01-07 桜
家に帰ると妹の純佳がソファに寝そべって眠っていた。
「おかえりなさい」と彼女は言う。
「ただいま」と俺は答える。
じゃがりこを頬張りつつ、純佳はテレビに視線を戻した。
「部活は?」と訊ねると、「早退しました」とすぐに返事が来る。
純佳はトレンディードラマの再放送から目を離さない。
「それ、なんて呼ぶ?」
「なにがですか?」
「早退」
「別名ですか? 世人はサボタージュとも呼ぶらしいですね」
「……まあ、人のことは言えんが。大丈夫なのか? レギュラーなんだろ」
「知りません」と純佳は言う。
「中学の部活が強制参加だからやってるだけです。レギュラーとか、知りません」
ポリポリとじゃがりこをかじる音がする。
堂々としたものだ。僻みなんて怖くもないらしい。
俺は純佳の背後に近寄って、彼女の頭をわしわし撫でた。
「なんですか」
「いや、褒めてつかわす。それでこそ我が妹。思うがままの道を行け」
「褒められるようなことはなにもしてないですし、あの、褒められてるとすると、髪がぼさぼさになってどちらかというといやな感じです」
犬ですかわたしは、と、純佳は不服げに眉をひそめた。
「兄、なんか変ですよ。いつも変ですけど」
声を聞き流しながら、俺は純佳の体を無理やり起こさせてソファの隣に腰掛けた。
「なんなんですか、今日は」
「ん」
クッキーの袋を差し出すと、純佳は怪訝そうな顔をする。
「……なんですか、これ?」
「ちどりにもらった。クッキー」
「浮気ですか? 良くないですよ」
「もらえるもんはもらう。悪いことじゃないと思う」
「程度にもよると思いますが……まあ、ご相伴にあずかる身で余計なことも言えませんね」
純佳はクッキーをひとつつまみとり、さくっとかじった。
「おいしい」
普段大人ぶった口調のくせに、こういうときだけ子供っぽい声を出すのだからかわいいやつだ。
「ちどりちゃん、また腕をあげましたね」
「そうか?」
「兄にはわからないです」
単に動くのが面倒なのか、それとも気にならないのか、狭いソファにふたりで並んで座っても、純佳は嫌がらない。
動くたびに長い黒髪がさらさら動くのが、見ていて気持ちいい。
我が妹ながらなかなか端正な顔立ちだと思う。
純佳の顔立ちをつくるときの巧みな技術を、俺のときにも少しは使ってくれたらよかったのだが。
純佳がクッキーを頬張りながらドラマを観るのに戻ってしまったから、俺も彼女に付き合うことにした。
ドラマの中では偏屈な独身男性が自分のオーディオ趣味について長々と語って、知人の女医をげんなりさせている。
「どんなドラマなの、これ」
「覚えてませんか?」
不思議そうな顔をされて、逆に戸惑う。
「……いや、まったく」
「むかし、お母さんがDVD借りてきて、一緒に見てましたよ」
「ふうん。よく覚えてるな」
「兄がいろいろ忘れがちなだけだと思いますが……」
そうかもしれない。
「兄、本当に、なにかあったんじゃないですか?」
「なんで?」
「元気ないですよ」
「ちどりにもそう言われた」
「だったら、元気がないんですよ」
……少し、疲れているのかもしれない。
元気がない、と言われて、ああ、今は家にいるのだな、と思ったら、体の力が急に抜けていくような気がした。
そうなってはじめて、ずっと体に力が入っていたことに気付く。
肩の力を抜いてみると、俺の頭は純佳の肩に乗っかった。
「重いです」
「うん」
いつもどおりの、そっけない口調。それでも、払いのけられたりはしない。
不思議なものだ。
「兄、疲れてますよ。なんでです?」
「なんでだろな」
なんでだろう。
「そういうときは、甘いものですよ」
純佳は、またクッキーをひとつ指先でつまみあげて、俺の口の前に運ぶ。
特にためらいも覚えずに、俺はそれを口に含んだ。
「……しかし、人様に見られたら、どう思われるんでしょうね、この光景は」
「さあなあ」
わからない。
わからないことは、どうでもいい、ようにも思える。
「兄。大丈夫ですか」
「うん。うん……」
「もうちょっとしたら、ごはん作りますね」
「うん」
「ちどりちゃん、元気でしたか?」
「うん」
「……柚子先輩とは、うまくいってます?」
真中柚子。彼女は、純佳から見れば、一個上の先輩ということになる。
「どういうのを、上手くいってるって言うんだろうな」
「わたしが知るわけないです」
そりゃそうだ。
「……純佳」
「はい」
「日が沈むと寂しくなるのは、どうしてなんだろうね」
純佳は、耳にかかった髪を指先で後ろに流しながら、考えるような素振りを見せた。
「夜が怖いからじゃないですか?」
「夜?」
「たぶん。動物だった頃、夜はおそろしい時間だったから。だから、寂しいというより、不安で、心細くなるんだと思う」
夜は、暗闇は、おそろしい。何が潜んでいるか分からない、暗闇。
それは人に、原始的な恐怖を覚えさせる。遺伝子が運んだ、動物の血脈。
「だから、夕焼けは、綺麗だけどおそろしいんだと思う」
純佳の真面目な口調は、コメディータッチのドラマを背景に、浮かび上がってるみたいに聴こえた。
暗闇。
だから人は、灯りをともし、寄り添い合う。
でも、それは、少し違うような気がする。
俺に限っては、当てはまっていないような気がする。今この瞬間の、寄る辺なさの正体は。
でも、それを口に出すことは、やっぱりしない。
嘘、偽物、偽装、隠し事。
「純佳は博識だなあ」
俺の適当な褒め言葉に、純佳はきっと、それと分かった上で頷いた。
「えっへん」
夕焼けはおそろしい。
何かを思い出しそうになる。
ドラマが終わると、純佳は水色のエプロンをつけてキッチンに立った。
両親の帰りが遅い日は、俺たちが交代で夕食を作るようにしている。
部活のレギュラー? 文芸部? 彼女?
知ったことか。
と、言いたいわけでもないけれども。
その日、純佳のつくったポトフは美味しかった。
でも、なんでだろう、その日、ものすごく些細なことで純佳と喧嘩をした。
たぶん、本当にとてもくだらないこと。テレビのチャンネル争奪とか、そんな程度のこと。
そのときの彼女の捨て台詞が、
「じゃあ、明日から兄のことを起こしてあげませんから!」
というものだった。
ああいいさ、別に頼んだ覚えなんてないね、朝ひとりで起きるくらいのことなんでもないさ。
第一俺を何歳だと思ってるんだ? だいたいそんなようなことを言い返したのを覚えている。
そのあとはもう単純で、「本当の本当に起こしてなんてあげませんからね!」と妹は繰り返すばかりだった。
俺も彼女も、そのあとは「もう口なんてきいてやらない」と言わんばかりにそっぽを向き合った。
妹は怒った声で「おやすみなさい!」と怒鳴ったし、俺もまた「ああ、おやすみ!」と怒鳴り返した。
そんな夜が明けて、当たり前に朝が来て、目を覚ましたらヤバい時間だった。
明らかに遅刻だった。
何度もスヌーズ機能を動作させたらしい携帯のアラームがむなしい。
ベッドから飛び起きて、自分でもおどろくほどの速度で制服に着替える。
寝癖も直さず洗面所で顔だけパッと洗って歯を磨き、キッチンに向かって素のままの食パンをくわえた。
ダイニングテーブルをふと見ると、弁当箱が置かれてた。
近くには書置き。
「兄へ。起こしませんでした。
あまりに哀れなのでお弁当だけ作っておいてあげました。
これに懲りたらけなげな妹の存在に感謝してケーキのひとつでも上納するのがいいでしょう。
それと、予報によると夕方は雨が降るそうなので傘を忘れずに」
ファンシーなメモ用紙に記された丁寧な文字がやさしい。
悔しい気持ちを覚えながらも、それでもやっぱりありがたい。
弁当箱をひっつかんで鞄にいれると、俺は食パンをくわえたまま家を出た。
折りたたみ傘なら鞄に入れっぱなしだ。
◇
俺の通う高校の手前は勾配の緩やかな長い坂道になっている。
ゆっくりと歩くだけならなんということはないが、自転車で登ったり慌てて駆け上がったりするのはつらいものがある。
日頃の運動不足も重なって、体中が軋みをあげかねない。
そんなわけで、坂の手前にさしかかった段階で、俺はいいかげん諦めて歩くペースを緩めることにした。
慌てて出てきたのがバカみたいだが、仕方ない。
ポケットから携帯を取り出して時間を確認すると、もう授業が始まっている。
今までは純佳に起こされていたから、高校に入ってから初の遅刻ということになる。
人の気配のない通学路が俺の心をわくわくさせるのと同時に、なんだか憶えのない緊張のようなもので、心臓が早鐘を打つのを感じる。
歩くペースを落として見れば、坂の途中から見える景色はそんなに悪くない。
朝が来てしまうと、俺は昨夜の自分が何を考えていたのか、それがよく思い出せなくなっていた。
坂を登りきった先の校門の傍に、大きな桜の木がある。
思わず、立ち止まって、見上げてしまう。
桜の木。
今年は少し開花が遅かったせいで、桜の花は、満開とまでは言わないまでも、そこそこきれいに残っていた。
花びらが、風に乗ってかすかに舞い落ちる。
人の気配のしない空間に、大きな枝を垂らすように伸ばし広げた桜の木がある。
俺は、その様子を立ち止まって眺めている。
ふと、一陣の風が吹いて、桜吹雪が散った。
嘘みたいに、花びらが舞った。
その瞬間、ほんの一瞬の間、ひとりの女の子の姿を、花吹雪の向こう側に、俺は見た。
目が合った気すらした。
でも、それは本当に一瞬の幻視で、風がおさまったときには、もう彼女の姿はなかった。
あとにはただ、桜の花が咲いているだけだった。
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