第5話

 長身痩躯の男で、艶やかな長靴に上質な生地の脚衣と上衣をまとっている。

 だがその装いなしにも、高く形の良い鼻や、冷たく引き結ばれた唇に貴人らしさが見て取れた。

 きっちりと整えられていただろう、暗めの赤毛はわずかにほつれ、眉間にかかっている。しかしそれすら、鋭く狼を睨む榛はしばみ色の双眸を際立たせているようだった。


 弓矢を構える姿は堂に入っていて、鏃の方向をぴたりと狼に向けている。明らかに尋常でない大きさの灰色狼ラピスを見ても憶する様子がない。


 ――どうして、とフィアルカはにわかに混乱した。

 明らかに男は平民ではない。だが供の姿もない。第一、まともな人間なら近づかないというこの森に、どうして足を踏み入れているのか。


 否、それどころか普通の人間なら怯えるはずの、ラピスを前にして弓を構えている。先ほど放たれた矢はラピスを狙ってのもので――。


 フィアルカが硬直している間に、弓弦を限界までひいていた手が放された。

 再び矢が鋭く空を裂いて相棒に迫る光景が、意識を現実に引き戻す。


 ドッと音をたて、ラピスに避けられた矢はまたも木に突き刺さる。

 男は既に次の矢を放とうと構え、常人ならば裸足で逃げ出すようなうなり声をあげていた狼が地を蹴った。


「! 待っ……!!」


 ざあっとフィアルカの中から血が引き、とっさに木の陰から飛び出した。

 弓矢を構えている男が・・・・・・・・・・危ない。


 巨大な灰色狼は疾駆し、ほとんど一息に距離を詰めた。男もすかさず矢を放っていたが当たらない。


「ラピス! 待って!!」


 叫んで、フィアルカは走る。


 躍りかかってきた狼に、男は腰の剣を抜いていた。逃げない――戦うつもりであるらしかった。


 男は素早く一閃する。だが狼はその巨体からは想像もつかないほど俊敏な動きで避け、襲った。


 重い金属音が響く。

 狼の強靭な顎は男の剣を噛み、ほんのわずかに力を入れたように顎を揺らすと――鈍くくぐもった音が響いて刀身が噛み砕かれた。


 男はすぐに手を放し、後ろに跳ぶと同時、腰から短剣を抜いた。ほとんど丸腰と変わらぬ短剣だった。それでもなお構え、狼を睨んでいる。


 灰色の巨狼は小枝にそうするように、頭を振って剣の残骸を吐き捨てる。


「っ、待って!!」


 フィアルカは二者の間に飛び込んだ。ラピスを背に、男と向き合う。

 男の、やや緑のまじった茶色の目が大きく見開かれた。


「な、何をしている……っ!!」


 狼狽えて男は叫ぶ。

 フィアルカは男を見ながら、背後のラピスに言った。


「……攻撃しないで」


 不満げな獣のうなりが答える。

 とたん、動揺していた男に険しさが戻る。短剣を握る手に力がこめられる――全身で狼を警戒している。だがその獣の前にフィアルカの体があり、狼が動かなくなったのを見て、ひどく複雑な疑念の目を向けた。


「――どういう、ことだ。お前は何者だ」


 男は声を鋭く尖らせる。

 フィアルカは眉をひそめた。


「あなたこそ、どうしてこんなところにいるんですか。どうしてこの狼を攻撃しようとするんですか」


 強ばった声で問い返しながら、フィアルカは目まぐるしく思考をめぐらせる。

 ――男は密猟者という風情でもない。流れの猟師という様子でもない。このラピスに立ち向かってくるということはよほどの理由がある。


 男は眉をひそめた。


「俺が用があるのはそこの狼ではない。その魔猪ウェイスボアを――」


 言いかけ、男は突如顔を歪めた。強い痛みを堪えるかのように口元が引き結ばれ、足元がかすかにふらつく。


 だが耐えかねたように短剣を握ったまま胸を抑えるような仕草をし、片膝を折った。

 フィアルカは目を見開いた。


「ちょ、ちょっと!?」


 とっさに男のほうへ踏み出す。

 男の口からうめきがこぼれる。


「こんな、時に……っ」


 うめく側から呼吸が苦しげなものになる。

 男に近づいて思わず腰を屈めたところで、フィアルカは息を呑んだ。


 襟からわずかに見え隠れする首――その肌の上を、根を張るように


「あなたまさか……!」


 フィアルカは声をあげたが、男はフィアルカを見ていなかった。横顔は瞬く間に蒼白になり、それでも何かに急き立てられるかのように、ふらりと立ち上がる。ウェイスボアの骸へ手を伸ばし、足を踏み出す。


「待ってろ……いま、持って、帰――」


 かすれた声でこぼされた言葉に、フィアルカは目を見開いた。

 男は数歩踏み出し、ぐらりと倒れる。


「ちょっと……!!」


 フィアルカは慌てて駆け寄り、倒れかけた体を支えた。

 が、気を失った体は重く、よろめいてもろとも倒れそうになる。


「……まったく愚かで不快な人間だな。おい、そいつをさっさと捨てろ。獲物を早く血抜きして持ち運ばないといけないのだろう」

「! いくらなんでも、捨て置けるわけないでしょ……!」


 人に変化したらしいラピスは冷ややかだった。

 フィアルカはなんとか男の体を支えつつ、もろともその場にしゃがみこんだ。背囊をあさり、包みを取り出す。数粒残っていた飴の一つを、男の口に押し込んだ。


「気休めだけど、ちゃんと調理するまで待ってください」

「……おいフィアルカ」


 ラピスの低い、不機嫌そうな声を聞いたが、フィアルカは応じなかった。

 ――この症状が出た人間を見てしまった以上、放っておくわけにはいかなかった。


 名前すら知らぬこの男は、ラピスを攻撃しようとしていたのではない。ウェイスボアを欲していたらしい。しかもどうやら男一人のためだけではないようだった。

 そう知ってしまった以上、フィアルカには余計に見捨てるなどということはできなかった。

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