18-03 予兆と余韻
夏休みに入ってすぐのある日、瀬尾がみんなに召集をかけた。
みんなというのは文芸部のメンバーだけでなく、ましろ先輩やちどりや怜、更にはさくらまでもを含む『みんな』だった。
真中とちせが誘ったというので、コマツナまでが来ていたくらいだ。
「お邪魔してよかったんですかね」とコマツナが遠慮していた様子だったが、気にするような奴はひとりもいない。
瀬尾が俺たちを呼びつけたのは、今となっては廃校寸前というくらい生徒数が減少してしまった小学校、
の、旧校舎だった。
野草の生い茂るグラウンドと、周辺を囲うような雑木林のせいで、あたりから隠されているような気さえする。
俺と大野は瀬尾に言われて背負っていたリュックサックを下ろすように命じられた。
彼女はその中からいくつものおもちゃの水鉄砲を取り出した。
「……それは、なに」
「水鉄砲」
「見ればわかる」
「見てわかるなら、しようとしてることもわかるはず」
「……何歳だよ」
「楽しそうでしょ?」
「正気か?」
と言って周囲を見ると、みんなはやれやれという顔をした。
「……なんで誰も文句言わないんだ?」
「三枝くん以外、みんな何するか知ってたからね」
「……こいつら全員ノリノリなの?」
試しに周囲を見てみると、それぞれがそれぞれに自分の得物に手をつけていた。
「……なんだってこんなこと」
「楽しそうでしょう?」
「そりゃ……」
「ね、三枝くん」
「ん」
「もっと、楽しんだほうがいいよ」
そう言って、瀬尾はからりと笑う。
もう、むこうに逃げ込んでいたときの瀬尾とは違う。
こんなこと、たしかにちどりは言い出さないだろう。
瀬尾はもう、瀬尾青葉になったのだ。
「……本気かよ」
「チーム戦。じゃんけん、グーパーね」
それで俺たちは、日が暮れるまでずぶ濡れになって踊るみたいに遊ぶことになった。
その日は綺麗に晴れていて、俺達は馬鹿みたいに笑った。
帰り道の途中で、不意の夕立ちに降られても、俺たちはとっくにずぶ濡れだったから、馬鹿みたいにはしゃいだままだった。
たぶん、この日のことを思い出すとしたら、俺はきっと、その、雨に濡れた瞬間のことを、思い出すんじゃないだろうか。
ずっとあとになって思い出す瞬間があるとしたら、きっと、そういう瞬間なんじゃないだろうか。
みんなの濡れた髪や服や、遠くの山に被さる黒い雲の隙間の夕焼けのことなんかを。
やがて、ずっとずっとあとになって、何もかもが過ぎ去ったあとに、ふと思い返すのだとしたら。
◇
部室の隅の戸棚の中に、俺達の書いた『薄明』も並べられる。
これからも俺たちは『薄明』を並べるだろう。
そのたびに、いくらかの注意を要するかもしれない。
その懸念はあるけれど、俺はあまり悲観も心配もしてはいなかった。
いつか、この『薄明』を他の誰かが読むことになるのだろう。
俺たちがそうしたように、いずれ誰かの目に留まるのだろう。
それはべつに、俺達の痕跡になるとまでは言えないだろう。
佐久間茂の『薄明』のような例もあるのだから。
それでもこれを読んだ誰かは、俺達がここにいたのだと想像するのだろうと思う。
誰かがこれを見つけるだろう。
この古い戸棚は化石を隠した地層のように堆積していく。
それはかつて現在だったもの。更に前には未来だったもの。そして今となっては過去になってしまったもの。
これから過去になっていくもの。
俺たちは、そのときちゃんと、誰かにとっての何かになれるだろうか。
そんなことを、俺はときどき考える。
◇
たとえば当たり前に季節が変わり、
船が積荷を載せ替えるように、人々が入れ替わったとしても、
また桜が咲いて、その中で誰かが孤独だったとしても、
あるいは、孤独であるからこそ、誰かが彼女を見つけるだろう。
◇
「もう部活決めた?」
「まだ」
「いろいろあって悩んじゃうよねえ。文化系だっけ?」
「ん。美術部か、写真部か……文芸部にしようかな、と」
「ふうん。なんでその並び?」
「……サボりやすそうだし」
「あはは。文芸部って言えば……この学校の文芸部、変な噂があるんだって」
「噂?」
「なんでも……桜の精霊が……」
「ええ、このご時世にそんな噂?」
「でもなんか、先輩たちが話してるの聞いたんだもん。見える人もいるんだって」
「ふうん……。まさか、信じてる?」
「んー。わたしは自分が見たものしか信じないからなあ」
「友情も愛情も信頼も? 寂しい生き方だね……」
「こら、勝手に人を寂しいやつにするな。そういう意味ではない」
「わかってるよ。……あ」
「ん。どったの」
「校門のところ。誰か立ってる」
「ん?」
「ほら。桜の下……」
「……どこ?」
「え?」
「誰もいないよ……?」
「……そう、なの?」
「うん」
「気のせいかな……」
「……ひょっとして、からかってる?」
「まさか。……早く行こう。移動教室、遅れちゃうよ」
◇
文芸部室の壁には、一枚の絵が飾られている。
淡いタッチで描かれたその絵は、線と線とが溶け合いそうになじんでいて、ふちどりさえもどこか不確かだ。
けれど、描かれているものの境界がぼやけてわからなくなるようなことはない。
鮮やかではないにせよ、その絵の中には色彩があり、陰影があり、奥行きがあった。
余白は光源のように対象の輪郭をぼんやりと滲ませている。
その滲みが、透明なガラス細工めいた繊細な印象を静かに支えていた。
使われている色を大別すると、三種になる。青と白と黒だ。
絵の中央を横断するように、ひとつの境界線がある。
上部が空に、下部が海に、それぞれの領域として与えられている。
境界は、つまり水平線だ。空に浮かぶ白い雲は、鏡のような水面にもはっきりとその姿をうつす。
空は澄みきったように青く、海もまたそれをまねて、透きとおったような青を反射する。
海と空とが向かい合い、それぞれの果てで重なり合うその絵の中心に、黒いグランドピアノが悠然と立っている。
グランドピアノは、水面の上に浮かび、鍵盤を覗かせたまま、椅子を手前に差し出している。
ある者は、このピアノは主の訪れを待ち続けているのだ、と言う。
またある者は、いや、このピアノの主は忽然と姿を消してしまったのだ、と言う。そのどちらにも見えた。
その絵は、世界のはじまり、何もかもがここから生まれるような、無垢な予兆のようでもあったし、
何もかもがすべて既に終わってしまっていて、ただここに映る景色だけが残されたのだというような、静謐な余韻のようでもあった。
そこに映る景色には、誰もいない。今はもう誰もいない。
けれどそれは、たぶん絶望ではなかったのではないか。今になって、そんなことを思う。
そこには誰かがいたのかもしれないし、これから現れるのかもしれない。
だからこそ、この絵は、予兆のようでも余韻のようでもあるのかもしれない。
たとえばすべての部品が入れ替わってしまった船があるとしても、
その船を形作ってきた部品たちが、朽ちてしまったとしても、これから朽ちていくとしても、
それは存在しなかったわけではない。
たとえ描いた人間がそう思っていなかったとしても、そういう嘘を、信じてもいいような気がしている。
傘を忘れた金曜日には へーるしゃむ @195547sc
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます