焼け跡
――炎と言うのは残酷だ。人の歩みも生命も、何もかもを飲みこんで焼き焦がす。人の身で抗おうと思う方が馬鹿らしく思えてしまうくらいに、炎は人の積み重ねてきた何もかもを奪っていく。どれだけ栄華を極めたものでも等しく炭に変えるという点だけを見れば、ある意味平等な存在とも言えるのかもしれないが――
「炎が燃やす対象を選んでしまえば、その平等さも台無しだよねえ……」
真っ黒な焼け跡をその視界に映しながら、零はぽつりとそうこぼす。壮佑から事前に得た情報が無ければ、そこにあったのが東京一のホテル――『ルイングランデ・トーキョー』であったことは到底理解できそうになかった。
零の知識では確か外観にもかなり工夫が凝らされていたはずだが、燃えて崩れたその土地に残っているのは折り重なった真っ黒な燃え滓だけだ。その素材が何であったかも、もとは何色だったかも分からない。壮佑の話では五日前にこのホテルを飲みこんだのだという大火は、ホテルにあるすべてを平等に燃やし尽くしていた。
二日前に起きたとされるもう一つの大火ではいくらか燃え残りもあったようだが、ここに限ってはそんな慈悲すらもない。立て直せるかもしれないなんて僅かな希望すら、この光景の前では燃やし尽くされてしまうだろう。それほどまでに、この現場には一つの救いもありはしなかった。生存者がいたか――なんて問いは、この光景を前にしたら野暮なものでしかない。
「そこにある物を燃やすって意味では炎は平等だけど、その目標地点が最初から決まり切っているのは罪深い事だよね……その点、君はどう思う?」
『どうもこうもねえよ。仮に炎が燃やす対象を選んでるんだとして、それを選ばせたのは炎を操る人間の意志だろうが』
なぞかけのような零の言葉に、ナベリウスはつまらなそうにそう返す。この手の問いかけは零の好むところであり、悪魔の考え方を知りたいという好奇心が根底にある事をナベリウスはとっくのとうに見抜いていた。
本来ならそれに乗っかってやる道理もないが、なぞかけ擬きのことを言い出すときは零の思考が順調に進んでいる証拠だ。それをナベリウスの気まぐれで水を差すのも気が引けて、ナベリウスは言葉を続けた。
『平等なものを平等じゃない形に変えるのは、いつだってそれを使う人間だ。仮に包丁が凶器の殺人事件が起こったとて、その責任を包丁に問うことはできないだろ?』
「ああ、正論だね。包丁を誰かに突き立てるって判断をした人間に、その罪はすべて覆いかぶさることになる。今回の事件に関して言うなら、炎が包丁の立ち位置になるのかな?」
『そういうことだ。……こんなただの焼け跡を前にしてお前が何を考えてるんだか、オレにはさっぱり理解が出来ねえけどな』
零の目を通じてその焼け跡を見つめながら、ナベリウスはそう返す。長い時間を揺蕩うナベリウスからしたら、建物が燃え尽きた跡など何度も見て来た光景でしかなかった。そこにどんな感慨を抱くでもなければ、何かの意味を見出すこともない。
こういう時に、零の思考までもを共有できないことがむず痒く思えてしまう。同じ光景を見ても同じことを思えるわけではないという当たり前の事実が、ナベリウスにとってはもどかしかった。
「大丈夫だよ、私は君の考えてることなんとなくわかるから。……こんなところにわざわざ足を運ぶ必要なんてないって、そう思ってるんでしょ?」
ナベリウスの困惑をよそに、零は悪戯っぽい笑みを口元だけに浮かべて見せる。その指摘がなまじ外れていないからこそ、ナベリウスは言い返す言葉に詰まってしまった。
ホテルの入口があったのであろう場所にはいくつかの花束が置かれているが、これもナベリウスにとっては理解のできないものだ。……死者の魂など、もうとっくにそこにはいないのだから。
『……ああ、お前の言う通りだよ。ここには燃えカスといくつかの花束しかなくて、証拠になるようなものは何もない。まだ輪郭はどうにか保ってるらしいもう一つのホテルの方が、悪魔憑きの痕跡も残ってるんじゃねえのか?』
目の前に広がる景色への理解を諦めて、ナベリウスは零に向かって問いかける。広く取られた歩道を行く人々が、燃え尽きたホテルの前で立ち尽くす零の姿を物珍しそうな、あるいは哀れむような目で見つめながら通り過ぎていった。
献花するでもなく祈るでもなくただぼんやりと焼け跡を見つめているだけなのだから、確かにその異質さは際立ったものだろう。零は端正な見た目をしているし、その美しさに目を奪われた者もいるのかもしれない。……もっとも、それらの人々は零の怠惰な内面を見た瞬間に離れていくのだろうが。
だがしかし、そんな通行人の視線なんか意にも介さずに零は視線を焼け跡に向け続けている。その視線は何度か左右に振られてはいたが、道行く誰かに焦点が合うことは一度もない。……心からそう言った他者に興味がないのだということだけは、その様子から何となく理解できた。
「……いいや、こっちに来て正解だったみたいだよ。なんせここ、もう一つのホテルより激しく燃えてるわけだからね。輪郭を残すこともなく焼き尽くすとか、この炎を操った悪魔憑きはこのホテルに相当な怨みを持ってるみたいだ」
そんなことを考えていると、零が唐突にそんなことを呟く。それがナベリウスの発した疑問に対する答えなのだと遅れながら気づいて、慌ててその言葉へと耳を傾けた。
『……そうだな。オレから言わせてもらえば、それだけの怨みを抱えている人間はそれなりに居るってのが正直なところだが』
それが表出するかはともかく、危険な感情を抱えている人間と言うのはそれなりの数存在する。その感情に付けこむのが悪魔という存在であり、悪魔がちらつかせる誘惑に負けた人間が悪魔憑きとなる。……悪魔憑きになるにも、それなりの素養は必要なのだ。
「そうだね。人の怨みってのは思った以上に根深いもので、この炎を操った人もきっとそういうタイプだったんだと思う。……だけどさ、何か気づかない?」
ナベリウスの意見を肯定しながら、零は最後に挑戦的な問いを投げかける。そのヒントだと言わんばかりに、零の視線が左右の往復を始めた。
しかし、そこに映っているのはただの人の営みだけだ。ホテルの隣には会社があり、今日もまたせわしなく人が出入りしている。逆隣にはコンビニがあり、入店を知らせるBGMがけたたましく鳴り響いていた。……どこを取っても、ただの人間の生活しかその視界には映っていない。だからこそ、正面の燃え跡だけがやけに異質に思えて――
『……いや、まさか』
「多分そのまさかだと思うよ。……強い怨みを持ってる人がたくさんいるってのは同感だけど、そう言う人って大体無差別なんだ。世界そのものが怨みの対象と言うか、復讐の対象がめっちゃ広いというか。……だけど、この現場はそうじゃない。それが知れただけでも、ここに来た甲斐はあるってものだよ」
視線をホテルの残骸だけに戻し、零はゆっくりと深呼吸を一つ。そして、零は小さく口の端を吊り上げた。――この謎を解き明かすことを、どこか楽しんですらいるかのように。
「うまくやればここら一帯を火の海にできるくらいの火力はあっただろうに、その力をたった一つのホテルに集中させるような悪魔憑き――そんなピンポイントな怨みを持ってる人って、いったい何者なんだろうね?」
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