第2話 ルーレットが回り始める


 目が覚めた。


「「ご機嫌いかがですか?」」


 目の前に見覚えのあるバニー姿の女性が2人いる。


 その問いかけは以前よりも親しさがあった。寄り添うような、誘なうような、微かな温もりがあった。


「賭けますか?」「賭けませんか?」


 同じ質問だ。

 俺は自分のご機嫌すらまだ答えていないんだぞ。問いかけがちょっと早すぎるのじゃないか。


「無粋な質問だと思っていらっしゃる」

「無用な質問だと思っていらっしゃる」


 見透かされた想いをした。


「「だけど、どれも必要なこと」」


 バニーたちが迫ってくる。ひとりは左へ、もうひとりは右へ。

 蒼バニーが指先で俺の腕に触れた。そして先から根へと撫で上げる。

 白バニーが爪先で俺の足に触れた。そして先から根へと撫で上げる。

 どちらもつつつと艶やかに、水のように滑ってやって来る。


「意志を問わなければ始まらない」

「問われて表れた答えの意志に意味なんてない」


 妖艶に笑う。腕を取られ、脚を取られた。


「「誰もが賭けたくてやって来る」」


 呼吸が止まる。


「賭けたくて、扉を開けた」

「賭けたくて、席に座った」


 そういえば以前のギャンブルの結果を俺は見届けたのだろうか。

 覚えがない、夢だからだろうか。


「賭けるよ」


 思わず口から言葉が出ていた。


 だから、なにを賭けるって言うのだろう。


 蒼バニーが笑う。俺の背後に回って椅子の背もたれを掴んだ。そしてぐっと前に押し出した。

 回転盤の設置されている机の端に胸が押しつけられて痛かった。


 白バニーが回転盤の中央にあるつまみを握った。微笑んだかと思うと勢いよくそれを捻る。

 回転盤が高速に回り始めた。


「ベットして」


 蒼バニーが俺の耳元で囁いた。温い吐息が耳にかかる。両肩に添えられた彼女の手の指が恐ろしいほど薄くて細い。


「待ってくれ。俺は以前にここへも来た事があるはずだ。俺はその時に何を賭けたんだ? その勝負に俺は勝ったのか? 何かを得たのか?」


 声が震える。俺は“負けた”という事実、“失った”という事実を考えたくなかった。


「得たのなら握っているはず。勝ったのなら得たはず。勝って得たのか、それとも………」


 くすりと笑う。俺の震えを察した白バニーが賭博者の抱える怯えを舐めている。


「勝つのも、負けるのも、何もかも忘れてしまいましょうよ。何を差し出したのか、何を得たのか。全てを忘れてしまいましょうよ」


 俺の後ろに居た蒼バニーの細い滑らかな腕が俺の胸の前へと流れて来た。そして頬と頬を擦り寄せて耳元で囁いた。


 眼を閉じた。

 眠ってしまいたい。だが、あらゆる五感が目覚めろと告げている。眼を開けてそこを見ろと叫んでいる。


 回転盤の回る音は途切れない。ぐるぐると回っているようだ。俺の胸の鼓動が強く聞こえる。俺に抱き着いた蒼バニーの柔らかい息遣いさえも、俺と共有しているかのように聞こえてくる。


 ごくりと唾を飲み込んだ。


 回転盤の設置されたテーブルには何も置かれていなかった。俺はそれを覚えている。俺はまだ何も負けちゃいない。そしてまた勝ってもいないのかもしれない。


 眼を開けた。


「おい、お前らに名前はあるのか?」


 蒼バニーと白バニーが俺の座る椅子の背もたれに背中を預けていた。


「知りたいのならまずは賭けてみて」

「もう回転盤は回されているのに」


 唇が渇いていた。


「賭けよう」


 回転盤の中にひとつの白い球が転がり始めた。



 眼が覚めた。

 覚めたのだがどうにも身体が良くない。

 起き上がろうにも起き上がれない。


 俺は今、どこにいるのだろうか。ゆっくりと眼を開けようとするのだが、意識だけが目覚めているだけで身体は少しも眼を覚ましていなかった。


 かなり長い時間を俺は眼も開けられない状態で過ごしていた。


 どうして開けられないのだろうか。もしや病気か。

 いや、昨日の俺は早くに眠りについたはずだ。飯もしっかりと食った。

 待てよ、俺の火の番をする順番がそろそろやって来る頃じゃないか。起きないといけないぞ。

 俺はどうしてしまったんだろうか。


 遠くの方で声が聞こえる。この声は誰のものだろうか。


「おい、おい!」


 怒っている声だ。俺の耳がぴんと張った感覚があった。

 おかしな感覚だ。耳がとても長い。


 眼がようやく開いて来た。耳から受け取った声という音の感覚に全ての五感が呼び起こされて俺の意識が覚醒していく。


 開いた視界の前に広がっていたのは泥と草だった。


「おい、アダルフォ。この馬鹿野郎が!」


 声のする方へ駆けていく。走り出すために前に出した脚が手のように感じられた。それなのに俺の脚はしっかりと地面を掴んでいる。


 4つの手足が地面を掴み、顔を前へと突き出して俺は走っている。


 がさがさと俺の身体の形に沿って草が左右に分かれていく。

 手足の先と腹に泥が付いているが、俺はそれを少しも不快に感じていない。


 そして草の隙間から声のする方を覗いた。


「なんだよ~、エンドリ。まだ寝かせてくれよ~」


「馬鹿野郎、てめえ、火を絶やしやがって!!」


「え~、あれ、おかしいな。今ってどこなんだ?」


「何を寝ぼけてやがる。いい加減にしやがれってんだ!!」


 エンドリがアダルフォを蹴りつけるのが見えていた。


 なんだ、何が起きているんだろう。


 俺は昨日、アダルフォだった。アダルフォだっただろうが。


 今の俺はアダルフォですらない。いったい何だって言うんだろう!


 後ろ足で立って上体を持ち上げた。手を見てみるとそこには三つ又の指と爪がある。泥がこびりついた醜い手だった。


 毛に覆われた腕と身体。三つ又の手。

 何もかもが人間らしくない。


 そっと後ろを振り返って見てみるとそこには4足歩行の小動物が通ったような道が出来ている。泥の上にはその三つ又の足跡が刻まれていた。


 ねずみだ。俺は今、醜い野生のねずみになっている。


 夢だ。夢に違いない。そうだとも、だって俺は元々人間だったはずだ。とにかく人間だったはずだ。だって、俺は少なくとも昨日はアダルフォだった。

 でも、その前も人間だったはず。その前は○○○○・○○○○だった。


 ?????????


 どうして出て来ないんだ。俺の名前だ。俺の物だ。

 目の前の男たちの名前は浮かんでくる。エンドリケリーにアダルフォだ。そして奥にはゲリーがいる。


 いや、そもそもどうして俺はねずみなんかに身を落としているのだろう。


 夢だからだ。これが全て夢だからだ。

 覚めろ、覚めろ、覚めてくれ、今すぐに。


 俺はやらなくちゃいけない事があったはずだ。そうだとも、俺は探さなくちゃならないんだ、身体を。そうだとも、○○○○・○○○○を見つけなくちゃならんのだ。


 ああ、どうしたって名前が出て来ないんだろう。


 俺はいったいどうしちまったんだ!


 くそ、くそ。くそが、何もかもが分からねえ。


「起きろ、ゲリー!」


 エンドリがゲリーを殴りつけて起こす。


「なんだよ、エンドリ、どうした?」


「お前の火の番だ。絶やすなよ、しっかり見てろよ」


「ずいぶん火が小さくなってるな。アダルフォの野郎、下手こきやがって」


「どうしようもない奴だ、こいつ、居眠りしてやがったんだ」


「おいおい、嘘だろ。旧駐屯地は魔霊が出るって噂なんだぜ。火を絶やしちゃいけないってのに。ド間抜けが」


「焼き入れてやる」


 エンドリがアダルフォの肩を掴んで握った拳を振り上げた。


「待ってくれよ~、知らねえんだ、頭がはっきりしなくってよ。勘弁してくれよ~」


 2発3発と殴られる音がした。


「馬鹿野郎が。頭がはっきりしねえとか言うのならこれで目が覚めたってもんだろう」


 エンドリはまたごろりと寝転がって眠りについた。

 アダルフォが呻く声も聞こえて来る。「なんだってんだよ~」と泣いたような声を出していた。


 そしてゲリーは悪態をつきながら火をもっと大きくするために薪をどんどんと入れていく。ばきっと枝を折る音が聞こえて空気が通る隙間を作りながら火を囲うように置いていた。


 ゲリーだ。ゲリーに呼びかけてみよう。


「おい、ゲリー。俺だ、分かるだろう!? 俺の声が聞こえるのなら返事をくれ!」


 ゲリーの手がぴたりと止まった。


「誰だよ、止めろよ。こんな時におかしな冗談は」


「冗談なんかじゃない。俺の声が聞こえているんだな?」


「おい、アダルフォ、腹いせか、てめえの失敗の腹いせを俺にしようってのか!」


 アダルフォは気絶するように寝入っていた。ゲリーが枝を投げ当てても少しも動じない。


「いや、なんだってんだ。おい、エンドリ?」


 「揶揄うのは止せよ」と弱々しく続ける。


「揶揄ってるんじゃない。本気だ、俺が分かるだろう?」


 ゲリーが立ち上がった。枝に布を巻いて火をつけるとそれをかざして声を出す俺の方にかざした。

 ちょうど草の隙間にいる俺の真上の辺りから明るくなった。


「誰だよ、誰だ? 質の悪い冗談だ、止せよ」


 ゲリーの呼びかけに俺は答えようとするのだがやっぱり名前が出て来ない。○○○○・○○○○だと言おうにもその中身を失っていた。


「アダルフォの馬鹿野郎のせいだ。この野郎が火を絶やしたから魔霊が集まって来たんだな。失せやがれ、どこかへ行きやがれ!」


「名前が、出て来ないんだよ。名前が分からねえんだよ。どこかにやっちまったんだよ。誰かに盗られたに違いないんだ。探してくれ、見つけてくれ、俺を、俺の名前を!!」


 俺は○○○○・○○○○だ!

 どれだけ思い出そうとしてみても少しも出て来ない。始まりの音も、半ばの音も、少しも思い浮かびやしないんだ。


「くそ野郎、てめえの名前なんて知ったこっちゃねえや。失せやがれ!」


 ひときわ大きな声を出してゲリーが応じるとエンドリがむくりと起き上がって言った。


「静かにしやがれ。てめえら、うるせえんだよ!!」


「エンドリ、何かがおかしいぜ、異常だ!」


「なんだよ、くそ。俺の脚しか引っ張れねえのか、てめえら2人は」


「違うぞ。俺が話してるのはアダルフォじゃない。アダルフォはほら、あそこにいるじゃねーか。でも、声はこっちから聞こえて来るんだよ」


 エンドリが立ち上がった。


「貸せ」


 先端に火を灯した枝をゲリーから奪うとエンドリはそれを振った。


「おい、この野郎。どこの誰だか知らねえがこんな時に遊ぼうってのなら容赦しねえからな。こちとら体術試験大会の準優勝者エンドリケリー様だぞ!」


 火の粉が散って草の上に降り落ちる。


「エンドリ、ゲリー、アダルフォ………」


 友達ってわけじゃない。関係を見直してもせいぜいが知り合いってところだろう。

 でも、俺はお前たちに助けを求めなくっちゃならない。


「くそ、何だってんだ。出てこい、誰だ!?」


 神様、教えてくれ。俺はどうするべきなんだ?


 いや、答えなんて決まってる。俺が本当に助けを求めているのなら、俺の言葉がこいつらに届くのなら、俺はその言葉に従って姿を現すべきなんだ。


 でも、怖い。こんな敵意を向けた前に身を差し出すなんて出来やしない。それもねずみの姿で前に出るなんて出来っこない。


 それでも今の俺には助けが必要だ。


「俺だ、俺だよ………」


 恐る恐る顔を出すと、そこには酷い嫌悪と俺が抱いている以上の恐怖の表情が浮かんでいた。


 分かる、分かるとも。でも、俺だって同じくらい戸惑っているんだ。


「近寄るな、化け物が!」


 傍に置かれていた薪の枝を俺の方へ投げて来る。


「アダルフォのせいだ。奴が火を絶やしたから魔霊を呼んだんだ!」


 エンドリとゲリーがパニックに陥って俺を攻撃してくる。


 違うんだ、俺はとにかく自分のこの状況を分かって欲しいだけなんだよ。


 次々と投げられる枝が俺の身体のすれすれのところを飛んでいく。俺のねずみの身体よりも大きなそれが直撃したらケガを負うだろう。いや、ケガで済めば良い方だ。


 逃げよう、ここから去ろう。

 去ったところで行く当てなんてないってのに。


「俺は困ってるんだ。話を聞いてくれるだけでも良いんだよ!」


 いつの間にか叫んでいた。


 エンドリが迫って来る。ひときわ大きな木の枝を構えてやって来る。


 だから、俺は逃げた。草の隙間を縫っていく。走っていくその頭上を切り払うエンドリが振るった木の枝が通過した。


 行く当てなんて本当にないんだよ。どこへ行ったらいいのかも分からないんだ。


 旧駐屯地の方へと向かうべきだろうか。

 そこに行けば何かが変わるのだろうか。


 俺を分かってくれる人が必要だ。俺の言葉に耳を傾けてくれる存在が。


 思い浮かぶのは2人しかいない。

 マイノア・マイクラント。

 ルーリー・スターンバック。


 この2人だけだ。

 幸いな事にこの2人もこの訓練に参加しているはずだ。


 先に行って待つんだ。

 スレアンドラ旧駐屯地に行って、待つしかない。


 何かに見られている気がする。獲物を狩るつもりの肉食獣の瞳に囲まれている。


 俺は走った。

 方角をその都度、確かめながらスレアンドラ旧駐屯地へ向けてひたすらに走った。


 林を抜けて、平原を駆けた。俺はねずみのまま風のようになっていた。荷を負わない行軍に果てしない生の迸りを感じている。


 そしてスレアンドラの丘の上に建てられている大きな家屋が見えた。

 スレアンドラ旧駐屯地だ。

 夜明けの頃だ。東の空が白みがかっている。どうやら夜明け前に着いたみたいだ。

 良かった、本当に良かった。


 どこで待つのがいちばん良いだろうか。

 2人をすぐに見つけられて、機会があるまで待ったり、後をつけたりするのに良さそうな場所。


 敷地内に入る。ほとんどの場合が最初の晩は建物内に入る事はしない。周りの警戒と建物と敷地内の整備から始められる。その後に建物内へと入って研修が始まるのだ。毎年、小動物の巣の除去や建物の保全を行う。


 嫌な感覚に襲われた。誰かが俺を見ている。それも強い敵意のような悪意のある目で俺を見ている。


 風が吹いている。生暖かい風が南から吹き込んでくる。風のそれほど強くない土地のはずなのに今日はずいぶん強かった。


 ぐさりと何かが突き刺さった。小さなねずみの身体を貫く鋭い棘の一突きだった。途端に背中から胸へと突き抜ける甘い痛覚を感じた。麻痺して身体が痙攣するばかりになっていく。


 何とかその正体を見極めようと棘がやって来た方を見る。


 禍々しい何かが立っている。ゆらりゆらりと姿形を風に揺らして変えながら敷地内を歩いている。


 得体のしれない何かが居る。気を付けろ、マイノア、ルーリー!


 気を付けろ、ここには何かが居るぞ!


 意識が遠のいていく。


「マイノア、ルーリー、気を付けろ、ここには何かが潜んでいるぞ………!」

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