01-10 書きたくなかった
とにかく、さっそく、部室を出ることにした。行動を起こすなら早い方がいい。
瀬尾はついてくると言ったけれど、すぐにその発言をひっこめた。
部室に真中をひとりきりにするのも、俺とふたりきりになるのもよくないと判断したんだろうと思う。
どっちにしても、真中に気をつかったということだ。たぶん、真中は気にしなかっただろうけど。
廊下に出ると、学校の敷地を囲んで並ぶ桜並木が見える。
本当に雨なんか降るんだろうか。そのくらい、いい天気だ。
本校舎に通じる渡り廊下を歩きながら、グラウンドの運動部の様子を眺める。
球技の音もこうして聞くと悪くない感じがする。物思いにふけるにはちょうどいい。
先代から幽霊部員の話を聞いたときは、俺もそんなに詳しい話を聞かなかった。けれど、考えてみれば少し妙な話かもしれない。
うちの高校は、部活動への所属を生徒に強制していない。
推奨はしているが、いわゆる帰宅部であっても問題ないとしている。
同好会の設立に関しても特に厳しい条件があるわけではないので、幽霊部員になるくらいなら、初めからどこにも入部しなくてもかまわないはずなのだ。
そう考えてみると、少し興味が湧いてくる部分もある。
手始めに職員室に向かうと、案の定、文芸部の顧問である熊田が自分の机で何か書き物をしているのが見えた。人の好さそうなこの小太りの中年男性の、控えめな笑い方が、俺は嫌いじゃない。
「やあ。どうした」
「ちょっと、聞きたいことがあって」
「授業のことか? 珍しいな」
「いや。授業のことではないんですが」
「ああ、そうか。なんだ。勉強に目覚めたのかと思ったが」
「まあ、それはそのうち。えっと、部活のことで質問があったんです。文芸部に所属してる生徒の名簿みたいなものってありますか?」
「名簿。……名簿か。まあ、あるよ。っていっても、去年のだぞ。新しいのはもうちょっと待たせることになるが。もうすぐ生徒総会だしな」
「……そっか。生徒総会」
よくよく考えたら、部員の一覧なんて秘匿されているわけじゃない。
幽霊部員の存在自体は、そういうときの書類をちゃんと読んでいたら気付いてもよかったはずだったのだ。
「なんで名簿のことなんて聞いたんだ?」
俺はいちから順番に説明をすることにした。
「瀬尾が部誌を発行しなきゃって言い出したんですけど、新入部員ふたりが戸惑い気味で、このままだと俺と瀬尾のふたりだけしか原稿をあげられそうにないんです。それで、えっと、なんだろう、部室にあんまり顔を出してないけど、所属はしている生徒がいるじゃないですか」
「そうなの?」
熊田はけっして部活に関心がないわけではないと思うのだが、基本的には放任であまり部室を覗きにこないので、そういう事情には詳しくないらしい。
「そうなんです。で、名前も知らなくて」
「ふうん。そうだったのか。たまたま俺が行ったときにいつもいないだけだと思ってたけど」
……案外、本当に関心がないだけなのかもしれない。まあ、今はどっちでもいい。俺が言えたことでもないし。
「それで、一応部員だし、参加するかどうか、意思確認だけしておこうと思って」
「まあ、確かに市川は一回も部誌に参加してなかったな」
「イチカワ、っていうんですか」
「ああ。市川鈴音。今年は……三組だったかな」
「三組……」
二年三組、イチカワ・スズネ。女子だろうか。
誰かと同じクラスだったらよかったのだが、残念ながらそうもいかないらしい。
大野と俺は一組で、瀬尾は二組だ。
とりあえず頭の中に刻んでおこう。
「ちなみに、どんな子ですか?」
「ん。どうかな。真面目だし、面倒見もいい。勉強ができる。いい子だよ」
あんまり参考にならない情報だ。まあ、まさか生徒相手に生徒のことを好き勝手言ったりはしないだろうから、無難になるのも仕方ないか。
「分かりました。ありがとうございます」
「ああ、部誌、楽しみにしてるよ」
「あ、そうだ。部誌なんですけど、先生にも何かコメントを書いてもらえます?」
「……唐突だな。これまでそんなことしたことないぞ」
「人数がいきなり減っちゃったんで、少しでも水増ししたいんですよ。名前を貸してもらえるなら、俺が先生の名義でそれっぽいコメント書いてもいいかなって思うくらいに」
「いや、おまえにそれは任せられない。どうなるかわかったんもんじゃない」
いまいち信頼がないらしい。前科があるわけでもないはずなのだが。
「まあ、考えておくよ」
それだけ聞いてから、俺は職員室を出て、すぐに二年三組の教室に向かうことにした。
二年の教室は本校舎の三階にある。
俺や瀬尾や大野の教室も、今年からそうなった。新しい教室の場所にも、ようやく慣れてきたところだ。
三組の教室にはまだ入ったことがなかった。知り合いがいればよかったのだが、あいにく友人は多くない。
せめて無駄足にならなければいいのだが、と思いながら、三組の扉の前に立つ。
せめて誰かが残っていてくれるといいのだが。
扉は開きっぱなしになっていた。
中には数人の男女が残っている。新学期が始まってばかりだ。みんな交流を深めているんだろう。
どう声をかけるか迷っていると、ひとりの男子がこちらに気付いて「おう」と手をあげた。
「三枝じゃん」
「なんで俺のこと知ってるんだ、おまえ誰だ」
「……いや、去年一緒のクラスだっただろ」
たしかに、去年同じクラスだった奴だ。去年の体育祭で俺がクラスリレーをサボったとき、代打で走ったと言っていた奴だ。
途中で転んでしまったとかで、あとでさんざん文句を言われたのを覚えている。
実は最初から気付いていたのだが、とっさに冗談めかした反応をしてしまった。
「いや、覚えてる覚えてる」
「忘れてただろ、完全に。勘弁してくれよ。ちょっと前まで毎日顔合わせてたんだぞ。薄情にもほどがあるわ」
「ちょっとした冗談じゃないか」
本当に冗談のつもりだったのだが、本格的に呆れられてしまったらしい。どうも俺は冗談がうまくない。
いや、しかしこれは助かった。
「ちょっと訊きたいんだけど、市川っている?」
「市川? 市川鈴音か。どうして?」
「部が同じなんだ」
「ああ。……いや、帰ったんじゃないかな。あんまり話さないから分からない」
空振りだ。まあ、仕方ない。放課後なんだから、その可能性は最初から考えていた。
そう思い、礼を言って踵を返そうとしたタイミングで、奥にいた女子が声をあげた。
「市川さんなら、たぶん渡り廊下にいるよ」
「……渡り廊下? なんで?」
「知らない」とその女子は言う。「いつもいるよ」
とはいえ、しかし、本校舎と東校舎を通じる渡り廊下なら通ってきた。誰もいなかったはずだが……いや。
「何階の?」
「えっと……わかんない」
いや、聞くまでもない。三階は通ってきた。ということは二階か。
そういえば、二階の渡り廊下にはベンチが置かれいて、休憩できるようになっていたはずだ。
「よくそこで本を読んでるのを見かけるから、たぶん。今日はいないかもしれないけど……」
「いや、ありがとう。行ってみる」
礼を言って、今度こそ三組の教室を出る。
渡り廊下を歩いたり階段を昇ったり下りたり、ゲームのおつかいでもさせられてるような気分だった。
教室を出て二階に降り、渡り廊下までの通路を歩いていく。
二階は一年生の教室になっている。
去年卒業した先輩が、「どうして年を取るたびに昇る階段の段数が増えるんだ」とぼやいていたのを思い出す。
気にしない方がいいですよ、と俺は言ったものだった。どっちにしても三年間で昇る階段の段数はだいたい同じですよ、と。
一年の教室にはあまり生徒が残っていないらしい。
廊下は不思議な静けさと薄暗さに包まれていて、自分の足音が遠くから聞こえるみたいに反響する。
渡り廊下の手前に辿り着いて、俺は溜め息をついた。
ベンチは三つ。その真ん中の隅っこに腰かけて、ひとりの女子生徒が本を読んでいる。
絵になる女の子だ。日陰と日向のコントラストが、春の終わりが近付いていることを思い出させる。
絵画を眺めるみたいな気分だ。踏み入ったら、逃げ出しそうな雰囲気がある。
昼寝をしている野良猫みたいに、邪魔をしたら去っていってしまいそうだ。
少しの間そのまま躊躇していたけれど、結局、声をかけることにした。
根が話し下手なので緊張がないと言うと嘘になるが、大義名分があるだけマシだ。
渡り廊下に踏み入った瞬間、薄い皮膜を破ったような、奇妙な感覚を覚えたけれど、たぶんただの錯覚だったのだろう。
次の瞬間には、いつもどおりになっていた。
「なあ、ちょっといいか」
彼女は、本のページに向けていた顔を、ゆっくりとした動作でこちらに向けた。つぶらな瞳に、妙な迫力を感じる。
「市川さん……で、合ってる?」
彼女は怪訝げに眉を寄せた。唇をきゅっと結んだまま、何も言おうとしない。警戒されているのかもしれない。警戒される理由に心当たりはないけれど。
「えっと……文芸部の、三枝なんだけど」
適当なことを喋るのには慣れているはずなのだが、緊張が妙に緩まない。
返事がないせいで声が届いているのかどうかさえ不安になってきた。
「あの、市川さんだよな?」
人違いだけはまずいと思って繰り返すと、彼女はようやく頷いてくれた。
とりあえず、反応があったことにホッとする。
さて、ここからどう話を進めたものか、何のプランもない。
行き当たりばったりの自分のツケを払わされるのはいつも後の自分だ。
せめてなにか、あちらから言ってくれたら話しやすいのだが、と他人に期待するのもよくない。
「あのさ……」
「どうして、わたしがここにいるってわかったの?」
ようやく喋った、と思うより先に、その声の細さに驚いた。
意識しないと聞き取れないように思えるくらいの透きとおった声だ。それなのに、震えても掠れてもいない。
「あ……いや。三組の教室に行ったら、クラスの奴が、たぶんここだろうって」
「そっか。わたしを探してたの?」
「ああ、うん。確認したいことがあったんだ。文芸部のことなんだけど」
ようやく返事をくれるようになったことに安心して、俺は話を始めた。
「一応、市川も文芸部に所属してたろ。去年は参加してなかったみたいだけど、学年もあがったし、今年は先輩たちもいなくて二年だけだから、どうするつもりか聞いておこうと思って」
「そうなんだ」
「いや、無理にとは言わないんだけどさ」
「……ふうん?」
あんまり興味がなさそうな反応だった。
「無理にとは言わないけれど、是非にとは言いたいみたいな……」
「それ、だいたい同じ意味じゃない?」
「ニュアンスが違うんだ」
「そう」
ようやく緊張がほどけて舌が回ってきた。市川は、考えているのだろうか、ちゃんとした返事をくれない。
もっとあっさりとした話になると思ったのに、予想通りにはいかないものだ。
「部誌、つくるの?」
「ああ。部長がそろそろ始めようって」
「……きみも書くの? 三枝隼くん」
名前を呼ばれて、ぞくりとした。
俺は、苗字しか名乗っていない。
「わたしが名前を知ってるの、不思議?」
まるで、自分がなんにもしていないみたいな顔で、市川はこっちをまっすぐに見ている。
「いや、不思議では、ないな。ただ、びっくりしただけだ」
そう、べつに、不思議ではない。俺が市川の名前を知っているように、市川が俺の名前を知ることだって、べつに不可能じゃない。
一応、彼女も文芸部に所属しているのだし、三枝という名前の部員は俺しかいないのだから、苗字だけでも、分からないこともないだろう。
だから、本当に驚いただけだ。
「それで、書くの?」
「……ああ、まあ」
「そうなんだ」
自分で聞いておいて、さして興味もなさそうな相槌を返してきてから、市川は視線を本に戻した。失礼なやつだ。
「で、どうする?」
「どうしようかな」彼女は視線を下ろしたままだ。
「考えとく」
「ああ。まあ、まだ締切も決まってないし、その気になったら声かけてくれればいいから」
「うん。そうする」
思ったよりもいい返事が聞けたのに、どうしてか落ち着かない気分の方がまさっている。
この感じは、いったいなんだろう?
「えっと、邪魔して悪かったな。それじゃ、俺行くから」
無性に落ち着かない気持ちになって、その場を後にしようとしたとき、「ねえ」と声をかけられて、体が凍りついたみたいに動かなくなった。
「三枝くん、きみはどうして、あんな話を書いてるの?」
言葉の意味が、ぜんぶ、理解できなかった。
「あんな話、って?」
「去年の部誌、読んだの、わたし。きみのもね」
「そうなんだ。でも、あんな話ってどういう意味? そりゃ、巧くはないかもしれないけど」
そうじゃない、と言いたげに、市川は首を横に振る。
「純粋に、興味があるの。どうしてあんなものを書くのか。だって――三枝くん、べつに書きたくなかったんでしょう?」
返事ができなかった。彼女はただ、まっすぐにこっちを見ている。
いったい、なんて答えればよかったんだ?
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