02-02 楽しんだほうがいいよ
バイト先の店につくと、店は仕事帰りの(あるいはこれから出勤の)人間で混雑していた。
すぐに制服に着替え売り場に出る。一年もやっていると、さすがに時間帯ごとの空気のようなものにも慣れるものだ。
ホットフーズが飛ぶように売れ、陳列されていた弁当は片っ端からなくなっていき、パンの棚はそこらじゅうが歯抜けになる。
せわしなく働いているうちに時間が過ぎて、そうこうしているうちに新しい商品が納品され、今度はそれを陳列する業務が始まる。
客の流れが落ち着いて、商品の補充が終わったあと、ようやく話をするだけのゆとりが生まれる。
「今日は、特にバタバタしたね」
一緒のシフトだったのは、二年くらい前からここで夕勤をしているフリーターの男の人だった。
どうしてフリーターなのかは知らない。夜勤じゃない理由も知らない。人にはそれぞれ事情がある。
この男の人のことが、俺はあまり得意じゃない。
存在感が希薄というか、背景が見えないというか。
見た目はいたってまともな好青年という感じなのに、醸し出す雰囲気が、得体も知れず不可解だ。
「片付け終わったら、ちょっと休憩してきていいよ」
そう言われて、思わず戸惑った。
「いや、でも俺、時間的に休憩ないですよ、今日」
「いいよ。ちょっとくらいなら回せるし、べつに登録する必要もないから」
「……はあ」
商品と一緒に納品されてきた備品や消耗品を整理しながら、俺は曖昧に頷いた。
まあ、このくらいゆるい方がやりやすいのだけれど、悪いことをしている気分になる。
「新学期、どうだい」
「どう、と言いますと?」
「いや、具体的な質問じゃないから困るけど、全体的に、どうかなって」
「具体的じゃない質問ほど答えにくいもんはないですよ」
「ああ、うん。おっしゃるとおりだね」
「でも、まあ、調子は……どうでしょうね」
悪いと言えば悪い。普段どおりと言えば普段どおり。
良いとは、言いにくいかもしれない。
「先輩は……」
と、俺は彼のことをそう呼んでいた。
「どうですか?」
「なにが?」
「調子です」
「ん。……んん。どうかな。俺はほら、平坦だからね」
平坦。そんな感じもした。
それ以上、話は膨らみそうもない。
「そういえば、今日、変なことがあったんですよ」
ふと思い出したことが、思わず口をついて出た。
「変なこと?」
「はい。自分でも、白昼夢でも見たんじゃないかって思うんですけど……」
「おもしろそうだね。何があったの?」
「今朝、学校に遅刻して……それで、諦めて、学校につながる坂道を歩いてたんです」
「坂道?」
「ええ。で、登りきった先に、校門があって、傍に大きな桜の木があるんですけど」
「桜」
「はい。それで、一瞬だけなんですけど……女の子が」
そこまで言ってから、さすがに、口ごもってしまう。
俺は今何を言おうとしてたんだろう。
女の子の姿を見たんです、幻なんですけど、なんて言ったら、からかわれるのがいいところだ。
「……女の子が?」
ちょっと気付くのが遅かった。先輩は、もう最後まで聞く準備ができているらしい。
「……女の子の姿を見たんです。でも、次の瞬間には、いなくなってた、っていう」
「……いなくなってた?」
「はい。……白昼夢だと思うんですけどね、自分でも」
「ふうん。おもしろいね」
「そうですか? 自分で言うのもなんですけど、俺が他の奴に同じ話をされたら、ちょっと笑いますよ」
「でも、見たんだろう?」
「まあ、見えた気はしました」
「だったら見えたんだよ」と彼は言った。
だったら、という言葉の意味がわからなくて、俺は戸惑った。
「どういう意味ですか?」
「世界は脳の中にあるから」と彼は言う。
「だから、きみが見た気がするものは、きみが見たものなんだと思うよ」
説明されても、やっぱりよくわからない。
「……実は、二回見たんです」
「二回? その女の子を?」
「はい。一度目は、さっき言った校門の桜の木の下。二回目は、昼休みの屋上で」
「へえ。変なところにいるんだね」
「……」
「その子、なにか言ってた?」
「……」
何の含みもなさそうに、先輩は訊ねてくる。
俺は、さすがに口を噤んだ。
なんなのか、わからないけれど、この人のこういうところがおそろしい。
「……先輩って、ちょっと変わってますよね」
「そうでもないと思うけどな」
「言われませんか?」
「言われないね。まあ、仮に思ってても、直接言う人間っていうのもなかなかいないと思うけど」
そうかもしれない。
「でも、きみの目に僕が変わって映るとしたら……」
先輩は、いつもみたいに何気なく笑った。
「それは、きみの目が変なんだと思うよ」
……そう、かもしれない。
――ねえ、あなたは、すごく恵まれてますよね。
――あなたの周りにはいろんな人がいて、誰もがあなたを、あなたみたいな、どうしようもない人を、当たり前に受け入れてくれていますよね?
―― そんな人間のくせに、どうして、不満そうなんですか?
……。
「休憩、してきていいよ」
「……はい」
今度は、遠慮はしなかった。
急に、頭がくらくらしているような気がした。
結局、その日はそのまま、さしたる問題も起きずに、バイトを終えた。
先輩は、それ以上は何も訊いてこなかった。
◇
家に帰ると、純佳がダイニングの椅子に座り、テーブルに突っ伏して眠っていた。
ちょっとした悪戯心が湧いて、声をかけずに歩み寄り、彼女の耳をつまんでみる。
「ん……」
くすぐったがるみたいに、純佳は眉を寄せて身じろぎした。
すぐ起きてしまうかと思ったら、案外深い眠りについているらしい。
暗い帰路を歩いてきた身としては、少し寂しいような気もする。
純佳をそのままにしておくことにして、
夕飯代わりにもらってきた廃棄の弁当をレンジで温め、その間にやかんに火をかけた。
インスタントの味噌汁でもないよりはマシだ。
ちょっとやそっとの物音では、純佳は目覚めそうもない。
このまま寝せておいてもいいが、まだ夜は冷える。風邪でも引かれたらよくない。
とはいえ、すぐには起こさずに、俺は純佳の正面に座って、ひとまず弁当を食べることにした。
今日の課題のこと、それから、『薄明』用の原稿。
やらなきゃいけないことはある。それをこなしていかなければ。
両親も、そろそろ帰ってくる頃だ。洗い物はまだやっていなかったようだし、早めに食べて終わらせてしまいたい。
そう思って弁当をかきこみ、食べ終えたところで、純佳が目をさました。
「おはよう」と俺が言う。
「おかえりなさい」と彼女が言う。
「……寝ちゃってたみたいです」
「四月だし、疲れてるんだろ」
「そうかもしれないです」
「今日は早めに寝るといい」
「そうします」
寝ぼけた声でそう言ってから、純佳は小さくあくびをした。
彼女がシャワーを浴びるというので、俺は洗い物をして、ひとり自室に戻ることにした。
夜は暗い。
今日出た課題のことを考えるより先に、部誌の話を思い出した。
部誌『薄明』。一学期中。まだ始まったばかりだとはいえ、ぼーっとしていたらあっというまに終わってしまう。まさかギリギリに発行するわけにもいかないだろう。
試験だってある。ゴールデンウィークが終わる頃までには、なんとか方向性を掴んでおきたいところだ。
文章。文章か。
少しだけ考えようと思ったけれど、結局やめにしてしまった。
そして、自分の部屋の中を見回してみる。
小さな本棚に並ぶ雑誌と文庫本、何枚かのCD。
何もかもが他人事みたいだ。まるで他人の部屋に感じる。
どうしてだろう。いつからこうなったんだろう。
そんなことを考えていても仕方ないので、今度は部屋を見回すのをやめ、部誌の原稿の内容を考えることにした。
いつもそうだ。
なにかが嫌になったらなにかに逃げて、逃げた先で嫌になったら別のなにかに逃げる。
ライオンから逃げ出した男が、その先で切り立った崖と荒れ狂う高波に出会ったとしたら、彼はライオンの口の方へと引き返すのだろうか。
そんなたとえ話を思い出す。
そんな思いつきごと放り投げる。
――でも、きみの目に僕が変わって映るとしたら……それは、きみの目が変なんだと思うよ。
……今日は、さんざん人に好き勝手言われた日だった。
自分がどうしてこんなありさまになっているのか、やっぱりよくわからない。
何かが欠けている気がするのに、それがなんなのかわからないなんて、
そんなの、結局、単なる思いすごしなんだろうか。
真中と付き合っているふりなんてしているのも、
ちどりに距離を置かれてそのままにしているのも、
純佳に甘えてしまうのも、
大野のゴーストライターをやっているのも、
文章なんて書こうとするのも、
結局全部同じ理由だ。
何をしていいのか、何がしたいのかわからないから、流れに身を任せているだけだ。
携帯を取り出して、誰かに連絡をしようと思った。
とりあえず、最初に思いついた相手が瀬尾だったので、
「ばおわ」
とだけメッセージを送ってみる。
「日記帳にでも書いておきなさい」とすぐに返信が来た。
「じゃあ今度から瀬尾に向けて言うべきことは全部日記帳に書いておく」
「片恋の歌みたい」
「調子に乗るな」
「まあ青葉ちゃんはかわいいから副部長が惚れちゃうのもしかたない」
「調子に乗るなと」
「いや~モテちゃうもんな~困ったな~ホント。彼女持ちにモテてもなー」
イラッとしたので、ボイスメッセージ機能を起動して「人の話はちゃんと聞け」と怒鳴った。
「うるさい!」とボイスメッセージが返ってくる。ノリの良いやつだ。
「今日の晩飯なに食った?」
「おさしみ」
「タコたべたい」
「わたしタコきらい」
「おまえの好みなんて聞いてないんだが?」
「わたしが副部長の質問に答えたと思うなんて思い上がりもいいところだよ」
「やっぱりサーモンだよね」と追い打ちが来る。
「サーモンだな」と適当に返事を返すと、数分後、画像が送られてきた。
牛乳プリンだった。
「これより食す」
「太るぞ」
「太らないんだなーこれが」
「俺もたべたい」
「知りません」
返信を考えるより先に、また追撃。
「なんかあったの?」
俺は一瞬戸惑った。
「なんかって?」
「だって、そっちから連絡よこすなんて珍しいし」
「いやまあ」と、返信ではなく、思わず声が出た。
まあ、たしかに珍しいのだが。
返信しないでいると、音声通話の着信が始まる。
少し迷って、俺は出た。
「やあ」と瀬尾は言う。
「……やあ」と俺は返事をした。
「なんか、最近暗いねえ?」
「まあ、否定はできないけど」
「あは。変なの」
「なにが」
「さっきまでばかみたいなこと言ってたのに、声が真面目くさってるから」
真面目くさってるとはなんだ。
「根が真面目だからな。どうしても出ちゃうんだよな」
「そうなんだ。ふーん」
どうでもよさそうな声音に、してやられたような気持ちになる。
弱みを見せている気がする。
「寂しいの?」
と、なんでもないことみたいに、瀬尾は言う。
それは図星だったんだろうか。
「……そんなわけない」
「ふうん? ね、副部長」
「……なんだ」
副部長、と呼ばれるたびに、未だに違和感がある。
すっかり定着してしまったが、前までは苗字で呼ばれていたから。
「寂しいならさ、ゆずちゃんに連絡しなよ」
瀬尾はそういうしかないか。
困らせているのかもしれない。
「真中とは……」
と、言いかけて、やめた。
それを瀬尾に説明して、いったい何になるっていうんだろう。
どうもよろしくない。
「……あのさ、瀬尾。ちょっと聞きたいんだけど」
「ん?」
「前に、ましろ先輩だったかな。誰かが話してたのを聞いた覚えがあるんだけど……。桜にまつわる七不思議みたいなのって、うちの学校にあったっけ?」
「桜?」
「そう。桜の木の下の……」
「守り神?」
「……そんな話だったっけ?」
「精霊だったかな。わかんないけど。女の子のやつでしょ?」
「そう。どんな内容だったっけ」
「わたしもあんまり覚えてないんだけど……」
「異境、って、言ってなかったか?」
「イキョウ?」
「うん。異境」
「異郷って、遠くの土地って意味だったよね?」
「そう、その異郷でもあるんだと思うんだけど……ちょっとニュアンスが違う。異界って言うのか?」
「ちょっとファンタジーなお話?」
「守り神もそうだろ」
「そうだったそうだった。なんで急にそんな話?」
「……いや、どんな話だったかなって、気になっただけ」
「ふうん。でも、たいした話じゃなかったと思うよ」
電話の向こうで、何かを整理しようとするみたいに、「んーと」と彼女は息をつく。
「たしか、だけど、うちの高校の桜には、精霊? 守り神? みたいなのがいるんだ。女の子の姿をしてて、ときどき、その子に出会う生徒がいるんだって」
「……ありがちだな」
「そう。漫画なんかだとありがちだけどね」
「いまなにか食べてる?」
「プリン食べてるってば。なんで?」
「いや、そんな感じがしたから」
「へんたい」
「なんでだ」
「ま、それはそれとして。その子は、学校で起きてることは、なんでもわかってて、誰の気持ちでも知ってるんだって」
「なんだそれ」
「知らない。それで、人知れず恋の手助けなんかをしてるって話だったと思うけど」
「恋の手助け、ね」
本当にありがちな話だ。
「副部長がそんな話に興味を持つなんて意外だな」
「なんで?」
「だって、ばかにしてそうだもん。リアリストっぽいし」
「りありすと……」
かっこいいワードが出てきた。悪い気はしない。
「オカルトとか、星占いとか、嫌いそうなのに」
「まあ、別に興味があるってわけでもないんだけど、否定もしてないぞ」
「そうなの? 幽霊とか、超常現象とか、信じる方?」
「信じる信じないという言い方が正しいかはわからないが……中には本当もある」
「……ん」
まずいと思って、付け加えた。
「……かもしれない、とは思っている」
「あ、うん。まあ、そうだね。そういう言い方をするとね」
でも、と瀬尾は続けた。
「その、イキョウっていうのは、わたしは聞いたことないな」
「……分かった。悪かったな、変なこと聞いて」
「べつにいいよ。暇だったし。そういえばなんだけど、あの、幽霊部員の子」
「うん?」
「どんな子だった?」
「どんなって……」
――三枝くん、べつに書きたくなかったんでしょう?
「……まあ、変わった子だったな」
「そっか。なら安心だね」
「何が?」
「だって、うちの部には風変わりな人しか集まらないもん」
楽しそうに、瀬尾は笑う。
俺も思わず笑ってしまった。
不意に、ノックの音が聞こえて、扉が開けられた。
「兄、お風呂空いたから、早めに……」
「あ、うん」
「あ、電話中でした?」
「うん……。あと、もう入るよ」
「ごめんなさい。わたし、もう寝るので」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
扉が閉じられて、部屋が静かになる。
「今の、妹さん?」
「ああ」
「ふうん。かわいい声してるね」
「うん。声だけじゃないけどな」
「うわ、シスコンだ」
「べつに否定はしない」
「そうなんだ。仲良きことは美しきかなですね」
ふあ、と、瀬尾はあくびをした。
「ごめん……あくび出た」
「いや。悪いな。長々と」
「ん。いいよべつに、暇だったから。電話かけたのわたしだし」
そういやそうか。
「んでも、そろそろお風呂入って寝ようかな。副部長も早めに寝た方がいいよ」
「ああ。そうするよ」
どうせ、なかなか寝付けないのだけれど。
「あ、そうだ。副部長」
「ん」
「もっと、楽しんだほうがいいよ」
じゃあね、と瀬尾は言う。ああ、と俺も頷く。
瀬尾と電話なんてしたの、そういえば初めてじゃないだろうか。
彼女と話して、いくらか気分はマシになった。
純佳に言われたとおり、風呂に入ることにして、それからまた自室に戻る。
夜は暗い。夜は長い。夜はおそろしい。
さっき、瀬尾に聞き咎められそうになったことを、自分で思い返す。
超常現象を、信じるか。
まさか、巻き込まれたことがあるなんて言えるわけがない。
夜が怖いのは、そのせいかもしれない。
もっと、楽しんだほうがいいよ、か。
たしかに、そうかもしれない。
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