は調査の結果として知っている。……だから、決して間違えない。

「――契約者が願った通りの復讐を叶えた後、その復讐を果たしてまで守りたかったものごとすべてを焼き尽くす――『アウナス』くらいじゃないと、私は悪趣味だなんて思えないね」

――あの日零の全てを理不尽に奪い取った、殺したくて仕方のない悪魔の名前を。