01-09 薄明


 その日の部活で、瀬尾は案の定何かを言い始めた。


「部員も揃ったことだし、そろそろ活動しないとね」


 去年の秋以来、埃をかぶったままになっていたホワイトボードを引っ張り出して、瀬尾はペンを握った。


「さて、ゆずちゃん」


 と、瀬尾は当たり前のように真中を下の名前で呼んだ。

 この距離感の独特のとり方が瀬尾だという気がする。 


「文芸部の活動とはなんでしょうか?」


 真中は、窓際のパイプ椅子に腰かけたまま、首をかしげた。


「読書?」


「正解」


 と、瀬尾は簡単に頷いていみせる。 


「厳密にいうと、正解に含むって感じだね」


 瀬尾は、淀みのない口調で続けた。


「文芸部は本を読んで感想を言い合ったり、それを文章にしてみたり、あとは自分で何かを書いてみたりする部なの」


 瀬尾は本当に器用な奴だなあと、こういうときは思う。

 求めていない言葉がでてきても、不正解と突っぱねたりせず、自然と自分の話したい方向へと話題を誘導していく。


 普段の奇妙なテンションからは想像もできない。真似できない。


「で、今から話すのはね、その『書いてみたり』っていう部分」


 半円形に椅子を並べて瀬尾の方を眺める俺たちに背を向けて、彼女はホワイトボードに文字を書き始めた。『部誌の発行について』。


「ふたりはちょっとイレギュラーというか、なんにも説明しないまま入部しちゃったから、今更だけど、説明するね」


 ホワイトボードに新しい文字が増えていく。


『薄明』と瀬尾は記した。


「うちの部では、年に四回か五回くらい、部誌の発行をしてるの。内容は、部員の書いた文章……なんでもいいんだ。小説や詩を書いてもいいし、俳句でも短歌でも川柳でもいい。エッセイでもいいし、何かの感想文や評論でもいい。とにかく、それが文章でさえあればなんでも。で、部員たちで編集して、部誌として形にして、それを配布する。大野くんは知ってるよね」


 自分には無関係のことと思っていたんだろう、突然話を振られて、大野はいくらか面食らったみたいだった。


「ああ。一応、図書委員だしな」


「図書委員って、部誌となにか関係があるんですか?」


 入学したての真中からしたら、当然といえば当然の疑問か。


 大野も瀬尾も質問に答えなかったので、俺が答えることになる。

 面倒見が悪いわけではない。真中のことは俺に任せようという意識ができあがってしまっているみたいだ。


「発行した部誌は図書室の展示スペースに置かせてもらってるんだよ。フリーペーパーみたいな感じで」


「誰か読むの?」


「それが不思議なんだよな。実際、うちの高校の七不思議のひとつにもなってる」


「つまり?」


「けっこう読まれてる」


 これは事実で、文芸部で発行している部誌は意外なほど知名度がある。

 長年の歴史の賜物という奴かもしれないが、それにしても生徒が絶えず入れ替わるのだからファン層なんてできるはずもないのに、変な話だ。


「なるほど」と真中は頷いた。


 こほん、と咳ばらいをして、瀬尾が話の続きをはじめる。


「部誌『薄明』。歴史はかなり長いみたい。一応、伝統ってことで、わたしたちもつくらなきゃいけないんだよね」


 先代にも言われたしね、と、瀬尾は付け加えた。


「そういうわけで、一学期中に、部誌をつくりたいんです」


 一学期中、とホワイトボードにまた文字が足される。


「で、みなさんにも何か書いていただきたいわけです」


 瀬尾のその言葉に、俺たち三人は顔を見合わせる。


「……って感じなんだけど、どうかな」


 何の反応も示さない俺たち三人に、瀬尾は不安そうに眉を寄せた。

 とはいえ、どう反応したものだろう。


 部誌『薄明』は、確かに瀬尾の言うとおり、これまで毎年、年数回、文芸部で発行されてきた歴史ある部誌だ。

 部室の隅の戸棚には、歴代『薄明』のバックナンバーがずらりと並べられている。


 部が存続した以上、活動実績として、俺たちは俺たちの『薄明』を作らなければいけない。それはまあ、自然な成り行きというものだろう。


 問題がいくつかある。


「文章、ですか……」


 真中は考え込むように眉を寄せた。


「あの、青葉先輩。わたし……」


「うん。大丈夫。書き慣れてなくてもサポートするし。楽しむことがいちばんだからね。歴史があるっていっても学生のつくるものだしあんまり気にしなくて平気だよ」


「いえ、あの。わたし、文章ってあんまり書いたことなくて……」


「そうなの?」


「はい。あんまり興味がなくて」


「あ、そっか。うん。そっか。いや、入ってもらって助かったからいいんだけどね」


 さすがの瀬尾も困り顔だった。無理もない。だったらなぜ入部したという話である。


「とはいえ、せっかくだからちょっと挑戦してみてもらえないかな」


「はあ……」


 曖昧に頷いた真中の表情に、やはり瀬尾は不安そうだった。

 まあ、でも、真中は書けといえば何かしら書けるだろう。問題は別にある。


 案の定、次に手を挙げたのは大野だった。


「なあ、瀬尾。俺、文章は書けないんだが」


 あ、という顔を、瀬尾はした。失念していたわけでは、きっとないだろう。 

 それでもいくらか、大野の人の好さに期待していたのかもしれない。


「あ、えっと、そう、だよね、うん」


 瀬尾の頬が、カッと赤く染まった、ように見える。


 そうだな、瀬尾ならそうなるだろうな、と俺は思った。


 大野は、部員が足りないから、頭数として、入部してくれた。


 それ以上のことを求めるのは、人の善意につけこむことだ。

 瀬尾は、それでも期待していたのだろう。そして、期待していたことを見抜かれたと思って、恥じ入っている。


 生真面目と言えば、生真面目な奴だ。あの手この手で言いくるめて、書かせてしまえばいいものを。

 せっかくホワイトボードまで持ち出してきたのに、新入部員はこの様子だ。瀬尾の部長としての初仕事は、最初から行き詰まりを見せたことになる。


 とはいえ、仕方ない部分もある。


 もともと俺も瀬尾も、集団を引っ張っていくよりは、集団の隅っこで自分の好きなことをやっている方が性に合うタイプなのだ。


 やりたくないやつを無理に参加させたり、その気にさせるためにあれこれ気を引いたりなんてできる人間じゃない。


 難航は、ある意味で必然だ。俺たちは烏合の衆なんだから。


「いいんじゃないか」と俺は言った。


「最悪、俺と瀬尾のふたりで作ったって、『薄明』は『薄明』だ。大野には編集や製本を手伝ってもらえばいい。真中は自分から入部するって言い出したんだし、書けるなら書いてもらいたいけど、一度目だし、雰囲気をつかんでもらってからでもいいだろう」


「……ん。まあ、そう、だね」


 瀬尾は、やはり複雑そうだ。気持ちはわからないでもない。


 今まではずっと、先輩たちがいた。俺たちはずっと下っ端だった。

 そりゃ、去年の最後の部誌発行のときには、後継者としていくらか部誌作りの基本も教えてもらった、とはいえ、だ。


 たくさんいた先輩が一気にいなくなって、じゃあこれから二人でやってみなさいと突然言われても、不安を感じるなという方が無理だ。


 せめて人数がいれば相談しながらどうにかやっていけたかもしれないが、それも望めない。


 大野や真中をアテにしたくなる気持ちもわかる。


 俺が頼りにならないからなおさらだろう、というのはさておき。


 とりあえずそういう話にまとまったかな、と思ったところで、大野が立ち上がった。


「悪い。今日は委員会あるから、いかないと」


「あ、ごめんね、当番だったんだ」


「いや、こっちこそごめん」


 じゃあな、と短く言って、大野は部室を出て行った。心なしか表情が硬かったようにも見える。


 当番というのは、嘘ではないのだろう。昨日だって、委員会の件でこっちに来たのだから。

 人に任せてわざわざ顔を出したのだとしたら、やっぱり付き合いの良いやつだ。


「……怒らせちゃったかな」


 閉じられた扉を心配そうに眺める瀬尾に、どう声をかけるべきか迷う。


 たぶん、大野は怒ってはいない。いくらか普段よりもそっけなく見えたのは、きっと、やさしく対応して、期待をもたせるのが嫌だったからだろう。


 押せば書いてもらえる、なんて思われたら、どっちも嫌な思いをするだけだから。

 俺には大野の気持ちはわからないけれど、たぶん、そうだと思う。


「気にするな。部に入るって言った以上、大野だって言われる覚悟はしてたろ」


「でも、最初に自分で頭数って言ってたもんね。やっぱり、わたしの失敗かな」


「それはまあそうだろうな」


「大野くんの言う、文章が書けないって、ただ書くのが苦手なだけだと思ってたんだけど、違うの? ……って、副部長に訊いちゃうのもいけないよね、きっと」


「詳しい事情は、俺も知らない。でも、少なくとも、単純に苦手だというだけじゃないと思う。きっと、人にはわからない理由があるんだろうな」


 瀬尾はちょっと考え込んでしまっているみたいだ。

 黙ったまま、しばらく何も話そうとはしなかった。


 なにげなく真中の方を見ると、彼女も俺の方を見ていた。


「どうしたらいいかな」という顔をされたので、「ほうっておいたら」と目で訴えた。


 彼女はその瞬間、なにか素晴らしいことを思いついたみたいな顔で、指を狐のかたちにしてこちらに向けて上下に二度振った。

 意味はよくわからないが楽しそうなので放っておくことにする。


 部室の隅の戸棚に目を向ける。この部に入部してすぐ、俺は『薄明』のバックナンバーを読むことに熱中した。


 べつに特別なものでもないと思う。どこにでもある、でもほかのどこにもない、ここにしかない言葉の海。


 部誌『薄明』。文芸部。その歴史。のこされた言葉。

 遺されたのか、取り残されたのか。


 文章というのは不思議なものだ。口で話すよりもよほど簡単に嘘をつける。


 おもしろいことがある。


『薄明』平成四年春季号。


 部員『佐久間 茂』名義の小説。これは、江戸川乱歩の『白昼夢』の一字一句違わぬ盗作だ。

 編集後記に付したコメントで佐久間は「江戸川乱歩に影響を受けて……」と堂々と語っている。


 夏季号では、佐久間はモーパッサンの『水の上』の、固有名詞を変更し、文章を若干削っただけの、またしてもまごうことなき盗作をおこなった。

 そして、秋季号から彼の名前は『薄明』から消えた。


 その後の文化祭特別号にも、冬季号にも、彼の名前はない。

 ただ、文芸部の部室がいまだに彼のしたことを保管している。大事に、失われないように、しっかりと。


 こんなことってあるだろうか?


 だが、この佐久間茂という人間について、もうひとつ語るべきことがある。

 彼は『水の上』の盗作を載せた夏季号において、自身の散文に近いエッセイも掲載した。内容には、いささか目を引くところがある。




「ほんとうのことを言うと、みんなは文章を読んでいるのではなくて情報を読んでいるのではないでしょうか。たとえば名のある現代詩人が書いたものであれば、いささか稚拙な感のある文章であれ大なり小なり感心してもらえるものです。やれあえて定型を崩したであるとか、やれ詩に対する洞察がもたらした深みがあるのだとか、そんなようなことをです。


 しかしたとえばです。もし仮に太宰治が『女生徒』を書いていなかったとしてみてください。そしていまぼくが『女生徒』と一字一句たがわぬ小説を公開したとしてみてください。


 そのとき、さて、太宰治が好きだと言っていた彼/彼女らはぼくの小説を気に入ってくれるでしょうか。本当にそうでしょうか。ぼくには、太宰治の猿真似などして厭らしいと疎まれるような気がしてなりません。いや、太宰だと気付かれることもないかもしれない。


 誰であれそうです。文章というのは畢竟ことばのつらなりにすぎぬわけで、そこにあるのはつまり語の選択と配置でしかないのです。


 たとえば何匹もの猿にペンをもたせて、何十年何百年と紙に何かを書かせ続けることができたとしましょう。そしてその猿の一匹が偶然にも寺山修司の名文句を書き上げたとしましょう。その文句はぼくらを感動させるでしょうか。


 せいぜい、ああ、猿にしてはやるではないか、という程度ではないでしょうか。


 これは極論ですがつまりこういうことです。

 ぼくたちは、なにが偽物で、なにが本物なのか、ほんとうの意味では、これっぽっちもわかっていないのです。区別なんて、できていないのです」




 この清々しいほどの責任転嫁ともとれる文章には、どことなく悲哀がある。なるほど彼の言うことにも一理あるかもしれない。


 キーボードの上で猫を遊ばせてシェイクスピアの戯曲ができあがるのを待つのは、本来考える必要もないくらい困難であり得ないことだが、時間が無限であったならいつかは起こりうることだろう。


 仮にそれが起きたとしよう。


 そのとき、俺たちはシェイクスピアの血肉のこもった(と、想像するが案外そうでもないのかもしれない)文章と、単に猫が遊んだ痕跡に過ぎない文字の羅列とを区別することができるだろうか。


そんな彼の思考と相反する言葉も、この文章の中には存在している。


 たとえば猫が奇跡的に作り上げたシェイクスピアの文章を、シェイクスピアのものと言われずに、猫の遊んだ痕跡だと言われて読んだときに、俺たちはシェイクスピアの戯曲を読んだのと同様の感慨を受けることができるだろうか。


 俺にはどうも自信が持てない。


 もちろん、猿が寺山修司の名文句を書くことも、猫がシェイクスピアの戯曲を作り上げることも、単に奇跡でしかない。


 シェイクスピアは何本もの戯曲群をひとりで生み出したからこそ偉大なのだとも言える。


 さて、それでは俺たちがシェイクスピアに対して抱く敬意なんてものがもしあるとしたら、それは作品そのものではなく、彼という文脈を経由した作品なのではないか?

 俺たちは、本当の意味で、文章そのものを読むことができるか?


 そんな空想は、案外楽しい。


「そうだ」


 ぼんやりと物思いにふけっていたところで、不意に瀬尾が声をあげた。


「ねえ、副部長、こないだいってた、幽霊部員の子は?」


「は、って。何が?」


「その子は参加してくれないかな、部誌」


 一瞬、何の話か分からなかったが、ようやく見当がついた。


「あのさ、瀬尾。それはさ……本人も自分の意思で出てないんだと思うし」


「でも、でもでも、聞いてみるだけでも、いいんじゃないかな」


「そりゃ」


 一年間、一度も部室に顔を出していないような奴だ。あてにできるとは思わない。


 仮にそいつが気まぐれに参加するといったところで、二人が三人になるだけだ。

 そんなの誤差の範疇じゃないか。そのためにそんなことをするのは……面倒だ。


「いいんじゃないですか?」


 真中はそう口を挟む。俺だって、瀬尾が勝手にやるというなら異論はないのだ。


「俺にそいつを探して来いっていうんだろ、瀬尾」


「ダメかな」


「……ダメかな、っていうかだな」


 自分で行け、とか、そういうことを言おうとするのだが、こいつに弱々しい表情をされると俺は本当にダメになる。自分でもどうしてここまでと思うほど。呪われてるのかもしれない。

 

 瀬尾は極端な口下手、人見知りで、典型的な内弁慶タイプだ。

 がんばって話そうと思わないとなかなか言葉が出てこない。

 周りに友達がいるときなんかは平気みたいだが、ひとりで職員室にもいけないような人間なのだ。


 そんな奴にとって、知らない誰かを探すという行為が簡単じゃないということもわかる。


 けれど、だからといって、自分の言い出したことを他人に任せるというのはどうなのか。


「どうしても無理なら、ひとりでがんばるからいいけど……」


 ぬぐえない不安を隠そうとして、瀬尾は不器用に微笑む。自覚がないから困りものだ。


「……わかったよ」


 結局俺は頷いた。俺は瀬尾にはどうしたって勝てない。じゃんけんみたいなものなのだ。

 

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