奇術師A
17-01 世界の死角
佐久間茂はあの森を作った。
夜の力を借りて。
夜は現実に影響をきたした。
その結果、『薄明』を通じてさくらが生まれた。
これが最初の仮定。
そしてこう続く。
仮に『薄明』がさくらのディティールを作り上げたのならば、
『薄明』によってそれを書き換えることは可能ではないか。
佐久間茂がデミウルゴスなのだとしたら、夜はデウス・エクス・マキナだ。
これはもはや呪術的儀式に近い。
佐久間茂の『薄明』、その『後日談』を描くことで、『さくらのディティールを書き換える』。
矛盾なく、さくらを揺らがせないように、慎重に。
さくらを今のさくらのままで保ちつつ、さくらを書き換える。
そのためには、佐久間茂がそうしたように、
『薄明』を作らなければいけない。
『薄明』そのものを物語にしなければならない。
そのとき夜は、昼の世界に静かに侵食するだろう。
『薄明』。
夜明け前のほのかな明かり。
◇
「……突拍子もないこと考えるね」
「まあな」
「本当にできると思う?」
「わからん」
「でも」
「ん」
「おもしろそう」
そう言うと思った。
◇
『薄明』平成四年春季号
目次
1.小説
『ゆりかごに眠る / 赤井 吉野』
『白昼夢 / 佐久間 茂』
『空の色 / 弓削 雅』
『悲しい噂 / 酒井 浩二』
『ひずみ / 峯田 龍彦』
『ハックルベリーの猫 / 峯田 龍彦』
『許し / 笹塚 和也』
2.散文
『ちょうどいい季節 / 酒井 浩二』
『神様の噂 / 赤井 吉野』
『偏見工学 / 峯田龍彦』
『恋人のいない男たち / 笹塚和也』
3.詩文
『冬の日の朝に思うこと / 赤井 吉野』
『夕闇 / 弓削 雅』
『たちまちに行き過ぎる / 弓削 雅』
『成り立ちについて / 弓削 雅』
『作り方 / 佐久間 茂』
編集:赤井 吉野 弓削 雅
表紙:赤井 吉野
編集後記:赤井 吉野
◇
『薄明』平成四年夏季号
目次
1.小説
『ふんわりとした音 / 赤井 吉野』
『水の上 / 佐久間 茂』
『茜色には程遠い / 弓削 雅』
『もしもあなたがいなくても / 弓削 雅』
『真実 / 峯田 龍彦』
『日々かくのごとし / 峯田 龍彦』
『白線捉える / 峯田 龍彦』
『永遠の途中 / 笹塚和也』
2.散文
『猫と犬について / 赤井 吉野』
『屋上遊園地について / 赤井 吉野』
『天気について / 赤井 吉野』
『縁結びの少女 / 赤井 吉野』
『幽霊の所在 / 峯田 龍彦』
『無限の猿と踊る / 佐久間 茂』
3.詩文
『白衣 / 弓削 雅』
『風遥か / 弓削 雅』
『鈴の音 / 弓削 雅』
編集:赤井 吉野 弓削 雅
表紙:赤井 吉野
編集後記:赤井 吉野
◇
瀬尾と別れたあと、俺は結局、『トレーン』の店先に居た。
俺がやろうとしていることは、正しいことなのか、可能なことなのか。
そんな考えが浮かんでは消えていく。
そんなとき、不意に、見知った姿を通りの向こうに見つける。
彼女は軽く手をあげてから、静かに歩み寄ってきた。
「やあ」と彼女は言う。
「やあ」と俺は返事をする。怜だった。
「最近はよく見るな」
「思ったより簡単にこっちに来られることに気付いたものだからね」
「そうか。何よりだ」
「うん。たったこれだけの距離だったのにな」
「……?」
その響きになにか変なものを感じて、俺は思わず眉をひそめた。
「べつに深い意味はないよ。……さっき、誰かと一緒みたいだったけど」
「ああ、さっきまで……」
「……瀬尾、青葉さん?」
「……だな」
「……ねえ、隼。どうして彼女がちどりにそっくりなんだって、教えてくれなかったんだ?」
「……」
「彼女は、ちどりだよね」
さて、どう答えたものか。
けれど本当は、悩むようなことでもなかった。
「ちどりと言えば、ちどりだが……」
怜が何かを言い出すよりも先に、言葉を続けた。
「今は、瀬尾青葉だ。本人がそう言ってる」
怜は、なにか承服し難いような顔をしたが、やがて頷いた。
「なるほど。……どうして彼女はここに?」
「ちどりと、友達になりたかったらしい」
「……」
今度こそ、いよいよ納得がいかないような顔を、怜はする。
どうしてだろう。
いつもより、どこか感情的に見える。
「そっか」
とだけ言うと、怜は店内へのドアの取っ手を開いた。
「隼は帰るの?」
「そうだな。考えなきゃいけないこともあるし、遅いと純佳が心配する」
「そっか。……ね、隼」
「ん」
「瀬尾さんは強いね。ちどりも、きっと」
「……まあ、そうだな」
「ぼくは……」
「……ん」
「……」
「怜?」
「いや……」
「言いかけてやめるなよ。怜、悪い癖だ」
「隼には言われたくない。ただ、なんとなくね……」
「なんとなく、なんだ」
「ぼくは……昔から、ちどりになりたかったんだ」
「……どういう意味?」
「いや。……なんでもない、忘れてよ」
そう言って、怜は、今度こそドアを開けた。
「あ、怜」
「……なに?」
「ひとつ、聞きたかったんだ。おまえ、最初に"むこう"の話をしたときのこと、覚えてるか?」
「……えっと、学生証の話をしたとき?」
「そう。そのとき」
「あのときがなに?」
「覚えてるか? おまえ、言ってたよな。"案内人がいた"って」
──怖い思いはしたから気をつけてたんだ。本当に危ないところには、近付かないようにしてた。案内人もいたしね。
「……そんなこと、言ったっけ?」
「ああ。あの案内人って、誰のことだったんだ?」
ましろ先輩ではない。
佐久間茂でもない。
おそらく、カレハでもない。誰もそんな話はしていなかった。
だとしたら、怜の案内人は、誰だったんだ?
「……えっと、思い違いじゃないかな。そんなこと、言った覚えがないんだけど」
「……そう、か?」
「うん。ぼくはむこうにいるときは、いつもひとりだったし」
……でも、それでは話が通らない、ような気がする。
が、本人にそう言われては、確かめようもない。
「それだけ? ぼくは行くけど」
「……あ、ああ」
「じゃあね、隼」
最後、怜は俺の顔を見なかった。
そんなこと、今まではなかった。
それなのに俺は、怜に対して何を言えばいいのかもわからない。
怜のことを、自分がどれだけ知っているのか。
そんなことを、どうしてか、考えてしまった。
◆
隼はきっと、気付かないだろう。
おそらくこの事実はぼくの中でしか存在できない。
砂浜に書いた文字のように、やがては波にさらわれて消えていくだろう。
誰にも確かめられないし、誰にも知ることができない。
誰も気付かない。
ぼくをぼくと呼ぶこのぼくが、泉澤怜なのだと、みんなが信じている。
このぼくがここにあることは……ぼくがぼくを獲得した結果だと、誰も知らない。
それでいい。
隼はぼくを探偵と呼ぶ。ぼくは隼を詐欺師と言う。
けれど本当は違う。
本当の詐欺師は探偵のような顔をしているものだ。
そんなことを隼は知らなくていい。
ぼくは、ちどりになりたかった。
隼になりたかった。
◇
「……それで?」
と、市川鈴音は言った。
渡り廊下のベンチに腰掛けて、市川鈴音は本を読んでいる。『ゴドーを待ちながら』だ。
部誌を作る、と俺は言った。瀬尾に話を通した以上、あとは部員を説得するだけだ。
「市川、絵が描けるだろ」
「そりゃ、描けるけど……」
「表紙」
「……もう、期末だよ。部活動休止期間」
「関係ない」
「なくない。なんでそうなるの?」
「まあ、なくはないか。いや、でも、ちょっと描いてほしいんだよ」
「そう言われても……ううん、描くぶんには、いいんだけど、なんで急に?」
「必要だと思う」
「……前作ったときは、なかったよね?」
たしかに、前回作ったときは、なかった。
とはいえ、これは儀式だ。
「描いて欲しい絵がある」
「……」
市川は、静かに考え込んだ。やはり、説明しないわけにはいかないのだろう。
「……なあ、市川」
「ん」
「前から思ってたんだけど……」
彼女は俺を見ようともしない。ずっとページに目を落としている。
「おまえ、"むこう"に行ったことがあるな?」
「……」
ようやく彼女は俺を見た。
「……どうして?」
「見たからだよ」
「……」
さくらを連れ戻しにいった、あの日。
帰り際、俺は渡り廊下で人影を見た。
最初はただの気のせいだと思った。
でも、それだけのはずがない。
市川鈴音の姿をあのタイミングで幻視するなんておかしな話だ。
思えば、市川は最初からおかしかった。
俺が部誌に寄せていた文章、そのなかの、"むこう"に近い風景の描写。
それを彼女は「実話か」と訊ねた。
そんなわけがない、と俺は答えたけれど、そもそもの話……。
どうしてあんな馬鹿げた風景を、こいつは"実話"だなんて思えたんだ?
そう思った瞬間、あれが単なる幻だったとは思えなくなった。
思えば市川は、やけに"むこう"の話に対して理解が早かった。
「……隼くんは、探偵みたいだね」
「俺は探偵にはなれない」
「そうかもだけど」
「……で?」
「……どうかな」
「……どうかな、って、どうなんだよ」
「わかんないの」と市川は言った。
「わたしは夢に見てるだけ」
「夢?」
「うん」
珍しく、真摯な声音だった。
そのせいで俺は、それ以上の追及ができない。
「……夢、か」
「うん」
「……そっか」
なら、言っても仕方がない。
「ま、いいや」
「……ん。描いてほしい絵って?」
訊ねられて、俺は少しだけためらった。
けれどたぶん、必要なものだろう。
たぶん、その絵は、描かれるべきだろう。
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