桜の木の下
01-06 手作りクッキー
その日、部活を終えて家に帰る途中に、俺はひとりで『トレーン』という名前の喫茶店に立ち寄った。
喫茶『トレーン』は、コーヒーと軽食を出す、どこにでもあるような個人経営の店で、店内は落ち着いた雰囲気に装飾されている。あまり広くはなく、客の入りもそれほどでもなく、いつも顔見知りの客が店主と談笑しているような店だ。
店の看板娘兼マスターの一人娘である少女はまだ高校生で、学校から帰ると制服姿にエプロンを重ねただけの恰好で手伝いをしている。
鴻ノ巣ちどりという名前の、俺の幼馴染だ。
「隼ちゃん、いらっしゃい」
ドアベルが鳴る音を聴きながら店に入ると、ちどりがすぐにこちらに気付いてふわりと笑った。
いつも店に出ているときと同じように、ゆるくウェーブがかったセミロングの髪を後ろの低い位置で束ねている。
ちどりは俺のことを「隼ちゃん」と呼ぶ。
小学校高学年くらいの時期には恥ずかしくなったりしたものだが、さすがにもう気にしているのが馬鹿らしくなってくる。
『トレーン』はちどりの父親がはじめた喫茶店だ。
家のすぐ近くにあるからと、俺の両親が頻繁に利用していたものだから、いつのまにか俺も入り浸るようになっていた。
迷惑な客だとも思うが、そういう店だろうとも思う。
俺がカウンターに座ると、ちどりはすぐに水を用意してくれた。
「苦しゅうない」と偉ぶって見せると、「ははあー」とにこにこしたまま頭を下げてくれる。
ノリのいい奴だ。
「ブレンドでいいんですよね。何か食べますか?」
「いや、もうすぐ晩飯だし、ちどりの顔見に来ただけだから」
「そうですか。真正面から言われると照れますね」
さして照れたそぶりもみせずにちどりは受け流す。
彼女は、誰に対してもいつも敬語を使う。
理由は、よく覚えていない。
最初からこうだったとは思えないから、たぶん、漫画か何かのキャラクターの真似をしていたのが、いつのまにか取れなくなったんだろうと思う。
ちどりは店の奥のキッチンにいたらしいマスターに声をかけると、自分はそばにあった椅子を寄せて、カウンターを挟んだ俺の向かいに腰かけた。
「サボっていいのか、看板娘」
「ちょうど落ち着いたところなんです。わたしはコーヒー淹れられませんしね。隼ちゃんがひとりで店に来るの、ひさしぶりですね」
「そうだったっけな」
よく覚えていないけれど、言われてみればそうかもしれない。
もともと、学生の身分でそう頻繁に来られるほど、ここのコーヒーは安くないし。
「何か用事ですか?」
「そういうわけじゃないんだけど、元気かなあと思って。最近会ってなかったし」
「それは、でも、隼ちゃんに彼女ができたからじゃないですか」
「まあ、うん」
どうやら、そのあたりのことに気を使っているらしかった。
俺に彼女ができたと知ったときには、ちどりは「あの隼ちゃんが大きくなって……」といたく感動した様子で赤飯を炊こうとしたくらいだった。
固辞したけれど。
そんなわけで、
「まあ幼馴染とはいえあんまり仲のいい女の子が周囲にいてもよろしくないでしょう」
と言わんばかりにちどりは俺と距離を置くようになった。
まあ、どうなんだろう、そういうものなのかもしれないし、気の回しすぎという気もする。
でも本当は、たぶん、俺に彼女ができたから、というだけでもないような気がする。
そのことについては、いまさら俺も口には出さないけれど。
マスターがコーヒーを届けてくれてからも、ちどりは俺の前に座ったままだった。
こういう店では、常連と話をするのも仕事のうちという話はきくけれど、こいつの場合もそうなのだろうか。よくわからない。
「隼ちゃんこそ、どうなんですか?」
「俺?」
「なんだか、元気がなさそうに見えますよ」
「ちょっと、疲れてるのかもな。新学期、始まったばかりだし」
「あまり、無理しないでくださいね」
相変わらず、大人ぶったことを言う奴だ。昔から店に出て大人たちの話し相手に付き合わされていたら、こうなるのだろうか。
ブレンドに口をつけつつ、ちどりの表情を見やる。俺の元気がないというが、彼女の方だってあまり元気には見えない。
「べつに無理なんてしてないよ。夜は寝てるし、食事もとってる。それで十分じゃないか」
「それならいいんです。隼ちゃんは困ったことがあっても誰にも相談しないから」
それはお互いさまだろう、と言ったところで否定されるだけだから言わない。
「今日は部活だったんですか?」
「ああ」
「新入部員、入りました?」
「それがおもしろい話だったんだが……」
「だが?」
「うまく話せないから、いいや」
「そうですか。……文芸部でしたっけ?」
「そう」
ちどりは、なんだか複雑そうな顔をした。
俺が文章を書くということについて、思うところがあるのかもしれない。
無理もない。俺は昔から夏休みの宿題で読書感想文があればちどりに五百円硬貨を握らせて書かせていた。
そのくらい、文章を書くのが苦手なのだ。そんな俺が文芸部になんて入ってること自体、ちどりからすれば違和感だらけだろう。
なんとなく、俺は店の奥の方の壁に目を向けた。
『トレーン』の壁には、マスターが若い頃に描いたという二枚の絵が飾られている。
一枚は『夜霧』、もう一枚は『朝靄』。本当は三枚目があるんだ、と以前本人が言っていたのを覚えているが、見たことはない。
「誰も見たことがない三枚目があるって、神秘的だろう?」と言っていたが、どうだろう。
とはいえ、少なくとも、『夜霧』も『朝靄』も、綺麗な絵だ。
『夜霧』は、霧に包まれる夜の街を、『朝靄』は、靄の立ち込める早朝の湖畔を描いているらしい。
詳しくは知らない。どちらも、靄と霧に覆われてはいるが、曖昧に、人影のようなものを見つけることができる。
それがどんな意味を持つなのか、俺にはわからない。
「彼女さんとはうまくいってますか?」
視線を絵に向けているうちに、ちどりに世間話みたいにそう訊ねられて、戸惑う。
なんでだろう、やっぱり、昔なじみというのが気まずさを増長させるのかもしれない。
「あんまりうまくいってない」
適当なことを言うと、ちどりは「それはたいへん」と真剣な顔をした。
「喧嘩でもしたんですか?」と真顔で言うので、「そういうんじゃない」と嘘を重ねる。
「なんだか飽きたんだ」
「飽きた」と、ちどりが繰り返す。
「男っていうのは釣った魚には見向きもしない生き物らしいからな」
人類の半分を根拠もなく貶めてみると、なんとなく胸のつかえがとれた気がした。
「お姉ちゃん悲しいです」と本当に悲しそうな顔をされて、思わずうめく。
「同い年なんだからそのお姉ちゃんっていうのをやめろ」
ごめんなさい、と、ちどりは素直に謝った。
それから俺は恋人についての架空のあれこれのちどりに話し続けた。
メッセージがあったら五分以内に返信しないと怒られる、デートはなにもかもこちらに決めさせるくせに文句ばかり言う、だいたいそんなようなことだ。
ちどりはひとつひとつ真剣に頷いて、
「それはよくないです」
とか、
「それは隼ちゃんも悪いです」
とか、いちいち意見してくれた。全部嘘なのだけれど。
まあ、もちろんそんな嘘は俺の話ぶりから見透かされていたことだろう。
くだらない話を終えて帰るという段になると、ちどりは思い出したみたいにバックヤードへ向かって、小さなビニールの袋に入ったクッキーを分けてくれた。
「手作りです」と彼女は言う。
「彼女さんには、内緒にしてくださいね」
俺はクッキーをつまみながら帰路についた。ちどりの作るお菓子はなかなかに美味だ。
帰り道の途中、交差点で信号待ちをしているときに、ふといろいろなことを思い出しそうになった。
昔飼っていた猫のこと、死んでしまった祖母のこと、文章を書くことを決めた日のこと、今までついてきたたくさんの嘘のこと、これからつき続けるだろう嘘のこと。
そんなすべてが重なりすぎて、自分が今どこにいて、何を考えているのかすら曖昧になりそうな気がした。
文芸部のことを思い出す。新入部員が入って、部は存続することになった。
でも、それは結局のところ、俺にはあまり関係のないことだとも思う。どうしてだろう。
不足や不満なんてない。十分すぎるくらいに満ち足りている。欠けているものなんてひとつもない。
それなのに、いつも、自分がいる場所が、仮の場所だという気がしてしまう。
そんな感覚を振り払いたくて、俺はもらったクッキーをもう一枚口に含む。
甘みは舌の上で確かに広がる。信号は、すぐに青に変わった。
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