色彩のある夏の休日

かげとひかりのひとくさりづつ

18-01 夜の夢こそ



「兄、起きてください」


「……」


「兄。起きてください。もう起きる時間ですよ」


「……ん。あと五分」


「そんな定番の寝言言う余裕があるなら起きてください」


「……ねむい」


「もう。夜遅くまで起きてるからですよ。昨夜は何してたんですか」


「……ちょっと」


「ちょっとじゃないです。ほら、起きないと恥ずかしいことしますよ」


 恥ずかしいことってなんだ。

 恥ずかしいことってなんだろう。


 興味を引かれて寝たふりを続けると、純佳の声がすっと近付いてきた。


 耳元で、


「起きてください」


 と、囁かれる。

 こそばゆい。


 そのまま黙っていると、湿った柔らかい感触があって、思わず俺はからだをびくりとさせて目を開いた。


「……なにをしたいま」


「耳をなめてみました」


「なめるな」


「目がさめましたか?」


「おかげさまで」


「じゃあ、早く着替えて降りてきてください。お味噌汁さめちゃいますから」


「……わかったよ」


 平気な顔で純佳が部屋を出ていく。


 どうしてこんな育ち方をしてしまったやら。



「もうすぐ夏休みですね」


 ダイニングテーブルを挟んで朝食を一緒にとりながら、純佳はそんな世間話をはじめた。


「何か予定は?」


「特には……バイトくらい」


「ですか。柚子先輩とは出かけないんですか?」


「ああ……どうだろうな」


「他人事みたいですね」


 そんなつもりはないけれど、そういう癖がついてるんだろう。


「なんだか……兄は最近、元気そうで何よりです」


「……そう?」


「はい」


「そう見えるなら、そうなんだろうな」


「うん。そうだと嬉しいです」


 そんなふうに思ってくれる人なんて、きっと長く生きていても、そんなに多くはないだろう。

 それだけで、やっぱり俺は恵まれている。


 さくらがいつか言っていた通りに。





 玄関を出ると、そこにさくらが立っていた。


「遅いです。遅刻しちゃいますよ」


「……さっそく出かけてるのな」


「探検してました。一緒に登校しましょう」


「……ん。まあ」


 まあいいか、と俺は思う。


 純佳はとっくに家を出ていた。俺はさくらとふたり、学校への道のりを辿る。


「しかし、面白いものだらけですね」


「そうか?」


「そうです。こんな面白いものに囲まれてるなんて、あなたは幸せですよ」


「そうかな」


「そうなんです」


「……そうなのかもな」


 でもきっとそれは、

 慣れてしまえば……

 見慣れてしまえば、きっと……。


 けれど、今は……。


「……もっと楽しんだほうがいいよ、か」


 そんな言葉を思い出して、俺は思わず笑ってしまった。


 どんな日々を過ごしたって、たぶん結論なんて出ないけれど、おんなじところに行き着いてしまうものなんだろう。


「なあ、さくら」


「はい?」


「俺はさ」


「……馬鹿なことを考えてますね」


 こんなことで、本当にさくらの居場所を作ったことになるんだろうか。

 俺は結局、さくらに何もできていないんじゃないか。


 そんなことを考えたところで、どうせいまさらだとわかってるのに。


「ね、隼。お願いがあるんです」


「ん」


「あのね……」






 部誌を完成させてからまだほんの少ししか立っていないが、文芸部には変化があった。


「これで三通目だね」


 と、瀬尾が呟く。


 それからじとりと、責めるような目で俺を見た。


「……」


 俺たちが完成させた部誌『薄明』はいつものように図書室のスペースを借りて展示・配布されている。

 

 今回、どうやら大野が図書新聞のスペースを借りて宣伝してくれたらしく、けっこう多くの生徒の目に止まっているらしい。


 その宣伝というのが、いわゆる「縁結びの神様についての研究」をピックアップしたものだったという。

 どうやらその話題に興味がある人間というのは少なくはなかったらしく、結果的にさくらの存在は急速に生徒たちに認知されつつある。


 結果、

 冗談半分に文芸部の入り口に置いておいた偽物の箱に、恋愛相談の手紙が何通かやってきている、というわけだ。


「願ったり叶ったりですね」


 と言うさくらの声は、俺と瀬尾とちせにしか聞こえていない。


「……ったく。どうすんだよ、これ」


 呆れたふうに語る大野の隣には市川が座っている。

 おまえたちだって恩恵を受けているんだぞ、とは俺は言わないでおいた。


「ま、まあまあ。でも、ほら、こういう形でも、部が認知されるのは悪いことじゃないし」


「活動目的に反してるだろ」


 事情をいくらか知っている瀬尾が庇ってくれるけれど、大野は俺の方を見ていた。


「……こんなことになるなんて思わないだろ?」


「そりゃそうだが。どうもこの手紙、いたずら半分ってわけでもなさそうだぞ」


「……みんな真剣に生きてるなあ」


「おまえも真剣に対応してやれ」


「俺?」


「そりゃあな」


「なんで。一番不向きだろ」


「おまえが原因だろうが」


「だから……こんなことになるなんて」


「でも、結果としてこうなった。どうするんだよ」


「どうするったって」


 ……いや。

 まあ、そうだな。


「……どうにかしてやるしかないだろうな」


 俺のその言葉に、大野は少し面食らった顔をした。


「ん……?」


「なんだよ」


「いや、てっきり、知ったことじゃないって言うかと思ったから」


「……まあ」


 普通なら、そう言っているところだけれど。

 ここまで込みで約束したのだ。


 最初から投げ出すつもりはない。


「どうにかやってみるさ」


 さくらが笑った気配がした。

 そっちを向くと、もうそっぽを向いている。




「せんぱい、わたしに秘密にしてることあるでしょ」


 部活を途中で抜けてふたりで屋上に来ると、出し抜けに真中はそう言った。


「まあな」


 と俺は取り立てて隠さなかった。


「さいきん、せんぱいとちせの様子がおかしい」


「ああ、まあ」


「ちせも関係あること?」


「そうだな」


「わたしには関係ないこと?」


「そういうわけじゃない」


 真中はむっとした顔をする。

 俺はそれを見て少し笑う。


「なんで笑うの」


「べつに、隠したいわけじゃない。ただ、話してもあんまり信じられないようなことだから」


「……そんなの、もういまさらでしょ」


「ん」


「青葉先輩のこととか、絵のこととか、いろいろあって、いまさら信じられないことなんて、想像つかない」


 それもそうか、という気もする。


「でも、話せないなら、べつにいいよ」


「……いいのか?」


「うん。あのね、せんぱい。わたしがつらいのはね、もっとべつのこと」


 俺たちはフェンスに近付いていく。

 網目を掴んで、街を見晴らす。


 少しだけ考える。


「べつのこと、って?」


「わかんない?」


 そう言って彼女は、ふいに俺の方へと手を伸ばす。

 その指先が、俺の目尻のあたりに触れた。


「……すごい隈」


「……」


 そんなにひどいのかな。


「部誌が完成する前から、ずっとそんなふうだったけど。まだ治ってない」


「……」


「なにか、無理してたんでしょ」


「……べつに、そういうわけじゃない。寝不足には慣れてるし」


「でも、疲れてるみたいだよ」


「そうかな。純佳には、元気そうになったって言われたけど」


「それは、前よりは、そうかもだけど。でも、やっぱり、無理してる感じ」


 そうなのかなあ、なんて考えてたら、真中は「どうしたの?」というみたいに微笑んだ。


 夏の日暮れはやけに遅くて、だから空はまだまだ明るい。

 それなのに今が夕暮れみたいな気がした。

 

 もうすぐ夜が来てしまうような、そんな気がした。


「……瀬尾が」


「ん」


「瀬尾がいなくなったのは……俺が、あいつの小説を真似たからだ」


「……そう?」


「うん。俺が、俺の文章を書けなかったから、あいつを真似て、あいつはそれで、ショックを受けて、いなくなった」


 発端は、そうだった。

 他のいろんな事情が絡まっているにせよ、そうだった。


「だから俺は……早く、俺だけの文章を書けるようにならないと」


「……そんなの、あるの?」


「わからない」


 創作は模倣から始まる。

 模倣と剽窃からの逸脱が、個性になる。


 そういう理屈はわかる。

 

 でも俺は……。


「文章が書けるようになりたかったんだ。昔から」


「……書けてたじゃない」


 まるで小さな子供を見るみたいな微笑み。そのせいで、気が緩んでるんだろうか。

 

「書けなかった。だから書こうとして、書こうとして、ずっともがいてた。それを続けて、その結果、瀬尾を傷つけた。だから……」


「……だから、書けるようになりたい?」


「……うん」


「まさか、それで……部誌が出来上がったあとも?」


「……笑う?」


「……ふふ」


 笑われてしまった。


「せんぱいはばか」


「……まあ、なあ」


「あのね、せんぱい。せんぱいがどれだけ隠しても、わたしには全部わかるんだよ」


「……へえ? たとえば?」


「青葉先輩がいなくなったときに、せんぱいがすごく心配して、責任を感じてたこと」


「……それはさ」


「それに、大野先輩も言ってた」


「なんて」


「あいつは基本的にめんどくさがりで嘘つきでスカしてるように見えるけど」


 ひどい言いようだ。


「でも、困っている人を助けるときには善悪にすら縛られないって」


「……」


「大野先輩が困ってるところ、助けてたんだって?」


「なんのことだ?」


「大野先輩が言ってたよ。文章が書けない自分のために、代わりに書いてあげてたって」


「あれは……」


「青葉先輩も、言ってた。新入部員の勧誘のときだって、結局動いたのはせんぱいだったって」


 そんな些細なこと。

 そんな些細な……。


「中学の時だって、わたしのことを守ってくれた。守ってくれる理由なんて、ひとつもなかったのに」


「……そんなの、結果論だろ」


「でも、みんなにはそう見えてるんだよ」


「……」


「だからね、せんぱい。そんなに自分を追い詰めなくても平気だよ」


「……」


「それがどんなにわかりにくくても、わたしはちゃんとそれを見抜いてあげるから。それを見抜いている人だって、きっとたくさんいるはずだから」


「……そうかな」


「うん」


 そう言って、彼女は俺の頬を撫でた。


 どうしてだろう。


 泣きそうになるのはどうしてだろう。


「だから、無理をしないで。自分に何かが欠けてるなんて思わないで」


「……」


「せんぱいは、せんぱいのペースで、少しずつ、なりたい自分になっていけばいいんだよ」


「……年下のくせに、偉そうに」


「……元気になった?」


「うるさい」


「せんぱいってさ、嘘つきっていうより……見栄っ張りだよね?」


「……」


「かっこつけ」


「うるさい」


 真中の肩に腕を回して、引き込むみたいに抱きしめた。


 泣きそうな自分を見られたくなかった。


 こいつは分かってない。

 こいつは全然分かってない。


「……せんぱいは、強がりすぎ」


「そんなことない。弱音吐いてばっかりだよ、俺なんか」


「……そうかも。そうかな。どうなのかな。わかんないけど」


 真中の小さなからだは、すっぽりと腕の中におさまっている。

 声がそばに聞こえる。


「せんぱい」


「……ん」


「わたしを離さないでいてくれて、ありがとう」


「……なんだよ、それ」


「守ってくれて、ありがとう」


「……」


 俺は、

 真中を守ってなんか、いない。



 真中を好きになることはない。

 真中を好きになることはできない。


 俺は真中を守れなかったんだから、そんな資格があるわけがない。


 俺は真中を守ったりしなかった。

 真中が傷つくのを眺めているだけだった。



 それでも、今、真中は俺のそばにいる。


 それが奇跡みたいに思えるのは……どうしてなんだろう。


「ときどきね……」


「ん」


「ときどき、変な夢を見るんだ」


「……どんな?」


「わたしが死んじゃう夢」


「……」


「その夢のなかでは、誰も助けてくれなくて、中学の頃のわたしは、とてもつらくて、それで、死んじゃうの。そういう夢を見るんだ」


 俺は、不意に、純佳といつか話したことを思い出した。


 ──……また夢ですか。


 ──またって?


 ──……あ、いえ。以前にも、そう、他の人に、同じようなことを言われたことがあって。


 ──……他の人?


 ──ええと、兄の知らない人です。


「でも、その世界にもせんぱいはいるの。せんぱいはわたしを守ってくれようとして、でも、わたしは、その手を取れずに死んでしまうの」


「……」


「だからね、わたしは毎朝目をさますたびに、思うんだよ。最近は本当に、強く思う。ああ、よかった、ただの夢だったんだ。この世界にはせんぱいがいて、せんぱいはわたしを守ってくれたんだって。だから、せんぱい、気付いてないかもしれないけど、せんぱいがしたことは、わたしにとっては奇跡みたいなことなんだよ」


「……」


 うるせえよ、バカ、と、言いかけて、やめた。


「そんなの……」


「ん」


「奇跡なんて、そんなの……」


 言葉にするのが嫌になって、真中をぎゅっと抱きしめた。

 真中がここにいることが、奇跡みたいに思えるのは、俺の方だ。


「……へへ」


 真中は、そんなふうに笑った。俺は、その真中の表情が見られないことを少し悔やみながら、それでも真中を離せずにいた。




 


『薄明』平成四年春季号の冒頭には、江戸川乱歩が好んで記したという言葉が引用されていた。


 曰く、


「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」


 その言葉の意味も意図も、俺は知らないままでいい。


 俺たちは何かを演じているのかもしれない。誰が仕組んだ舞台なのかもわからないまま。

 それを仕組んだのが、仮に俺自身だったとしても。


 それがどうしたっていうんだろう。


 今この腕のなかにあるもの。

 それが離してはいけないものだ。


 それだけわかっていればいい。


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