01-08 人に歴史あり


 桜のせいにはできないだろうけれど、そのまま教室に向かう気にはなれず、俺は屋上への階段を昇った。


 リノリウムの床を叩く自分の足音がひどくうるさく思えて仕方ない。東校舎の床は埃っぽい。本校舎と違って、掃除される機会が少ないからだろう。いつもどおりに鍵を回して屋上に出ると、白んだ風景が目に飛び込んでくる。校門の桜の木が見える。


 いくつかのことを考える。順不同に。


 ちどりのこと、真中のこと、

 昨日の喧嘩の理由、

 さっきの、桜の下での出来事、

 ましろ先輩が、俺に鍵を渡した理由。


 昨日の喧嘩の理由、なんだったっけ。

 本当に、なんだったっけ?


 チャンネルの争奪。……本当に、そんなことだったっけか?

 よく、思い出せない。近頃はいつもこうだ。


 大事なことも、そうでないことも、なんにも思い出せない。


 それは単に、きっかけでしかなかったような気がする。


 どうしてだっけ。

 

 純佳が急に不機嫌になって、些細なことで喧嘩になったんだ。


 なんで、だっけ。


 そうだ。真中の話をしたのだ。

 どんな内容だったかはわからない。何気なく、話した気がする。

 

 そうしたら、純佳は腹を立てたのだ。


「どうしてそんなに、人を信じられないんですか」、というようなことを言っていた気がする。

 

 そこまで思い出すと、原因になった俺自身の言葉も思い出せそうな気がする。

 でも、あえてそれ以上記憶を掘り下げることはしなかった。


 人間不信。人間不信?


 ときどき、そういう人間として扱われることがある。

 他人を信じていない、いつも本当のことを話そうとしない、心を開いていない。

 でも、そんなの、誰だってそうじゃないか、と、俺には思えるけれど。


 ちどりのこと、真中のこと。

 俺には難しいことばかりだ。


 すぐに授業に出る気はしない。

 俺は、屋上に寝そべって、静かにあくびをした。


 このまま二度寝でもするとしよう。どうせ遅刻しているのだ。

 

 それから、さっき見た景色のことを考える。


 桜の木の下の少女。あれは、単なる目の錯覚だったんだろうか?


 でも、なんだか、うわさ話を聞いたことがある気がする。

 桜の木の下の少女……いったい、なんだったっけか?


 誰から聞いたんだっけ? ……そうだ、それも、ましろ先輩から聞いたんだ。


 ――あそこは異境の入り口だから。


 瞼を閉じて、少しだけ溜め息をつき、いくつかのことを思い浮かべる。

 それから、自分がどうしてこんなことになってしまったのか、考える。


「ずいぶん不満そうですよね」と声が聞こえる。


 俺は目を開く。


 ……女の子が、そこに立っていた。

 すぐ傍に、本当に、すぐ近くに、膝を立てて、スカートの裾をおさえて、座っている。

 

 そこは無防備でいるところだろう、と、寝ぼけたまま思った。


「きみ、誰」


「ねえ、あなたは、すごく恵まれてますよね」


 その言葉に、思わず息を呑んだ。

 

「あなたの周りにはいろんな人がいて、誰もがあなたを、あなたみたいな、どうしようもない人を、当たり前に受け入れてくれていますよね?」


「……」


「そんな人間のくせに、どうして、不満そうなんですか?」


 ああ、そうだ。

 さっき、桜の木の下で見た子だ。


 次の瞬間には、彼女の姿は消えていた。

 

 目を向けた先には、ただ虚空の先に、フェンス越しの景色がぼんやりと浮かんでいる。

 何もかもが短い夢だったような気がした。

 

 春が、そんな気分にさせる。


 だからこそだよ、と俺は思う。


 それから本当に眠ってしまって、ふたたび目をさましたのは、チャイムの音が聴こえたときだった。


 なんだか、もどかしくなって、起きてすぐ、寝ぼけた頭のままで、俺は携帯を取り出した。


「ごめん」と、純佳にメッセージを送る。


 三十秒くらい後になって、返信が来た。


「わたしの方こそ、ごめんなさい」


 と彼女は言う。


 続けて、


「今日はバイトですか?」と質問。


 週に三日か四日、夕方からの四時間程度、俺は近所のコンビニでバイトしている。

 部活に行ってからでもギリギリ間に合う程度のシフトだから、隙間時間の活用法としてはもってこいなのだ。


 思い出してみると、たしかに今日はバイトの日だ。


「そう」とだけ返信すると、「じゃあ今日はわたしだけですね」と何気なく送られてくる。


「帰りになにか買っていくか?」


「じゃあ、甘いもの」


 そうしよう。疲れているときには、甘いものがいい。


 さて、と俺は立ち上がる。


 現実に帰るときだ。




 教科書、ノート、板書、チョークの音。

 周囲から、ペンを走らせる音、誰かが居眠りしている気配。

 カーテン越しの柔らかい日差し。眠気を誘う教師の声。


 俺も、その風景の中に混じる。


 混じっている。たぶん、誰も気にしない程度には、馴染んでいる。

 それなのに、違和感がある。


 こうして過ごしている風景、日常のすべてが、全部、自分のものではないような気がする。


 誰かのためのものを、かすめとっているような、そんな気がする。


 ただの錯覚、誇大妄想、思春期特有の麻疹。

 誰かはきっとそう言う。俺もそう思う。そう感じる理由がないんだから、なおのこと。

 

 本当は俺は、文章なんて書かなくていいのだ。





 どうにかして授業をやり過ごして昼休みになってから、俺はすぐにまた屋上に向かった。

 昼寝をしていても誰にも邪魔をされないのが、いいところ。


 そういう日々が、たぶん、いい日々だ。


 そう思ったのに、寝そべって目を閉じていると、ドアが開く音がした。


「……昼寝か、不良」


 急に日差しが遮られた気配がした。目を開くと、大野の影が俺に落ちていた。


「いらっしゃい、珍客だ。ここにいるって、よくわかったな」


「最近、けっこう不思議だったんだ。昼休みになるたびにいなくなってたから。こないだ腑に落ちた」


「なるほど。それで来てみたわけか」


「ちょっと話がしたくてな」


 大野は、汚れるのも気にせずに、制服のまま俺のそばに座り込んだ。


「話?」


「今日、どうして遅刻したんだ?」


「寝過ごしたんだよ。いつもは妹に起こしてもらってるんだ」


「妹がいたのか」


「言わなかったっけか」


「ときどき、おまえがものすごい秘密主義者だって感じるよ」


「話すタイミングがなかっただけだろ」


「そうかもしれないが」


 大野は呆れたふうな溜め息をつきながら、両手をうしろに伸ばして杖にした。


「いい天気だな、しかし」


「絶好の昼寝日和だ」


「ああ。……でも、妹に起こしてもらってるのか?」


「朝は弱いんだ」


 厳密に言うと、夜、あまり眠ることができないだけなのだけれど。それもあえて言うことはしない。

 携帯のアラームなんて、役に立った試しがない。それでもやめないのは、まあ、神頼みみたいなものだ。


「仲が良いのか?」


「俺が他人だったらうらやましがるか気持ち悪がるかするくらいには」


「へえ。稀有だな」


「そう、俺は恵まれている」


 自分で言うと、いくらか気持ちがすっとした。

 俺は恵まれている。


「……話って、それか?」


「話? なにが?」


「話したいことがあるって、さっき言ってただろう」


 ああ、と、大野はそれでようやく思い出したみたいだった。


「いや。ちょっと、聞いてみたかったんだ。本人のいる前で聞くのもどうかと思ったからな」


「本人?」


「真中さんのことだよ。付き合ってるって、本当なのか?」


 本人は普通の顔をしていたけれど、大野がそんなことを気にするなんて思ってもみなくて、俺は少し意外な気がした。

 色恋沙汰なんて興味がない、という顔をしているのに。


 いや、顔で人を判断するのもよくないのだが。


「本当だよ。なんで?」


「今までそんな話聞いたことなかったから」


「話すタイミングがなかったからだろ」と、俺はさっきと同じ返事をした。


「真中の、何がそんなに気になる?」


「……何が、と言われると弱るんだが」


 大野は、前のめりになって腕を組んだ。


「べつに、そんなに根拠があるわけじゃないんだ。ただ、おまえに彼女がいるっていうのが意外でな」


「失礼な奴だな」


「そういう意味じゃない。いや、そういう意味でもあるが」


 本当に失礼な奴だ。

 今までこんな話を大野としたことがなかったから、なんだか新鮮な感じがする。


「俺だって、人を好きになったりするよ」


「そりゃ、そうだ。べつにそこまで疑ってるわけじゃない」


 この話は、あんまり続けるべきじゃないかもしれない。


「今日の部活だけど」と俺は自分でも分かるくらいあからさまに話を変えてみた。


「たぶん、瀬尾がなにか言い出す」


「なにか?」


「わからないけど、言い出すと思う」


「根拠は?」


「勘」


「さすがに付き合いが長いだけあるな。アテになるかはわからないが」


「まあ、頭数も揃ったし、なにかしたがるタイミングだろう」


「頭数って言えば、幽霊部員って、本当にいるのか?」


「いるよ」


 そう答えはしたものの、俺自身詳しく知っているわけではないことを思い出す。


 自分で話を変えたくせに、無性に気になって、俺は話を戻した。


「なあ、大野は彼女とかいたことあるの?」


「なんだよ急に」


「や。一年以上の付き合いになるけど、今までそういう話聞いたことなかったなと思って」


「……まあ、そういうのはなかったな」


「ふうん」


「なんだよ。彼女持ち特有の見下しはやめろ」


「そっちこそ、彼女ナシ特有の被害妄想はやめろ」


 大野はハッとしたみたいに目を丸くした。


「あ、ああ。……今のは俺がどうかしてた」


 ……こう見えて、意外とコンプレックスがあるんだろうか。

 俺だって、実際は大野と対して変わらないのだが。


 それから、生真面目な大野らしく、しっかりと話題を続けてくれる。


「好きな子がいたことは、あるんだけどな」


「へえ。なんか意外だな」


「俺は人を好きになりそうにないか?」


「まあ、どちらかというと、惚れられていそうに見える」


「そんなことは今までなかったな」


「その子とはどうなったの?」


「まあ、いろいろあってな」


 人に歴史ありと言ったところか。


「それ以来……別に、いいかなとは、思ってるんだ」


「そうなんだ」


 適当な相槌を打ったわけじゃない。どう反応すればいいのかわからなかったのだ。

 言い訳はできないけれど。


 何を話せば良いのかわからなくなった。

 俺と大野は結局それから、天気のこととか、空を飛ぶ鳥のこととか、そんな話をしてその場をやり過ごした。


「暑いな」と大野は三回言って、俺は三回とも「そうだな」と頷いた。

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