18-02 要約と注釈


「遅いぞ、後輩くん」


 学校近くのファミレスで、俺とましろ先輩は待ち合わせた。


「急に呼び出していったい何の……」


 言いかけたところで、ましろ先輩が気付いた。


「……さくら」


「ましろ」


 俺の斜め後ろから、さくらが顔を見せた瞬間、ましろ先輩は頬を緩めた。


「さくら!」


「あ、先輩。声が大きい」


「なんでさくらが……後輩くん。これは……」


「や。会いたがってたんで」


「会いたがってたって、でもさくらは……」


「隼がなんとかしてくれました」


「なんとかって……」


 ましろ先輩が目を丸くしているのを、俺は初めて見た気がする。


「すごいね……」


 今度ばかりは、俺の勝ちみたいだ。いつも踊らされてばかりだったから、悪い気はしない。

 テーブル席に座ってから、ドリンクバーを頼んだ。

 三人分。店員は変な顔をしていたけれど、「あとで来るんで」と言うと頷いてくれた。


 俺が三人分のジュースを持って席に戻ると、ましろ先輩は俺のことを見上げた。


「いったい、どんな方法で?」


「企業秘密です」


「……きみに鍵を渡したの、正解だったみたい」


 ましろ先輩じゃないみたいな気がした。

 彼女は何もかも、いつもお見通しみたいに見えたから。


 グラスを二人の前に置くと、さくらは当然のようにストローをグラスにさした。

 周囲から見たら、ひとりでに飲み物が減っていくように見えるのだろうか?


 ……人の認識なんて曖昧なものだ。

 誰かが見たとしても、気のせいで済むものかもしれない。


 仮に俺が見たら、そう思うような気がする。


 さくらに頼まれてましろ先輩を呼び出したわけだけれど、彼女たちはお互いに、何も話そうとはしなかった。

 どうしていいかわからないみたいに、ずっとそわそわしてばかりだ。


「さくら」


「はい?」


「なにか、話したかったんじゃないのか」 


「え?」


「そうなの?」


「……えっと、そういうわけじゃないです」


 てっきりそうだと思っていた。

 ということは、まあ、そういうことなのだろう。


「ただ、外に出られるようになったから……ましろに会いたかったんです」


「……」


「迷惑でしたか?」


 ましろ先輩は、一瞬、驚いたような顔をして、また笑った。


「何言ってるの。わかるでしょう?」


 彼女が笑うとさくらも笑う。

 さくらは、不安だったのかもしれない。


「ね、さくら。わたしも何度か、さくらに会いにいこうとしたんだ」


「……そう、だったんですか」


「うん。でも、なんだかそれって……すごく、ひどいことのような気がして」


 だから、会いに行けなかった。ましろ先輩はそう言った。


「さくら。……ひとりにして、ごめんね」


 そんな言葉で、俺はましろ先輩のことが、少しだけわかったような気がした。


「ね、ましろ」


 テーブルを挟んで向かい合って、さくらは先輩の手をとった。


「これからも、ましろに会いにきてもいいですか?」


「……何度だって、会いに来てよ」


「……」


「さくらは、わたしの友達だもの」


 俺は、なんだか自分が邪魔をしているみたいに思えたけれど、そんなことを考えた瞬間に、さくらがこちらを見て、


「何をいってるんですか」


 と笑った。


「あなたのおかげです」


「……」


 そうなのかな。

 どうしてか、そんなふうには、思えない。


 それなのに、


「ありがとう」とさくらは言った。

 泣いているみたいに見えた。




 ちせを部員に加えた文芸部は、瀬尾の主導で夏休み中に新たな部誌を作ることに決まった。


「前回は、わたしが消化不良だったからね」と瀬尾は言う。


 彼女はときどき『トレーン』に顔を出すようになった。

 俺を誘うこともあるし、誘わないこともある。


 ちどりと瀬尾は馬が合うのか、すぐに仲良くなって、週末に一緒に遊びに行く話をするようになるまですぐだった。


 まあ、趣味だってある程度は共通しているのだろうから、当然と言えば当然だろう。


 怜もまた、以前よりも頻繁に『トレーン』を訪れるようになった。


「一度こっちに来てみたら、意外とそんなに遠くないんだと思ってね」


 ということらしい。引越し先では上手くやっているというし、実際そうなのだろう。


 怜はときどき、何か言いたげな表情を見せることがある。

 そのたびに俺は訊ねてみるのだけれど、彼女は首を横に振ってはぐらかすだけだった。


 それを話してくれる日が来るのかどうか、俺には今のところ見当もつかない。

 

 改めて『むこう』のことについて話したけれど、怜も茂さんも、やはり、あちらには行けなくなったままらしい。


 どうしてそんなことになったのかはわからない。

 誰もがむこうにいけなくなったのか、

 それとも俺たちが、むこうにたどり着く条件を満たせなくなったのか。


 茂さんは、むこうについても、瀬尾についても、あまり多くを語らなかった。

 思うところは、きっとあるのだろう。それでも彼は、カウンターのむこうで笑っている。あの覆い隠すような笑みのままで。


 いずれにせよ、俺たちをさんざん混乱させた春の出来事は、まるで夢か何かだったみたいに、途絶えてしまった。


 カレハや、あいつがどうしているのか、俺にはわからない。

 夜からの音沙汰も、今の所はない。記憶しているかぎりは、ない。

 

 少し拍子抜けしているけれど、そんなものなのかもしれない。


 さくらは文芸部の部室に顔を出すようになって、他のやつらがいないときには、よく瀬尾やちせと話している。

 特にちせとは、ましろ先輩という共通の話題があるからか、だいぶ仲良くなったみたいだ。


 とりあえずのところ、仮に俺や瀬尾が卒業したとしても、ちせがいる。


 あとのことは、『薄明』がどのくらい機能しているかに関わっている。


 それについて大野は、


「あの噂がだいぶ広まってるみたいで、ずいぶんみんなに受け入れられてるらしい」


 と言った。


「みんな正直だね」と、呆れ調子で言ったのは市川だった。


 彼女が見る夢について、俺は詳しい話を聞いていない。

 けれど一度だけ、どうしても気になって訊ねた。


「まだ、夢は見るか」と。


 市川は、うん、と短く頷いた。それだけだ。


 彼女はまだむこうの夢を見ている。


 それはただの夢なのだろうか。

 それとも、まだ何かがあるのだろうか。


 あるのかもしれない。あそこは理外の森だから、俺たちの事情とは関係なく、きっと存在し続けるのだろう。

 どこかでぽっかりと口を開けているのだろう。


 それは俺にはわからない。


 わかるのは、市川と大野の距離が、以前よりも近付いたらしいということくらい。

 それについての詳しい話を俺は聞かなかったし、大野も言わなかった。


 やけに俺のことを買いかぶっている大野だから、言わなくてもわかると思っているのかもしれない。


 部室の前に置いておいた箱の中には、ときどき手紙が入っていることがある。

 それの担当は、ひとまず俺ということになった。


 といっても、『神様に対する恋愛相談』を果たして俺が覗き込んでいいものか、という問題もあるにはあった。

 

 とはいえ、『代理人』の役目はやっぱり俺だろう、という話もある。


 ときどき瀬尾やちせの力を借りつつ、主にさくらの主導で、俺は『縁結び』をやることになった。

 手紙には大抵名前も学年も書かれていなかったので、俺達はひっそりと、陰ながら、彼や彼女の悩みに手を貸すことになった。


 それは上手くいったりいかなかったりした。それは当然のことだ。


 さくらがやっていたときとは違う。


「人は縁がない相手のことも好きになったりするものですから、仕方のないことです」と、さくらは言っていた。

 

 そう言われると、俺は自分がやっていることがものすごいおせっかいなんじゃないかという気がしたが、


「それでも、無駄にはなりませんよ」


 とさくらは言っていた。


 そうであってくれればいいと俺も思う。

 傲慢になるつもりはないけれど、そうでなければ寝覚めが悪いから。


 もしそうでなくても……それは仕方ない。

 

 最初からそれは正しいことではないのだ。これは、嘘の上に成り立ったものなのだから。

 だから俺にできることがあるとしたら、その嘘を可能な限り誠実なものにするように努めることだけだろう。


 ちせはときどきさくらを家に招くようになったという。

 それはつまり、さくらがましろ先輩の家に遊びにいくようになった、ということだ。


 あのとき話しただけでは話し足りないことが、ふたりの間にはきっとあるのだろう。


 それができるのを自分の功績だと誇るつもりはないし、おそらくまだ完全ではない。

 

 二重の風景を見ることがなくなった俺は、不思議と今になって、その事実に寂しさを覚えている。


 あいつはどこかに消えてしまったのか。

 カレハはどこにいるのか。


 それを考えるたびに、俺はあの絵の中の景色に入り込みたくなるけれど、

 たとえそれができたとしても、もうむこうには行くべきではないような気がした。


 あなたの中の彼と合一を果たして。


 カレハはそう言ったけれど、俺は結局、そうはならなかったような気がする。

 あの暗い森で、灰のように崩れ落ちたあいつの傍らに、カレハが今もいるような気がする。


 そうであってほしいと、思っているだけなのかもしれない。





 七月の末近い土曜日に、茂さんは俺を車に載せてある場所へと連れて行ってくれた。


 高速道路を二時間走った先には、見渡す限りの森と山があった。

 

 俺と茂さんはふたりで森の中へと入り込み、そこでひとつの廃墟を見た。


 草花の気配が古びた建物に侵食して、割れた天窓から差し込む光に、割れたコンクリートの隙間に咲いた花が照らされていた。


「ここだよ」と彼は言った。


「ここがモデルだったんだ」


 どうしてそこに、俺を連れて行きたかったのか、茂さんは話してくれなかった。

 あのとき、あの絵の中で、茂さんは俺の背後に何かを見ていた。


 それはひょっとしたら、かつての自分の姿だったのではないか。

 そんな想像をしたけれど、俺にはどうせ本当のことはわからない。


 何を言いたくて俺をそこに連れて行ったのか。

 ただ、自分がそこに行きたくて、誰かを道連れにしたかっただけなのか。


 本当のことなんて、どうせ俺にはわからない。

 それでいいのかもしれない。


 その森の茂みのなかで、俺は跳ねる二匹の動物の影を見た。

 そこになにかの面影を重ねたけれど、それは単なる俺の感傷なのかもしれない。





 真中にも釘を差されたけれど、俺は毎夜ノートに向かって自分の文章を書こうとすることをやめなかった。

 

 文章を書けるようになりたい。少なくとも、みんなが書ける程度のものを書けるようになりたい。

 その欲望は、いつしか最初の理由や目標なんて置いてきぼりにして、欲望だけになってしまったような気がする。 


 書きたい、書きたい、という、欲望だけになってしまったように思える。


 純佳はそんな俺に呆れてため息をつきながら、ときどきコーヒーを差し入れてくれる。


 そして朝になると起こしてくれて、弁当まで作ってくれている。


「そろそろ妹離れしてくださいね」

 

 なんて純佳は言う。


 それでも「そうだな」と頷くと、少し寂しそうな顔をするのだ。


 書くのに疲れて窓の外を見てみると、空にはぽっかりと月が浮かんでいる。

 いつか見たときのような恐れのような気持ちは、今は綺麗になくなってしまっている。


 そのたびに俺は何かをなくしたような気持ちになって、なんだか自分が長い夢を見ていたような気分になるのだ。

 あるいは、こんな日常さえもが、ただの夢なのかもしれない。


 本当と嘘の区別なんて、どうせ俺たちにはつきやしない。


 だったら、気にするだけ無駄だ。

 

 そんな夜でも眠ってしまえば朝が来て、杞憂だと言わんばかりにあたりまえの明日がやってきた。


 部活をサボって屋上で昼寝をしていたある日、真中が勝手にそばにやってきて、寝そべった俺の頭を勝手に自分の膝の上にのせた。


「なんだよ」


「なんでもないよ」


 気にしないで、と真中は笑った。


 感情表現が豊かになった真中は、近頃めっきりモテるようになった。


 嘘から出た真で恋人になった俺としては頭の痛い事実だが、今のところ、不届き者は現れていない。


「もしそんなことになっても、せんぱいじゃ相手が悪すぎるよ」


 と、真中が照れもなくそんなことを言うので、


「そりゃあ買いかぶり過ぎだろう」というと、そうではない、と首を横に振って、


「せんぱいは手段を選ばないから、かわいそう」


 手段を選ばない。まあたしかに、そうなのかもしれないな、と俺は思った。

 

 その日はとてもいい天気で、俺はそれが、世界の終わりか始まりか、そのどちらかのようにさえ思えた。

 

 けれどそれはあくまでも、どこまでも地続きの日常の一端で、

 だから俺はほっとして、真中の膝の上で眠った。


「夏だね」


 と、真中がそう呟くのが聞こえて、俺は思わず笑ってしまった。


 いつのまに、こんなに明るいところまで来ていたんだろう。

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