第3話
『一日だけ猶予をやる。それがせめてもの恩情だと思え』
元婚約者の声をまざまざと思いだし、フィアルカは奥歯を噛む。
猶予といったところで――フィアルカにはろくな財産がない。いまいるこの自宅も間借りしているだけだし、見回しても、売って当面の資金にできそうなものはない。頼れる親類や友人もいない。
ささくれ立ち、こみあげてくる感情を抑え込むように、呼吸に意識を集中させる。
「……当面の資金が必要ね。国境のあたりに生息している魔物がいれば、討って、素材として売る」
「それは構わないが、本当にそれでいいのか?」
頬杖をついたまま、ラピスが言う。
何が、とフィアルカが端的に問うと、瑠璃色の目をした男はうっすらと笑った。唇だけの、冷たい笑みだった。
「怒りを覚えているのだろう。憎悪しているはずだ。お前が望むなら、元婚約者殿とその周辺を微塵になるまで引き裂いてやる」
声の調子は明るかったが、フィアルカは背に冷たさを感じた。
冗談のようでいて、ラピスなら本気でそうするというのがわかっていた。自分がここで首を縦に振れば、彼は獰猛さを剥き出しにして、牙と爪でもって相手を言葉通りに引き裂くだろう。
――フィアルカの感じた怒りと悲しみ、苦痛は並ならぬものだった。
フィアルカは、頭を振った。
「そんなこと、しなくていい。ラピスの爪を汚すだけよ」
「なんだ、ずいぶん繊細な性格になったな? それとも臆しているのか? このままあいつらの言う通り他へ逃げれば、お前が汚名を晴らす機会は失われるかもしれないのだぞ。近隣では噂も伝わる。それでいいのか?」
半分からかいまじりの言葉がフィアルカの胸を鈍く軋ませた。
濡れ衣。汚名。
まともに考えれば悔しくて腹立たしくて、頭をかきむしって叫び出したくなる。
貴重な食材を盗んで売りさばいた――魔物の肉の調理に失敗してあやうく主を殺しかけた――そんなこと、自分がするはずがない。
なのに、信じてもらえなかった。いまごろ真犯人がどうしているのかと考えれば、それもまた耐えがたいほど苦痛を伴う。
フィアルカはかすかに震える息を吐き、吸い、それらの考えを締め出した。
「……わざわざ手を下さなくとも、そのうち自滅するわ。後で、思いっきり後悔すればいいのよ」
ほとんど意地のような気持ちだった。
フィアルカの、魔物からとれた食材をまともに調理し、味わって食べられるようなものにする――いわゆる特殊調理師としての技術は、もとから軽視されがちだった。
それでも、フィアルカは誠実に取り組んできたつもりだった。
軽視されても地味でも、ある体質の人間・・・・・・・には生死に関わるほどの重要な存在なのだ。
フィアルカの婚約者であった、ウダクス伯爵の次男マルティーノもまた、そうだった。
――おかしくなりはじめたのは、きっと別の特殊調理師を見つけたときからだ。
確かに、新たにやってきたもう一人の調理師と比べ、フィアルカは扱いにくい調理師だった。
雇い主の命令にすべて従うことはほとんどなかった。
だがそれは主を軽んじているのではなく、むしろ真剣に身を案じているがゆえだった。
猛毒を含む魔物の肉を扱うには細心の注意が必要で、注意したところでどうしても万一という可能性がつきまとう。
それを考えれば、ただ食べてみたいからという嗜好の問題に関してははねつけるほうが安全なのだ。ただの珍味美食とはわけが違う。
必要なものだけ、使う。生きるために食べる。調理する。むろん料理として妥協もしない。
それはフィアルカの矜持でもあった。
だが――マルティーノは、そうはとらなかった。
新たに雇われた特殊調理師は、先任のフィアルカを露骨に疎んじている様子だった。
マルティーノはあの男から何か吹き込まれたのかもしれない。フィアルカと違い、雇い主に媚びへつらうことのできる男だった。
――先任は傲慢、反抗的。
そのような印象が強くなってゆき、いくつも歯車が噛み合わなくなってゆき、吹き込まれた根も葉もない噂を信じ、フィアルカを突き放すまでになったのだ。
マルティーノのためを思ってあえて要求をはねつけていたことは、その都度食材をくすねて売り払っていた賤しい行為とまでに言われる有様だった。
(……元々、合わなかったんだ。だから結婚する前に別れて正解だった)
自分に強く、そう言い聞かせる。
「――あの男を愛していたのか?」
だから報復を望まないのか。
心の中を見透かしたようにラピスは言い、フィアルカは肩を揺らした。
「そういうわけじゃ、ない。……この程度の男か、って思ったしね」
精一杯おどけて言ったが、ラピスの顔を見ることはできなかった。
『行くところがない? なら私が雇ってやる』
マルティーノはそう言ってフィアルカ自身の特技――料理の腕を買ってくれたはじめての男だった。
口うるさいところはありながらも、自分のつくった料理に目を輝かせるところや、最後にはいつも『美味い』と言葉にしてくれるところは嫌いではなかった。
聖女として落ちこぼれであった自分を拾い、仕事を与え、安定した生活を与えてくれたのだ。
『お前の料理は悪くない。……一生、私の側で作れ』
婚約に至るとき、かけられたのはそんな傲慢な言葉だった。愛情というよりは胃袋をつかんだという表現がふさわしかったが、それでも嬉しかった。
自分の料理を必要としてくれたのだ。
――しかしいまとなっては婚約も職もささやかながら積み上げた信頼も名誉も失った。
ふいにガタンと椅子を引く音がして、フィアルカの意識は引き戻された。
「食事は終わった。出て行くと決めたならすぐに行くぞ」
ラピスは冷たく聞こえるほど澄んだ声で言った。
フィアルカは一瞬ためらいを覚える。――これまでの生活のすべてに対する未練が足に重くまとわりついているようだった。
だが、一つ呼吸をしてそれを振り払い、席を立った。
「……そうね。行こう」
――少なくとも、まだラピスが相棒でいてくれる。一緒にいてくれる。
それはどんなものにも代え難く、いまは何よりも心強いものに思えた。
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