ナベリウス
「今月に入ってからすでに二件の犯行、場所はどれも役人たちが好んで使うような高級ホテル――もちろん毎日満室が当たり前の現場だから、犠牲者も他の悪魔犯罪とは比べ物になってないね」
そりゃ警察も焦るわけだよ、と。
少しの説明とともに壮佑が置いて行った資料たちをあれこれと眺めながら、零はぽつぽつと呟く。その机の片隅では、アイスティーの代役に任命された天然水のペットボトルが所在なさげにしていた。
その目付きにさっきまでのような気だるさはなく、黒い瞳にはいくつもの写真や実況見分の資料が入れ代わり立ち代わりに映し出されている。ゴールデンウィークの熱狂も冷めようかと言う頃に舞い込んで来た季節外れの連続大火は、期せずして零の心にも確かな火をつけていた。
『……久しぶりだな、お前がここまで真剣に物事に向き合う姿を見るのは』
零の視覚を介してその資料を見つめながら、悪魔は零に語り掛ける。資料を読み進める手はあくまで止めないまま、零は小さなため息でその言葉に応えた。
「いつもいつでも腑抜けた人間みたいに言われるのは心外だなあ。本当にやる気を出すべき時に億劫にならないように、普段は省エネで過ごしてるだけだよ」
『結局のとこ、普段は怠惰なことに変わりないと思うのはオレだけか……?』
零の怠惰のツケを払うのは、いつだって彼女に憑いた悪魔の役目だ。壮佑よりもさらに近くで零の腑抜けっぷりを見ているからこそ、それに苦言を呈せるのもまた悪魔だけだった。
だが、そんな理屈は零には通用しないらしい。読み終えた資料を適当に隅へと寄せながら、零はかすかに口を尖らせた。
「うるさいなあ、君は私のお母さんか何かなの? これから勉強頑張ろうって時に『勉強しなさい』って言われる子供の気持ち、初めて理解できる気がするよ」
こんなにやる気の削がれることはないね、と零は辛辣な一言をこぼす。その言葉と裏腹に一切落ちる気配のない読み込みの速さに苦笑しながら、悪魔は言葉を返した。
『どっちかって言うと同居人だ。対等な関係が前提の契約である以上、オレだけが利用しつくされるような形はできるなら遠慮してほしいところなんだけどな?』
普段振り回されているという事実が厳然と居座っている以上、零に対する抗議の体勢が変わることはない。さしもの零ももううんざりし始めて来たのか、零の口からこぼれたため息は手に取った資料の角をかすかに揺らした。
「……君は私の願いを果たすために契約した。本来なら、もっと苛烈にこき使ってやってもいいんだよ?」
一貫する抗議の姿勢に譲歩する様子を見せることなく、零はどこまでも冷たい声で言葉を返す。その目線は資料から一切ブレていないところを見れば、悪魔の抗議がまともに取り合われていないのは明らかだった
――悪魔と人間の契約は、本来ならば悪魔が主導権を持つ物だ。人間はいつだって甘美な欲望に溺れる生物であり、故に悪魔の契約に興味を示した時点で人間の主導権などないに等しい。それが、悪魔の認識だった。……黒宮零と、出会うまでは。
「……ねえ、ナベリウス」
『……ッ』
そんなことを考えていると、零が悪魔の名を呼ぶ。『ナベリウス』――その名で呼ばれるのは、一体何ヶ月ぶりだろうか。ともすれば年単位で呼ばれていないかもしれない。……だからこそ、ナベリウスは思わず息を呑んだ。
「あの時私が何を願ったか、忘れたなんて言わせないからね。……私も君も、その願いを果たすために生きてるんだ」
『……分かってるよ。お前がそれを忘れない限り、オレもお前が望む振る舞い方をし続ける。……それはそれとして、お前の普段の姿には物申させてほしいところだが』
淡々と語りかけてくる声が途轍もなく危ういものに感じられて、ナベリウスはあえておどけた調子でそう返す。……それに、初めて零の表情がほころんだ。
「……あっはは、やっぱりお母さんじゃないか。私と過ごした時間の間でずいぶん俗っぽくなっちゃったね?」
心からおかしそうに、口の端を緩めて零は笑う。その眼がようやく資料以外の者を映し出したことに気づいて、ナベリウスは内心表情をほころばせた。
誰よりも怠惰に見える黒宮零と言う人間は、しかし誰よりも危うい人間でもある。時折垣間見えるその片鱗を知っているのはナベリウスだけであり、きっとこの先それを知る人間が増えることはないだろう。……それが零の巧みなところであり、危うさをさらに加速させている要因でもあるのだが。
零の秘める危うさを唯一知るナベリウスは、それを肯定したうえで知らないふりをする。……もしもその危うさが無意識に表出するものだったのだとして、それを零の理解のもとに晒してはいけないような気がしてならなかった。
『契約した誰かさんが予想外にのんびり屋だったせいで、オレにもそれが感染っちまったのかもしれないな。それほど悪い気がしてないあたり、時間をかけてすっかり毒されてるような気がするが』
――だから、ナベリウスは意識しておどけた様子を演じて見せる。たった一人の人間をここまで気に欠けることになるあたり、毒されているというのはあながち間違ってもいないような気がするが……まあ、それに関しても知らないふりをしておこう。都合の悪いものにわざわざ正面から向き合うほど、悪魔と言うものは誠実ではないのだ。
「うん、重傷もいいところだね! ……君、私との契約が終わったらどうするつもりなの?」
ナベリウスの返答にますます笑みを深めながら、零はおどけた調子でそう返す。からかわれているということを理解しながらも、ナベリウスはそれに笑みを返した。
『さて、どうしたもんかな。誰にも契約を持ちかけずに隠居してみるのもいいし、第二のお前を探していろんな奴に契約を持ちかけるかもしれねえ。……どっちにしたって、それが訪れるのは相当先の事だろうけどさ』
零とナベリウスの間に結ばれているのは、他の契約と比べ物にならないくらい長い契約だ。人よりもはるかに長い時間を存在する悪魔からしても、その時間を瞬きの間に終わらせられないくらいに。……その眼にいろんなものを刻まなくてはいけないくらいには、零との契約は重く大きかった。
それに同調するように、零も深く頷く。その眼付きにもう危うさはなく、ただ強くまっすぐな意志の光だけが宿っていた。
「……そうだね。間違っても、今日や明日で終わるようなものじゃない。いくら君が飽きたって言っても、最後の最後まで付き合ってもらうよ?」
『大丈夫だ、もう覚悟はできてるよ。……久しぶりに、楽しいものも見れそうだしな?』
「……あは、こりゃやられた。やっぱり感覚を共有する悪魔のことは欺けないね」
意趣返しと言わんばかりに飛んで来たナベリウスからの期待の言葉に、零は思わず額に手を当てる。まいったと言わんばかりにのけぞりながら、零は手元に引き寄せたペットボトルの蓋を開けた。
――零が資料から目を外したのは、何もナベリウスのユーモアセンスが優れていたからと言う訳じゃない。……決して優れていないという訳ではないとも思いたいが、話の本質はそこにはなくて。壮佑によってもたらされた数十枚にも上るその資料が、零にとってもう必要のないものに変わったというだけなのだ。
零はただ怠惰に生きているだけではない。その魂の奥底では、きっと誰よりも激しい熱情が燃えている。……同じ体を共有する身としてそれを知っているから、普段どれだけこき使われても小言くらいの反抗しかする気が起きないわけだし。
『……折角お前が久々に本気を出そうってんだ。たまには見物客に回るのも悪かねえだろ?』
零が飲み干した天然水が体を循環していく感覚を共有しながら、ナベリウスは零にそう投げかける。問いかけの形こそ保ってはいるが、それは半ば脅迫のようなものだ。……零が興味を示す先にはショッキングな出来事が待っているということへの、ある種の信頼でもあった。
「うん、分かってるよ。退屈はさせないし、ちんたらやるつもりは毛頭ない。――悠長なことをしてたら、アイスティーの販売期間が終わっちゃうかもしれないからね」
冗談とも本気ともつかない風に言いながら、零はソファーから軽やかに立ち上がる。その動きに追従するようにして、長く伸ばされた黒い髪がゆらりと妖しく揺れた。
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