01-05 一枚の絵
文芸部室の壁には、一枚の絵が飾られている。
淡いタッチで描かれたその絵は、線と線とが溶け合いそうになじんでいて、ふちどりさえもどこか不確かだ。けれど、描かれているものの境界がぼやけてわからなくなるようなことはない。
鮮やかではないにせよ、その絵の中には色彩があり、陰影があり、奥行きがあった。
余白は光源のように対象の輪郭をぼんやりと滲ませている。
その滲みが、透明なガラス細工めいた繊細な印象を静かに支えていた。
使われている色を大別すると、三種になる。青と白と黒だ。
絵の中央を横断するように、ひとつの境界線がある。
上部が空に、下部が海に、それぞれの領域として与えられている。
境界は、つまり水平線だ。空に浮かぶ白い雲は、鏡のような水面にもはっきりとその姿をうつす。
空は澄みきったように青く、海もまたそれをまねて、透きとおったような青を反射する。
海と空とが向かい合い、それぞれの果てで重なり合うその絵の中心に、黒いグランドピアノが悠然と立っている。
グランドピアノは、水面の上に浮かび、鍵盤を覗かせたまま、椅子を手前に差し出している。
ある者は、このピアノは主の訪れを待ち続けているのだ、と言う。またある者は、いや、このピアノの主は忽然と姿を消してしまったのだ、と言う。そのどちらにも見えた。
その絵は、世界のはじまり、何もかもがここから生まれるような、無垢な予兆のようでもあったし、
何もかもがすべて既に終わってしまっていて、ただここに映る景色だけが残されたのだというような、静謐な余韻のようでもあった。
誰がいつ、その絵を描いたのか、それがいつから飾られているのか、知るものは今の文芸部にはいない。俺たちの先輩も、そのまた先輩も、それがいつから飾られているのかすら知らなかった。
「でも、なんだか象徴的だよね」
そう言ったのは、文芸部の先代の部長だった。
「ここに描かれているのは、空と海とグランドピアノ。ねえ、それでぜんぶなんだよ。それがすべてなんだよ。なんだかそれって、とっても綺麗じゃない?」
何か、途方もない祈りのように見えるのだ。
主が訪れることのない椅子、誰にも触れられないピアノ。
去年の春に文芸部に入部して以来、時間を持て余すと、俺はついその絵をぼんやりと眺めてしまう。
その景色の中に人の姿はない。それは何かを象徴しているのか、それとも単なる空想が描かれただけなのか。
いくら考えたところで答えには辿り着けない。
◇
「ウユニ塩湖みたい」と、真中柚子がそう呟いた。
彼女もまた、その絵を眺めている。
物知らずの俺のために、彼女はその場所について詳しく解説してくれた。
ウユニ塩湖。
南米ボリビア西部の広大な高原地帯に位置するその塩の湖は、世界でもっとも平らな場所だと言われている。雨季になって雨が降ると、その平坦な大地に、水は薄く静かに広がる。
その浅さゆえに、水面はさざなみさえも起こさず、空を映す巨大な鏡となって見る者を魅了する。
天と地がくっついたようなその絶景は、ただし、条件が揃っていなければ見られない。雨季でも運が悪ければその鏡を見ることはかなわない。雨が降らなければ、それはただどこまでも広がる塩の砂漠にすぎない。
地の塩。それはそれで圧巻の光景ではあるだろうが。
天空の鏡とあだ名されるその塩原は、標高約四○○○メートルの高さに広がっている(富士山よりも高いんだよ、と真中は言った)。
物見遊山で準備もなく向かえば、高山病の症状は避けられないだろう。
また、その面積は一万平方キロメートルにも及ぶという(岐阜県と同じくらいなんだよ、とやはり真中は言った)。
波打ち際から水平線までの距離が約四、五キロメートルだというから、歩くとなるとその広さは神秘的であると同時に悪夢的だろう。
どこまで歩いてもただ塩の海が広がっているだけなのだ。
もし道から外れて迷おうものなら、途方に暮れることになるだろう。
もはや誰も迷い人を見つけられず、迷い人はどこにも辿り着けない。
ただ茫漠と塩が広がるだけの砂漠に取り残されることになる。
どこに向かえばいいのかも分からぬまま歩き続けるか、それとも助けが来ることを信じ待ち続けるか、あるいはすべてを諦めてしまうか、いずれにせよ楽な話ではなさそうだ。
近年では、メディアやSNSで活発に取り上げられたことにより、観光客数が増加傾向にあるらしい。
観光客が増えればゴミが出る。なにせ標高四○○○メートルだ。処分も簡単じゃない。
現地の人間は苦肉の策としてゴミの埋め立てをおこなっていたらしい(いまどうなってるかはわたしも知らない、と真中は言った)。
騎兵隊とインディアンの関係に比べれば、多少の旨味があるのかもしれないが、それでも憤懣やるかたない現地人もいるに違いない。
そのことの是非を云々するほど、俺はその場所について知らない。
そんなもんだと、割り切ってもいいのかもしれない。
◆
「桜の森の満開の下には、秘密がある。春になるたびにうつくしい花が咲き誇るのを見て、人はおそろしさのあまり正気を失う。酒席の賑わいでごまかしはするが、そんなのは、桜が本当はおそろしいからなのだ。この小説の作者は親切なので、桜の森の満開の下の秘密について、それとなく、おぼろげに教えてくれる。それは、孤独というものであるのかもしれない、と。
けれど、その秘密が運んでくるものを教えてくれはするものの、その秘密が我々をどこに連れていくのか、我々はそれに対して何ができるか(あるいはできないのか)については何も語ってくれない。
ただ桜は毎年のように咲き誇る。それは押しとどめることも、逆らうこともできない。できることと言えば、ただ足早に通り過ぎようとすることだけだ。
この小説に登場する女は、どこか奇怪な一面を持つようにも思えるが、それは実のところ、作中の男からは、その距離、遠さ、隔たりゆえにそう見えたというだけで、幻想的な性質をもっていたのではないのかもしれない。
それは単に、現に生きている我々が、宿命的に抱える距離と隔たりを、象徴的に表現したにすぎないものなのではないか。
女の体は消え失せ、伸ばした手すらも透きとおるように消えていき、桜の森の下にはただ虚空のみが残される。覆い隠すように、花が舞い落ちている。
透きとおるようにうつくしくおそろしいこの風物は、我々の内に宿るものではないか。
(二年・大野辰巳)」
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