第4話

 隣国との国境は、深い森になっている。多くの旅人はこの森を迂回する行程をとるという。

 ――ここには魔物が出るのだ。


 フィアルカはラピスと共に山に入った。護衛や案内人はいない。巨狼ラピスがいてくれれば必要なかった。


 それでも一応――フィアルカは背囊はいのうをしっかり背負い直し、申し訳程度に、護身用の短剣を確かめた。


 狩猟については、フィアルカはまるで役に立たない。まるきりラピス頼りになっていた。弓も扱えないし、かといって怪我を癒す奇跡の力を使えるでもなく、せいぜい小動物をさばくことぐらいしかできないのだ。


 監視の目も他の人間の目も完全になくなったとわかると、ラピスは人の姿から灰色の大狼の姿に戻った。

 見知らぬ森の中で、磨かれた鋼のような色の美しい毛並みをした狼は、まるではじめからこの森の主であるかのようによく馴染んだ。長く突き出た鼻先をときおり空中でひくつかせ、かと思えば地面につける。


 フィアルカにはまるでわからない、なんらかの痕跡をたどっている。

 時折立ち止まる以外はほとんど迷わない灰色狼のあとを、フィアルカは素直に追った。


 木々の間の道なき道をゆき、凹凸の激しい土の上を踏んで歩く。

 突然、ラピスが止まって顔だけで振り向いた。

 瑠璃色の目と合い、フィアルカははっとする。


 ――目指す獲物が近い。

 ここで待てとラピスの目が言っている。了承の証にうなずき、手近にあった大きな木の幹に身を寄せた。


 灰色狼は更に前へ進む。だがその身のこなしは堂々としながらも音をたてぬ足運びで進んでいく。


 フィアルカは顔だけのぞかせ、息を潜めてその様子を見守った。

 少しして灰色狼が立ち止まり、身を伏せた。


 風が向かい側から吹いている。

 フィアルカが呼吸をもはばかる中、やがてそれは姿を現した。


 太く逞しい胴体に比して、短く細く見える四肢。しかし全身は巨大な針金のような剛毛で覆われ、突き出た鼻を鳴らしながらこちらに歩いてくる。

 一見するとそれは猪に似ていた。


 だがずっと大きい。なによりも、短剣ほどもあろうかという牙が顎の上下から突き出て交差しているのが目を引く。


(ウェイスボア……、あんなに大きなものなの……!?)


 猪に似ているウェイスボアは、だが立派な魔物だった。気性が荒く、熊のように獲物に執着し、雑食性。全身を覆う剛毛は鎧のようで、並の武器では傷一つつけられない。

 巨体に反しておそろしい速さで突進してくるため、人の足ではまず逃げられない。おまけに超重量のために、牙をふるわずともその速度で衝突されただけで命を落とす。


 この森はウェイスボアの生息地だった。国境を越えようとする人間がここを避けるのはそのためなのだ。


 フィアルカは思わず、手に持った短剣に力をこめた。

 ――それにしたって、いま目の前に現れたウェイスボアはかなりの巨体だ。

 他の森のウェイスボアより肥えている。仲間がいる様子も無く、さながらこの森の主のようだ。


 ちらりとラピスに目をやった。

 瑠璃の目をした灰色狼は、もはや体を起こし、堂々とウェイスボアの前に姿を現した。

 巨大なウェイスボアが、威嚇の声をもらした。その禍々しい響きにフィアルカは肩を震わせる。


 突如、神々しいまでの巨狼が現れて進路を塞がれても、ウェイスボアは怯える様子をみせなかった。逃げようとする気配さえない。


 再び威嚇の声をもらしたかと思うと、突然地を蹴った。

 フィアルカの足に振動が伝わるほどの突進。すさまじい速さで狼に向かう。


 ラピスは避けない。


 ――ぶつかる。

 フィアルカは喉奥で息を詰まらせた。


 野太く甲高い、獣の断末魔と狼のうなり声――そしてひどく重たいものが地面に叩きつけられる音と揺れが生じた。


 手が痛むほど短剣を握りしめたフィアルカの前で、決着は既に着いていた。

 一瞬だった。


 気づけばいま、目の前には四肢を投げ出すようにして倒れ、びくびくと巨体を痙攣させるウェイスボア――そしてその喉元に噛みついた灰色狼の姿があった。


 やがて倒れたウェイスボアが動かなくなる。狼の、鋼色の毛に覆われた顎がウェイスボアの血に染まっている。


 ――とたん、いきなり狼がウェイスボアを離す。

 同時に、フィアルカの耳にヒュンという音が響いた。


 灰色狼は飛び退いて距離をとる。どすっと重く何かが突き刺さる音。フィアルカの目は一瞬遅れて、音の正体――矢を見た。

 狼のいた位置にまっすぐに飛んで、木の幹に突き刺さったのだ。


 狼はわずかに前傾姿勢をとって牙も剥き出しにうなり声をあげた。瑠璃の瞳が睨んだ先を向き、フィアルカは大きく目を見開く。


 きりり、とかすかに弦を引く音が響く。

 弓を手に、矢をつがえている人間がそこにいた。

 すぐに、猟師ではないとわかった。

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