黒宮 零の今日の願望
紅葉 紅羽
プロローグ
『……願いを言え。お前の魂を代償に、オレがそれを叶えてやる』
燃え盛る炎の中で、実体のない存在がそんな風に語り掛けてくる。今更何を願っても遅いと感じてしまえるような絶望の中で、しかし淡々と声は――悪魔は契約を持ちかけてくる。放っておけば一分も経たずして炎に飲まれてしまうような、黒く幼い少女に。
「ねがい、ごと……?」
『ああ、そうだ。オレがそれを叶えてやる。……大丈夫だ、約束は守るさ』
夢か幻を見ているのかと、少女はうわごとの様に悪魔の言葉を繰り返す。しかしはっきりとした答えが返って来て、どうやらこれは現実らしいと少女は幼いながらに理解した。
だがしかし、少女は知らない。その声の主は悪魔と呼ばれる存在であり、声をかけたのはただの気まぐれに過ぎないのだということを。少女は知らない。悪魔と契約を交わすことが、人間にとっては余命宣告に等しいということを。声に身を傾けるのも今炎に身を委ねるのも、残酷な終わりが近いという意味では何ら変わりないのだ。
しかし、それを知らない少女は願う。いずれ何もかもが飲み込まれる業火の中で、顔の見えない悪魔に願う。声だけがはっきりと聞こえるその存在を、ヒーローだと信じて――
「……わたし、は――」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「……福島限定で売られてるアイスティーが飲みたい」
誰もいない部屋の中で、ソファーに寝転んだままの姿勢で
傍から見ればそれは独り言だ。一人暮らしにしてはやけに広いリビングに寝転んで、誰に向けて語られるでもない独り言。本来ならその願望は虚空に消えるし、アイスティーが目の前に現れるわけはもちろんない。……だが、その独り言に応える存在が一人――いや、一柱だけいた。
『……そんな即物的なものが、今日の願いってか?』
「そうだよ。今日の私の舌は無性に福島限定フレーバーのアイスティーを欲しているんだ」
脳内で反響するような形で響いてきた声に対して、全く驚く様子もなく零はそう言い返す。あまりに俗な願い過ぎて呆れているのがバレバレではあるが、それこそいらない気づかいというものだ。零はちょうど今、噂でしか聞いたことのない限定フレーバーを求める舌へと変化してしまっているのだから。
「ストレートでいいじゃん、桃のアイスティー。レビュー見てみた感じだとかなり風味も濃いらしいし、飲みたくなって仕方ないんだよ。この気持ち、分かる?」
『……サイトでレビューを見るところまで行ったのなら、そのまま購入すればいいだけじゃねえのか……?』
「よくないよ。何、まさか君は大切な宿主様にアイスティーが届くまで何も飲まずに過ごせっていうの? 君みたいな超越存在と違ってね、脆弱な人間様は五日と保たずに死んじゃうんだよ?」
呆れが止まらない様子の声に対して、しかし零は開き直った様子でそう主張する。本気でアイスティー以外を飲む気が無ければ通用しない主張ではあったが、そうと決めたら本気でそうする女だということを声の主は確かに知っていた。だからこそ、その主張は厄介なのだ。
『お前が脆弱とか言うと無性に信憑性が無くなるから不思議なもんだよな……。そんなに弱い存在と一生付き合い続けなくちゃならねえって事実含めて、色々と信じられねえよ』
「それに関しては君の言葉選びが悪かっただけだね。語彙力皆無な悪魔様だったこと、今でも感謝してるよ?」
『……それを煽りだって捉えられるくらいには、オレもお前に憑く羽目になっていろいろ学んできた自覚はあるぞ』
ニヤニヤと笑いながら感謝の言葉を述べる零に対して、声――零に悪魔と呼ばれた存在は怒りを抑え込みながらそう返す。やけに人間らしいその声色がよほどおかしかったのか、零はこらえきれないと言った様子で笑みを浮かべた。
「うそうそ、ちゃんと感謝してるって。……だからほら、アイスティーちょうだい?ちゃんと代価としてのお金は用意しておくからさ」
そう言うなり、零はジーパンのポケットに突っ込んでいた財布の中から千円札を三枚ほど取り出す。五百ミリ入りのペットボトルでそれだけの金がかかるのでもなし、零はどうやら一ケース分のアイスティーを要求しているようだ。そう察することが出来ていること自体が人間世界になじんでしまった証拠だと気付いて、悪魔は大きくため息を吐いた。
『……お前が望むなら、そんな代価無くても願いは叶うんだぞ?』
「いやいや、そこは人としての誇りってものがあるじゃん? 流石に悪魔の力使って泥棒しちゃいけないって」
ソファーにだらしなく寝ころびながら、零は人間としての尊厳を説く。その姿勢や普段の言動がその誇りに相応しいものとは思えない――という主張は、悪魔の中だけに押しとどめられた。
『分かった、それならもう止めねえよ。……今日分の願い、これに使って構わねえんだな?』
「うん、もちろん。今日の私にとって、それ以上の願いが生まれることなんてないからさ」
念を押してくる悪魔に対して、零はもう一度大きく頷く。そこに一切の迷いはなく、こうなった零はよほどのことが無い限り動かない事を悪魔は知っていた。
――それを知れるくらいに一人の人間と付き合うことが、そもそも悪魔にとっては恥ずべき話なのだが。一人の人間に十年近くこき使われ続けていることなどを仲間が知れば、一生の笑いものになることは避けられないだろう。
そんなことを思いながら、黒宮零に憑く悪魔は意識を高めていく。それと同時に机に置かれた紙幣が光りだし、それに伴って零の表情も期待で明るくなった。
『こんなことにオレの力を使うのは未だに納得がいかねえが……それがお前の願いとあっちゃどうしようもねえ。……さあ、行くぞ』
「うん。間違えることなく、しっかりお願いね」
零の念押しを受けて、悪魔はさらにその集中を高めていく。零の視界を通してしか知らない、『フクシマ』なる地にあるのであろう限定アイスティーに、悪魔は思いを馳せて――
「――おい、黒宮零! いるんだろう、仕事の時間だ!」
零の願いがあと少しで叶おうとしたその時、扉の外からノックとともに聞こえてくる野太い男の声によって儀式は強制中断を余儀なくされる。突然の来客を嫌う零の家にはインターフォンが設置されていないのだが、大きなノック音と声がその努力を台無しにしていた。
「……ねえねえ、願いの変更って今からでも効く?」
『見ての通り、儀式は完了されなかったからな。今なら一応聞かないでもないぜ?』
期待の表情から一変、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた零が、明らかに不機嫌そうな声で悪魔へとそう問いかける。それに苦笑しながら了承すると、零は気だるげに扉の方を指さして――
「……暑苦しいあの人の訪問、今日だけなかったことにできない?」
『……残念。それをするには、ちょいとばかり願いの貯金が足りねえな』
ざっと一週間分くらいは必要だろう――と。
おそらく心からの悲願であろう零の頼みを悪魔が笑いながら切り捨てると、零は思い切り口を尖らせた。
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