悪魔憑き
この世界には、『悪魔』と呼ばれるものが確かに存在する。それが人の想像した悪魔の在り方と同じなのか違うのかはともかくとしても、だ。
追い詰められた人間、あるいは俗世に飽いた人間に契約を持ち掛け、彼ら彼女らが望む願いを叶えるための力を与える、絵に描いたような願望機。御伽噺の中でしかありえないような都合のいい在り方が、この世界に巣食う悪魔の形だった。
だがしかし、そのようなものに代償が付きまとわないはずもない。その代償が重く、そして致命的であるからこそ、人はその願望機を『悪魔』と呼ぶわけで――
「……今日の案件は中々に厄介な悪魔憑きだ。もうすでに被害者も多数出ており、このままでは手に負えなくなる可能性が高い。そうなる前に、お前にその凶行を食い止めてほしいのだが――」
横長のテーブルにいくつかの書面と写真を置いて、男――先ほど零の願いを中断させた直接的な原因である存在は真剣な表情でそう語る。きっちりと角刈りにされた頭髪に生来の三白眼が合わさることによって、その威圧感は相当なものだ。
だがしかし、その向かいのソファーに腰かけた零はその威圧感を意にも介さない。……というか、そもそも来客として認識しているのかどうかも怪しかった。
焦点の定まらない眼は男でも書面でもないどこかを見つめているし、背筋も伸ばさずに体重を思い切り背もたれに預けている。『無気力』と言う言葉がこの上ないくらいにしっくりくる零の姿勢に、男は思わずしびれを切らした。
「……聞いているのか、黒宮零」
「ちゃんと聞いてるよ。聞いたうえで私は無視することを選択してるの。そこそこ長い付き合いだしそれくらいわかってほしいな、
来客である男――
「分からないな。お前は特命祓魔師、そして俺は警察関係者。今俺がこうしてここにいるのは、警察という組織からお前個人への依頼と同じことだぞ」
「……なるほど? つまり君は、組織の権力が私に通用すると思って今話をしているってわけだ」
さらに低くなった壮佑の声に対して、しかし零は面白がるような声を上げる。……その眼が一瞬怪しげな光を放ったように思えて、壮佑は思わず身じろぎした。
「私はあくまでフリーランス、受ける仕事は自分で決める。……それが分からないなら、強引に理解させてあげたって良いんだよ?」
そこに畳みかけるように、零はさらに言葉を続ける。それがただのハッタリだと思えるなら良かったが、壮佑はそう思えない。……ここで零の起源をさらに損ねれば、自分の身に何らかの火の粉が降りかかるということを彼は直感的に理解していた。
『特命祓魔師』。悪魔と契約を交わした結果変わり果てた人間に依る凶行の解決に当たるべく、対悪魔専門家として国家権力に協力する存在。しかしそれは決して権力の下に降る事を意味するわけではない。……祓魔師という生き方もまた完全な理解が難しいからこそ、警察は祓魔師を組織の内部に取り込めなかったのだ。
「今の私を動かしたいのなら、それなりの代価がいる。悪魔が人間と契約するときに、その魂を求めるのと同じようにね」
「……お前たちへの報酬はあくまで出来高払いだ。前金を払ってやれるほど、俺たち警察も気前良くはないんでな。……というか、悪魔の契約を例に持ち出されて素直に受ける警察関係者がいると思うか?」
どんなものを差し出させられるか分かったもんじゃねえ――と。
零の要求に、壮佑も気力を振り絞ってそう答える。……しかし、それに対して零は呆れたと言わんばかりに首を横に振った。
「分かってないなあ文月君、私が前金を要求するようながめつい女に見える? 今すぐ私を動かしたいのなら、私が今一番欲してるものを持ってきてくれなきゃね」
それでやっと対等だよ、と零は笑みを深めながら壮佑を見つめる。彼が訪問する前の零の言動を知っているのならその願いを叶えることもできただろうが、そうではない壮佑に零の願いなど知る由もなかった。
「……ああ、やっぱりわかんないか。長い付き合いのよしみだし、特別に教えてあげるよ。……それを今すぐに用意できるかどうかは、また別としてね?」
完全に主導権を握ったという確信から、上機嫌になった零は歌うようにそう告げる。いったいどんなものが要求されるのか、壮佑は思わず息を呑んで――
「……福島限定で販売されてる桃風味のアイスティー。今の私を君が動かしたいと願うなら、それくらいの代価は無くっちゃね?」
「……いや、願うにしてもピンポイントが過ぎないか……?」
片目をつむりながら要求された代価があまりに即物的だったことに、壮佑は思い切り脱力した。
「だってこれ、君が来たせいで飲めなくなったものだもん。その補填をしないまま話し合いに持ち込めると思うなら、それはかなり傲慢な話だと言わざるを得ないよ?」
しかし、罪を咎めるかのように壮佑を睨みつける零の目はどこまでも本気だ。それがなまじ分かってしまったからこそ、壮佑は困ったように腕を組んだ。
成程、要求の表面さえ聞けば法外な金額を持ち出されるよりはるかにマシだろう。だがしかし、その中身はともすれば金銭よりも厄介だ。金銭は経費で落とせば強気の交渉が出来なくもないが、物が限定してあるとなればそうもいかない。……いや、東京から福島の道のりを考えれば半日足らずで満たせる要求ではあるのだが――
「……そこを何とか妥協してくれないか。東京で一番の祓魔師であるお前の力が、この案件には間違いなく必要なんだ」
数秒考えこんで、結局壮佑は顔の前で手を合わせる。しかし、それに対してにべもなく零は首を横に振った。
「ダメダメ、泣き落としとか拝み倒しが通じるのは中学生までです。ほら、それが分かったら帰った帰った――」
しっしっと腕を払いながら、零は本格的に壮佑を追い出しにかかる。簡単に引き下がれないとはいえ、こうなってしまった零を動かせるだけの条件があるわけではない。上司に何と報告するべきかと、憂鬱な悩みに囚われながら壮佑が机に広げた書類を鞄に戻しにかかって――
「……ちょっと待って文月君。その写真、悪魔がやらかした現場のやつ?」
――その中でちらりと一枚の写真が見えた瞬間、普段はうっすらとしか開いていない零の目が大きく見開かれた。
「……ああ、これの事か? お察しの通り、今回の悪魔憑きが暴れた残骸がこれだよ。悪魔犯罪も増えてるとはいえ、これだけの規模の者は中々出てくるもんじゃねえ。だからこそ、お前に頼めたらって思ったんだがな」
「……ふうん、なるほどね」
壮佑の説明もそこそこに、十秒前とは打って変わった真剣な表情を浮かべながら零はその写真を見つめている。ベッドの大きさや天井から吊り下がる装飾の残骸から見るにかなりいいホテルの一室だったのだろうその場所は、しかしその高貴さなど分からないくらいにすべてが焼けこげていた。真っ黒だった。……燃えて燃えて、今零の目に映るのは無残な焼け跡だけだった。
「燃えたら何もかもが同じ……か」
――その写真を見て、零の脳裏にある光景がフラッシュバックする。息苦しさに霞む視界の中で煌々と燃える炎だけが色彩を放っていて、遠くない未来に自分もそれと同じになる。生きた跡も何もなく、黒い炭へと変わっていく。……いつか確かに見たその絶望の景色に、零は無意識のうちに顔をしかめた。
普段は頭の片隅で埃をかぶっている記憶なのに、こうやって一度思い出されるとその後しばらくこびりついてくるのだから気分が悪い。幼い頃の零は何を糧に生きていたのかということを、蘇った記憶ははっきりと現在の零に突きつけてきていた。……無視することは、到底できそうにない。
「……うん、気が変わった。文月君、この仕事のことを教えて。報酬は出来高でいいし、アイスティーも残念だけど我慢するよ。……この事件を解決しない限り、美味しく味わえる気もしないしね」
「……本当か?」
荷物を仕舞いかけていた姿勢のまま硬直していた壮佑が、零の掌返しを受けて驚いたように視線を向ける。……その視界に映った零の表情は、いつになくこわばっているように思えた。
「一度やるって言ったことに関して私は妥協しないよ。……この事件をたどっていけば、私の目的も同時に達成されるような気がするからさ。文月君たちが私を利用するみたいに、私も君たちの権力を利用させてもらうよ」
「その言い回しには何やら不穏なものを感じるが……まあいい、お前がやる気になってくれたのならこっちとしても話が早いからな。そうと決まれば、もう一度最初から説明するぞ」
零の目付きに危うさを感じながらも、その力を借りない限りは事件解決も難しい。零の事件解決に付き合ううちにそう知った壮佑は、いろんな疑問を押し殺しながら机にもう一度書類を並べ直す。その一つ一つに、零は先ほどとは比べ物にならないくらいの真剣な視線を向けて――
「……ようやくキミも、尻尾を出す気になったのかな?」
――冗談めかした呟きをこぼすその表情は、しかし全く笑っていなかった。
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