02-01 毒をもって毒を制す



 部室に戻ってことの顛末を報告したあと、その日の部活は終わりという流れになった。

 真中と瀬尾がどんな話をしていたのか知らないし、聞こうとも思わなかった。


 とにかく、市川には参加の意思がないでもないようすだった、とだけ伝えると、瀬尾はうれしそうに笑ってくれた。

 実際に参加するかどうかはともかく、人が増えるということに心強さを感じたのだろう。


 さっきまでは気持ちのいい天気だったはずなのに、いつのまにか空が暗くなっている。

 じき、雨が降り始めるのだろう。


「せんぱい、このあとはどうするの?」


 真中にそう聞かれて、俺は一瞬考えたけれど、よく考えたら予定がある。


「バイト」


「せんぱい、バイトしてたの?」


「ああ」


「知らなかった」


「話すタイミングがなかっただけだろ」


「……ふたりってさ」と、瀬尾が口を挟んだ。


「付き合ってるんだよね?」


 俺と真中は顔を見合わせてから瀬尾を見た。


「ああ」


「はい」


「……そ、そうなんだ」


 なにか言いたげな表情だったけれど、瀬尾は結局何も言わずに先に行ってしまった。


「じゃあ、途中までご一緒しますか?」


 真中の言葉に、俺は頷く。

 東校舎の階段を降りる途中で、他の文化部の連中と何度かすれ違う。

 

 新入部員が入ってきて、どこも忙しいんだろう。


「なんだか、妙なことになったね」と真中は言った。


「なにが?」


「部誌。そんなことやるなんて聞いてなかった」


 そりゃ、何も聞かずに入部したんだからそうだろう、と思う。


「第一、せんぱい、なんで文芸部になんて入ったの?」


「なんでって。俺が何部に入ろうとかまわないだろ」


「それは、かまわないけど。でも、せんぱいと文章って、なんか結びつかなくて」


「……いや、まあ、自覚はある」


 東校舎から本校舎に戻り、そのまま昇降口へと向かう。

 

 昨日から訊きたかったことを、ようやく訊けるタイミングが来た。


「なあ、真中」


 と、声をかけながら、俺は、まだためらっていた。


「なに?」


 平然と首をかしげられて、戸惑う。

 こいつの表情のひとつひとつが、本当に魔的だ。

 油断していると、ときどき吸い込まれそうになる。


 結局、それが引き金になって、俺は言葉を続けることにした。


「なんで、俺と付き合ってるなんて言ったんだ?」


 俺のその疑問に、彼女は目を丸くした。


「なんでって。付き合ってるからだよ」


「それ、続いてると思わなかった」


「どうして?」


「ここ一年、ほとんど会ってなかっただろ」


「連絡は取ってたし」


 たしかに、連絡は取っていた。

 

 といっても、ときたま真中からどうでもいいような内容のメッセージが飛んでくるだけだったのだが。通学路で見かけた猫の写真とか、金曜ロードショーを観るかどうかとか、観たなら感想はどうだとか。動画サイトで拾ってきたおもしろネタのURLだったりもしたっけ。


 俺はそのたびに「猫だな」とか「観るな」とか「おもしろかったな」とか適当に返事をしていた。

 雑な返事をしたかったわけじゃない。どう返答すればいいのかわからなかったのだ。


「でも」


「せんぱいは、嫌ですか?」


「……あのな、真中」


 こういうときだけ敬語を使いやがるのが、こいつの困ったところだ。

 かすかに甘えの混じった声音。わかっててやってる。そうわかっていて、それでも弱る。


「嫌とか、嫌じゃないとかじゃない。そうじゃなくて、潮時だったんじゃないかって言いたいんだよ、俺は」


「なにが?」


 とぼけたふりをして、真中はまた首をかしげる。

 結局俺は言いよどんでしまう。

 

 嫌ですか。

 嫌だとか、そういうわけじゃない。


 ただ、不可解なだけだ。



 

 真中柚子と三枝隼は付き合っている、というのが、中学時代は周知の事実だった。

 三枝隼。さえぐさしゅん。俺の名前だが、なんだか別の人間の話でも聞いているみたいな気がした。


 俺と真中は、それぞれが中二、中一の秋に出会い、その冬に付き合い始めた。

 自他共に認めるカップル。ただし、その自他共にという言葉の、「自」の部分が虚偽申告だった。


 理由はいくつもない。


 真中が困っていた。俺は暇をしていた。真中は俺を都合の良い人間だと思った。

 真中を助けても俺は困らないと思った。利害の一致というほど大袈裟な話でもない。こっちは面白半分だったし、あっちは必要に駆られてだった。


 真中は、こういう言い方がふさわしいかはわからないが、かわいかった。


 自然で落ち着いた振る舞い、どことなく愛らしい仕草。

 普通なら子供っぽく見えるだけのはずのスケールの小さな体さえ、容姿と線の細さが相まって、女の子らしい魅力に見える。


 真中と同じ小学校に通っていた後輩は、「小六のとき同じクラスだった男子は、全員一度は真中に告ってました」と教えてくれた。


「そりゃすごい」と俺は素直に思った。なかなかできることじゃない。


 そこまで来ると、もう容姿とか性格とかの問題じゃない。


 男子の中で「かわいい」とされる女子というのは、不思議なもので、そんなにかわいくなくてもかわいいと思われてしまうのだ。

 クラスだとみんなに人気の女子の写真を、他の学校の男子に見せたら「そうでもない」と言われるなんてよくあることだ。


 そういう補正にくわえて、真中は実際かわいかった。


 そんなわけで、彼女は中学に入ってからも大層モテた。あやかりたいものだ。


 それで困ったことが起きた。

 

 小学校の頃からそういうことはあったらしいが、まず女子にやっかまれた。

 

 もちろんそんなにあからさまな嫉妬なんて見苦しいだけだから、女子だって分かりやすくいじめたりはしない。それでもやっぱり避けられたりはしていたみたいだ。


 次に、小学校の頃とは違って、断っても引かない奴が現れた。


 ラインを強引に聞き出して連日メッセージを送ってくる先輩もいたし(俺の知り合いだった)、

「そんなこと言わずに一回でいいから遊びに行こうよ」としつこく誘う同級生もいた(部活の後輩だ)。

 それは別に責めるようなことじゃない。そのくらいの押しがあっても悪くないと思う。でも、こと真中に限って言えば、そういうのは逆効果だった。


 真中は不器用な言葉と表情で、そういう誘いを必死に断り続けた。


 さて、その結果、真中は男女双方からあまり良い目では見てもらえなくなった。先生たちからでさえそうだった。

 女子の間では「男をたぶらかしている」「色目を使っている」「とっかえひっかえ」と噂された(真中に言わせれば、全部「ひどい言いがかり」だ)。

 反対に男子の間では、「お高くとまっている」「ちょっとかわいいと思って調子に乗っている」「男を馬鹿にしている」他多数。


 厄介だったのが、そんな状況でも真中を好きになる男子は後を絶たず、そのせいで余計に真中の評判が下がっていく一方だったということだ。


 俺はその頃、校内の事情に疎かったから、そんなことはまったく知らなかった。


「一年に生意気な女子がいる」「あいつは調子に乗ってる」と友達に言われれば、真に受けて「へーそうなの。そりゃすごい一年がいるもんだなあ」と困惑顔を作ったりもしていた。


 最初の頃は「困るなあ」としか思っていなかった真中も、仲の良かった友達に避けられるようになったあたりで事態を深刻に受け止めた。


 このままでは自分にとって大切な、何か重大なものまで壊れてしまう。


 わたしが言っていないことをわたしが言ったことにされ、わたしが思っていないことをわたしが思っていることにされてしまう。


 そんなつもりはない、そんなことは考えていないと、彼女がいくら訴えたって無駄だっただろう。彼女自身もそう気付いていた。


 万人に共有された幻想は真実とほとんど同義だ。

 この病は時間の経過と共に悪化していく。

 

 どうにかしなければ、と真中は思った。

 状況は日に日に悪くなる一方だ。


 どんな解決策がありうるだろう?


 彼女は特効薬を求めていたが、そんなものはいくら考えたって出てこなかった。


 そこで登場したのが何を隠そう俺だった。

 

 といっても、真中との出会いはただの偶然だ。

 ある日の放課後、彼女が動物小屋のうさぎをひとりで見つめていたのを見つけて、なんとなく声をかけただけだった。


 最初は警戒されていたけれど、それをあんまり気にしないでいたら、最後には諦められたようだった。


 それで何度か話すようになって、まあ顔見知りから知り合いくらいまでにはランクアップしたかな、という頃。 

 いろいろ事情を聞かされて、俺はなるほどなあと思った。


 それで、提案したのは真中だった。


「ね、先輩。わたしの彼氏のふりをしてくれませんか?」


 とっても困っているんです、と彼女は言っていた。


 どうして俺なの、と訊ねた。彼女は頼りなさげに笑った。

 自暴自棄になったような、弱りきった微笑みだった。

 

「だって、先輩は、わたしのことを好きにならないと思うから」


 ねえ、だめですか。


 いいよ、と俺は言った。


 早まったとは思っていない。

 真中はそのとき、本当にまずそうだったから。

 

 翌週にはその話が学校中で噂になっていた。そのくらい、真中の話はもともと広まっていたのだ。


 樹の根のような深さと強固さで、変幻自在にあちこちに張り巡らされ、どこにいても誰といても、彼女はそういう目で見られ続けていた。


 俺と真中はひとつの嘘をつくことで、その根を全部新しいニュースに塗り替えた。


 もちろん、全部が一気に変わったわけじゃない。けれど、そこからは真中にとって少しくらいはマシな方向に動き始めた。


 毒をもって毒を、嘘をもって嘘を制した。

 

 俺は、誰にも、本当のことを話さなかった。ちどりにも、純佳にも、実は嘘なんだよ、とは言わなかった。

 敵を騙すにはまず味方から。ほころびはどこから生まれるかわからない。


 そして今も尚、その嘘は続いている。


 もう、三年目になる。


 俺たちは一緒に出かけたことすらない。手も繋いでいない。

 嘘の付き合い。偽装カップル。虚構の関係性。


 茶番は今も続いている。

 

 嫌だとか、そういうわけじゃない。

 ただ、メリットが、もうどこにもないような気がするのだ。


 結局俺は何も言い出せなかったし、真中もその話題には触れようとしなかった。

 そのようにして俺たちはそのまま別れた。


 頭を切り替えなきゃいけない。今日はバイトだ。


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