01-04 喜ぶべきこと
その日のうちに、大野と瀬尾は簡単な勧誘ポスターを何枚か完成させた。
画用紙に油性ペンで勧誘文句と部室の所在を書いただけの代物だが、ふたりはさっそく数か所の掲示板にそれを貼りにいった。
味方がいると、案外瀬尾も行動的らしい。
部室にひとり残された俺は、大野に頼まれた感想文を急いで完成させることにした。
桜の森の満開の下。著作権が切れているから、携帯があればネットでタダで読むことができる。
いい時代と言えばそうかもしれないし、悪い時代と言えばそうかもしれない。
いちめんに咲き花びらを舞い散らせる桜の森は、人の気を変にさせる。
そこには涯がなく、つめたい風がはりつめているばかりだ。頭上からはただひそひそと花が降り、それ以外には何の秘密もない。最後には、伸ばした手さえもかき消えて、あとはただ、桜の花が景色を覆い隠すように舞い散るだけだ。
盗賊と女の間には、何か巨大な隔たりがあり、それが女を神秘にも俗物にも見せる。
ふと、この話はひょっとしたら真実なのかもしれない、などと、そんなことを思った。
どうしてだろう。そんな景色を、俺は見たことがあるような気がしたのだ。
けれど、俺はいま桜の木の下にいるわけではなかったから、そんな妄想にとらわれて気が変になるようなことはなかったし、惑わされたのも一瞬だけだった。
最後には、ちゃんとそれらしい感想を書くことができた。
まあ、爆笑必至の書き出しとはいかなかったが仕方ない。
所詮、図書新聞の紹介記事だ。そんなに長い文章にもならないし、限界はある。
俺はコピーライターでもなんでもないのだ。
机から顔をあげると、思わず深い息が漏れた。
気合の入った文章ではないとはいえ、書くとなるとやはり肩が凝る。何か飲み物でもほしいものだ。
両腕を組んで前に伸ばし、体を軽くほぐしてから、そのまま机に体重を預けて目を閉じる。
そういえば、部室を出る前に、帰りに飲み物を買おうと思っていたのを忘れていたな、と考えたところで、扉が開く音がした。
「早かったな」
目を閉じたままそう声をかけてから、いや、べつに早くはないかもしれないな、と思った。
文章を書いていると、すぐ時間の感覚が狂ってしまう。
大野と瀬尾が出ていってから、どのくらい時間が経ったか、よくわからない。
「そうでもないよ」と、案の定、声は否定する。
けれど、その声は、俺が思っていた声ではなかった。
顔をあげて部室の入り口に目をやると、ひとりの女子生徒が立っている。
小柄で、綺麗な顔立ちをしている。どこが、というわけではないが、目を引くところがある。
肩まで伸びたダークブラウンの髪が、からだを動かすたびに空気を含んでふわふわと揺れていた。
さっき見た顔だ。窓の外を眺めていたとき、中庭にいた。
そして、俺に向けて手を振ってきた。でもそれ以前に、俺はこの子を知っている。
「せんぱい、なんでさっき無視したの?」
彼女は当たり前の顔で部室に入って来ると、閉めた扉に背中をあずけて、不満げに眉を寄せた。
「入学式が終わってからもうすぐ一カ月だよ。せっかく後輩が入学してきたっていうのに、せんぱいは『おめでとう』の一言もなしなの?」
さして不服でもなさそうに、彼女は言う。きっと、俺をからかって楽しんでいるんだろう。
「メールしただろ」
「直接言われてないもん」
「はいはい。おめでとう」
案の定、雑な反応を見せたって彼女は不満げな顔ひとつ見せない。
ただ気まぐれに言ってみただけで、なんとも思っていないのだ。
同じ高校に入学してきたという話は聞いていたが、実際に制服を着ているところを見るのは初めてだ。
真中柚子との付き合いも、中学二年のときに出会ってからだから、もう三年が経つことになる。
「ここ、せんぱいが入ってる部の部室?」
「そうだよ。何度も言うけど、一応年上には敬語を使え」
「せんぱい以外には使ってるもん。せんぱい、特別扱いだよ。やったね」
真中は笑いもせずにそう言った。適当に受け流されているのをありありと感じる。彼女はそのまま、壁に飾られた絵に視線をやった。
「へんなところ。文芸部だっけ?」
「知ってたのか」
「まあ、偶然。さっきポスター見たから」
すごいタイミングだな、と思ったが、何も言わないことにした。
真中がまた何かを言おうとしたタイミングで、廊下から足音と話し声が聞こえてくる。内容はわからないが、どうやらふたりが戻ってきたらしい。
真中は入口の扉から離れて俺の近くへと寄ってきた。こういうときだけは近付いてくるのだから嫌になる。
「だれ?」
「部員だよ」
そんなのわかるよ、と言われたけれど、それ以外に答えようがないだろう。
この警戒心の高さも、やむを得ないと言えばやむを得ないのだろうが、改善の余地がある。協力する気はないので自助努力していっていただきたい。
扉が開いて、ふたりは上機嫌な様子で帰ってきた。
瀬尾は満足げに定位置のパイプ椅子に戻ろうとする途中で真中の存在に気付いたようだった。
「だれ?」
真中は、いくらか緊張している様子だった。
よく知らない上級生ふたりと突然向き合うはめになったんだから当然と言えば当然だ。
が、それならこんな場所にいきなり来るなと言いたい。
黙り込んだままの真中を見ていてもらちが明かないので、結局代わりに答えることにした。
「中学のときの後輩」
ああ、と納得したように瀬尾が頷く。
「そうなんだ。……が、どうしてここに?」
「あの、ポスター、見たんです」
真中はささやかな声でそう呟いた。本当に人見知りするやつだ。内弁慶ともいえる。
「ポスター? すごい奇跡だね。今貼ってきたばっかりなのに」
そこまで言ってから、瀬尾は考えるような間をおいた。
「あれ、ってことは、入部希望?」
真中はきょとんとした顔をしたかと思うと、俺の方にちらりと視線を向ける。それは一瞬のことで、彼女はすぐに瀬尾の方へと向き直り、
「はい」
と、ためらう素振りもなく頷いた。
「ホントに? ほら、副部長! ポスターだってバカにできるものじゃないよ、ぜんぜん!」
瀬尾の素直さもすさまじいものがある。
「いいのか、真中。ほかに入部する部とか考えてたんじゃないのか」
「友達に誘われてたのはあったけど、どうしようか悩んでたし」
「ともだち」
「わたしに友達がいると変?」
「めっそうもない」
友達ができてよかったなあと思うだけだ。
「でも、この部が何をする部なのか、おまえ知ってるのか?」
「文芸部でしょ? だいじょうぶ。それともせんぱい、わたしに入部してほしくなかったりするの? だったら考えるけど」
「そういうわけじゃないけど、他にやりたいことがあるんだったら」
「あのね、せんぱい」と真中は俺の言葉をさえぎるように口を挟んできた。
「せんぱいには、いつでも彼氏といっしょにいたいなあっていうオトメゴコロがわからないかな?」
「……ううん」
あからさまに嘘だし、そんなにけなげな奴でも恋愛主義者でもないだろうが。
「彼氏」
瀬尾が録音機械みたいに繰り返した。
「彼氏。誰が?」
あーあ、と俺は思う。
真中は俺の方を見て、くすぐったがる子供みたいな、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
こいつがわかりやすく笑うのなんて、こんなときくらいだ。
「せんぱい。訊かれてるよ」
俺に言わせたいらしい。文句があるわけじゃないが、中学の時はあえて自分たちから説明することなんてしていなかったから、微妙にやりづらい。
「せんぱい?」
首をかしげて、真中は俺の表情を覗き込んだ。どきりとしてしまうのは仕方ない。
「これは、真中柚子という生き物だ」
「いきもの」と瀬尾が復唱した。
「俺と同じ中学出身で、ひとつ年下だった。今年、うちに入学したらしい。どうぞよろしく」
「説明になってませんよ?」
瀬尾はなぜか敬語になって、俺の視界に割り込んできた。なんだってみんな、この手の話題が好きなのか、よくわからない。誰が好きとか嫌いとか。
「真中は俺の彼女ってことになってる」
開き直って言葉にした途端に、大野と瀬尾のふたりが顔を見合わせて、
「うそだ」
と声をそろえて呟いた。
まあ、わかりきっていた反応ではある。しかし、聞いておいてこれは失礼じゃないか。
信じられない気持ちも、もちろんわからないではない。
真中柚子という人間は、少し特殊だ。たしかに、それでなくても顔立ちが整っていて、どちらかというと線が細いが、スタイルは悪くない。
深みのあるダークブラウンの髪は綺麗に肩まで流れている。単純に、真中はかわいい。衆目を浴びる程度には。
俺なんかと付き合ってると言われても、簡単に信じられないのは仕方ない。
でもそのかわいさは、言ってしまえば、それだけで言えば月並なかわいさだった。
絶世の美少女だとか、そういうのとは少し違う。
そういったものよりは距離が近い、自然な愛らしさのようなもの。
容貌としてはそんなものだ。もちろん、それだって十分すぎるものではあるが。
でも、真中の特殊性は、そんなところにはない。
彼女には、どこから来たのかもわからない、何のためかもわからない、そんな魔性が宿っている。
人の警戒心をふとほどいてしまうような、心の隙間を縫って入り込むような。
この世のものとは思えないほどの、幻惑的な親しみやすさ。
彼女自身にすら選択不可能の、ただ立っているだけで人を吸い寄せてしまう魔性。誰も気付かない。
気付かないうちに、飲み込まれる。
それでも、いっときに比べれば、ずいぶん落ち着いたものだ。
かわりに、彼女の表情の起伏はだいぶ減ってしまったけれど。
「うそじゃないです」と真中は言う。
「わたしはせんぱいにベタ惚れということになってます。せんぱいも素直じゃないだけで、わたしにベタ惚れです」
「……いや、どう突っ込めばいいのかわからん」
平静な表情で淡々と妙なことを言う真中に、大野はあきれて溜め息を漏らす。
「本当だ」と俺も付け加えておいた。
「俺は真中にベタ惚れという設定だ。真中も俺にベタ惚れだ」
「設定って言ってるじゃんか」
「せんぱいは素直じゃないので」
さくっと反応するくせに、大野が視線を向けると、真中はとっさに表情をこわばらせる。
「ま、それはもういいや」と瀬尾が話を区切った。まあ、付き合っていますと認められたらそれ以上追及もなにもないだろう。
「それより、本当に入ってくれるの?」
期待を込めた瀬尾の表情。それがまっすぐに真中に向けられている。俺はそれを不思議な気持ちで眺めている。
本当に、瀬尾がこんなに部に執着するなんて、思ってもみなかった。
真中はやっぱり一度俺の方をちらりと見て、茶化すふうでもなく、ふんわり笑ってから、正面をまた向き直った。
「はい」
彼女は頷いて、それで瀬尾は笑顔になった。
これでよかったのかなあ、と俺は思う。なんだか狐に化かされているみたいな気がした。
廃部だと騒いでいたけど、実際には廃部になんかならないし、勧誘なんかしなくても部員が集まってしまった。
とにかくこれで同好会落ちすらなくなったのだ。そんなことでいいんだろうか。これってなんだか、理屈に合わないような気がする。
ほとんど何の労力も払わず、あるいは、払った労力とは無関係に望んだものを手に入れて、そんなことが許されるんだろうか。
ふと窓の外を見ると、日差しの白さは均したように薄く視界にひろがっている。
「なんだかんだでどうにかなると思うよ」という、先代の言葉を思い出す。
俺は、制服の内ポケットにしまいなおした屋上の鍵を取り出して、それを手の中でもてあそんでみる。
緊張したようすの真中と、嬉しげな瀬尾が、何かの話をしている。
とにかく、文芸部は文芸部として存続することになった。それは喜ぶべきだろう、たぶん。
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